九、良き事を教えてやろう
物をたくさん壊されたあげく、カレーの鍋まで持って帰られてしまうという犬コロ騒ぎから明けて翌日。私は、またまたカレーを煮込んでいた。
そう言えば、結局モフモフしそびれてしまった。また来ないかな、獣人さん。できれば、もっと落ち着いた子を希望! これ、重要!!
私の隣では、粋くんが洗いものを手伝ってくれている。
「楓さん、ジャガイモは入れないんですか?」
粋くん、何言ってるの? それじゃ、私のカレーじゃなくなっちゃう。私は、母さんから受け継いだこの作り方を変えるつもりはないのだから。
「欲しい人は、セルフで茹でて、セルフでトッピングしてちょうだい」
粋くんが「ちぇっ」と言って舌打ちするのが聞こえたけれど、私は無視して壁の時計に目をやった。もうすぐ午後二時。いけない! そろそろ次のお客様のお着きだわ!
私は、側にあった手拭いで手を拭くと、割烹着を脱いだ。着物と髪型が崩れていないか鏡でチェックして、玄関へ急ぐ。
今回もまた、気を遣いそうなお客様なのだ。私は、ほっぺをパシッと手で叩いてから、玄関の引き戸を開けた。
そしていらっしゃったのが、これまた一癖あるお客様で。
「飛流芽さん! これ、不味いだけで、全然効かないじゃないですかー?!」
「何のことかの? 妾は知らぬ」
忍くんが追いかけまわしているのは、すでに一ヶ月は滞在しているお客様、飛流芽さんだ。あーあ、忍くんったら、また騙されちゃったのね。
飛流芽さんは、ツイツァンという世界のテンという国からお越しになったお客様で、御身分は皇女。高貴な方のわりには珍しく、ご自分のことは全てご自身でなさるため、手はかからない。これだと長期滞在になっても、何も支障は無さそうに聞こえるかもね。けれど、彼女には厄介な癖があって、それに従業員達は振り回されている。
「えー?! 教えてくださった薬草を煎じて飲んだら、筋力アップするって言ったじゃないですか?! そうでもなけりゃ、あんな不味いもの飲みません!」
「そんなに不味かったのか? でも、それで済んで良かったではないか。潤なんぞ、腹をくだしておったぞ。やはり口から出任せを言うものではないの」
「え?! テン国門外不出の秘薬じゃなかったんですか?!」
「当たり前じゃ。そんなもの、妾が知っているわけなかろう」
飛流芽さんは、翡翠色のお召し物の袖でそっと口元を覆い、上品な笑みを浮かべる。忍くんはブチ切れたようで、再び飛流芽さんに詰め寄ろうとした。
「はいはい! そこまで!! 廊下を走るのも駄目ですよ!!」
私は、手をパンパンと叩いて、二人を止めた。
「明日は、また別のお客様もいらっしゃるんですから、こんなことでは困ります! 飛流芽さんも、あまりうちの者達をからかわないでくださいね?」
飛流芽さんは、長い黒髪の先っぽを指先に巻きつけながら、にっこりした。
「楓、女性らしい体つきになれる体操を教えてやろうか? 気にしているのであろう?」
私は、はっとして、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「え……そんな……でも……いいんですか?!」
「こうするのじゃ」
飛流芽さんは、阿波踊りをとってもカッコ悪くアレンジしたような動きを始めた。変な掛け声までついている。
「これを……そうじゃな。毎日するといい。客が来た場合は、客の前でするといいだろう。良い余興になって、喜ばれることは間違いない」
思わず、「はい!」と元気よく返事しようとした時、思いっきり背後から頭を叩かれた。
「馬鹿。お前が騙されてどうする?!」
痛む頭を手で押さえながら振り向くと、翔がふんっと鼻を鳴らして立っていた。
「それに、体操なんかしても、どうせ変わりませんよ。これまでだっていろいろ試してきたのに、全然効果がなかったじゃないですか」
翔の隣では、潤くんがノートをパラパラ捲りながら、うんうんと頷いている。なぜ、あなたがそれを知ってるの?! こんなこと、誰にもバレていないと思ってたのにー!! っていうか、私が部屋であれこれしてるのをこっそり見てたってこと?!
私は、問い詰めようと潤くんに近づいた。が、それより先に翔が動いていた。
「潤、ちょっと来い」
潤くんは、翔に襟首を掴まれて、引きずられていった。翔、何であんなに怒ってたんだろう? ま、いいけどさ。
「楓。妾が、もうひとつ良き事を教えてやろう」
「な、何でしょうか?!」
たとえお客様がお茶目なほら吹きでも、私はとりあえず真面目に対応する。
「楓は、まだ年若いのに、よくがんばっておる。どんな客が来ても、本当に丁寧だ。妾のような者にも優しいしの。だが、がんばりすぎるが故に、見えていないものもあるようじゃぞ?」
「見えていないもの……でございますか?」
「そうだ。これを読んでいれば、楓のことがよぉ分かる」
飛流芽さんは、お召し物の広い袖口から何物かを取り出した。あれは……!! 潤くんのノートじゃないですかー?! なんで持ってるのー?!!
「本人のことなのに、本人さえ知らぬことが数多く書かれておるでの。さてさて、今後あの者とどうなるのかが楽しみじゃ!」
「はい?!」
飛流芽さんは、再びノートを袖の中に仕舞うと、すすすと衣擦れの音を立てて、廊下の奥へと消えてしまった。
ともかく、分かったことがある。おそらく彼女は、当分ここからお帰りにはならないだろう。あれだけ長居する気満々であれば、扉なんて絶対に現れないような気がする。
とりあえず気を取り直して、私は次のお客様の準備のために書庫へと向かった。そして書庫の入口の扉を開けようとした時、中から何やら話し声が聞こえてきたではないか。
「楓さんは、体型がアレですけど、脚は長くてお綺麗なんですよ! やっぱり着物は駄目ですって! 脚が全然見えませんから!」
「だーかーらー、お前はそれをどこでどうやって見たんだ?と聞いている!!」
「あ、やっぱり見たいですよね?! そうですよね?! 着物をやめて短めのスカートに変えましょうって、打診してくださいよ!」
「馬鹿。そんなの言えるわけないだろ?!」
「僕、言ってみましょうか?」
「……そうだな! 粋ならいけるかもしれない!」
お前ら、黙って聞いていたら、好き勝手なことばっかり言いやがって!! 昔から女将は着物っていうのが相場なの!!
私は、ガラッと大きな音を立てて戸を開け放った。
「あなた達!! 何こんなところで仲良くサボってるの?! 勇者様のお迎え準備、まだ終わってないでしょ?! さっさと持ち場に戻りなさい!!」
そう。明日は、勇者様が来るのだ。勇者……。なんて胡散臭い職業だ。これ以上、変な長期滞在のお客様を増やさないためにも、勇者様にはさっさとお帰りいただけるように、万全の準備をしておかねば。
私は、着物の袖が邪魔にならないように、腰帯でちょちょいとたすき掛けをした。そして、勇者様の出身世界ハレムサガに関する資料を本棚から取り出したのだった。