八、悪気はない
止まり木旅館の中では、お客様は自由にお過ごしいただけることになっている。もちろん、従業員の個人の部屋や女将の部屋、清掃中の大浴場は駄目だけれど、その外は基本的に出入り自由だ。
しかし、今回のお客様には、大変大変申し訳ないけれども、お部屋の外に出る際には必ず誰かを付けさせていただいている。だって、だって……!!!
――ガラガラガッシャンッ!!!
あーーー!! また壺が犠牲になった……!!! これ、母さんも大事にしていたものなのに。犬も歩けば棒に当たるとは言うけれど、ぶつかりすぎでしょ?! 涙が出そうになるのをグッと我慢して、粋くんを睨む。ちゃんと、見張っておいてって言ったのに!!
「お客様! お怪我はございませんか?!」
たとえ大切な備品を壊されてしまっても、私はお客様第一で動くことができる。
「大丈夫だよ。皮膚はわりと分厚いタイプだから」
お客様は、その犬耳とふさふさの尻尾をしゅんと垂らして、申し訳なさそうに俯いた。そう、この犬系獣人の男の子に悪気はないのだ。
「またやっちゃった……ごめんなさい」
また潤くんの仕事が増えたわね。
男の子は慌ててしゃがむと、割れた壺の破片を拾おうとしてくださる。すると、その破片が手から滑って、近くの障子にプスッと突き刺さってしまった。
この……犬コロ……破壊マシン!! お願いだから、じっとしてて! ちょっと可愛い顔してるからって、許してあげないんだからね! いや、追い出すことはできないから、許すしかないんだけどさ。後でお仕置きに、いっぱいモフモフしてやるんだから!!
「お客様。こちらに何かご用事でしたか?」
私は、若干顔を引きつらせながらも、お客様に笑顔を向けた。ここは、厨房の入り口。お腹でも空いたのだろうか。
「あの。この香りはなんですか? すごく、懐かしい気持ちになるんです」
私より少しだけ背の低い彼は、上目遣いでこちらを見上げた。
「カレーですよ。従業員のまかない用に作っていたのですが、召し上がりますか?」
犬コロは、こくんと頷いた。
カレーの煮込みが終わると、私は犬コロの客室へ早速お持ちした。本当は、最低でも半日ほど置いた方が、味がまろやかになって良いのだけれど。
「美味しい……」
「それはよろしゅうございました!」
犬コロの癖に、食べ方は上品だ。けれど、ここに現れた時の格好は、つぎはぎだらけの汚れた服を着ていて、栄養も足りていなさそうだった。ちょっとコルドくんを思い出したのは秘密。
「僕の国では、今、戦争をしているんです。戦争が起きる前は、お母さんがよくカレーを作ってくれました」
彼の母親は、最近銃撃戦に巻き込まれて身体を負傷し、山中の隠れ家でひっそりと傷を癒やしているらしい。けれども、戦時中ということで、まともな食料が手に入らず、なかなか容態も良くならないそうだ。
彼は、山の中で狩りをしたり、食べられそうな木の実、植物の採集を試みるも、ことごとく失敗。なぜか妙なトラブルに巻き込まれたり、崖から落ちてしまったり、せっかく捕った食べられる魔物を燃やしてしまったりしたとのこと。ああ、すごく目に浮かぶわ、その姿。
「このカレー、食べると何だか元気が出てきました。何が入っているのですか?」
私が作るカレーは、ドロドロ系。お肉以外の全ての材料はミキサーにかけてしまうので、味に敏感な人でない限り、すぐに何が入っているのかは分からないのだ。
「牛すじ肉と、ステーキ用の牛肉、玉ねぎ、トマト、りんご、パセリ、セロリ、人参、生姜、にんにく……です。もちろん、いろいろな調味料も入っておりますが」
「たくさん入ってるんですね!」
可愛い犬コロは、尻尾をパタパタさせながら、ペロッと一皿平らげてしまった。(もちろん、彼の周囲には何も置いていない。これ以上の被害を出してなるものか!) そして指を加えて、じっとこちらを見つめている。
分かってます。分かってますよ! おかわりですね?!
私は、持ってきた土鍋から、少し固めに炊いた白ご飯をお皿によそい、大鍋からカレーをたっぷり掬ってそれにかけた。そして、涎を垂らして待っている犬コロくんの前にそっと置く。
「あの、全部もらってもいいですか?」
「えぇ。よろしければ、召し上がってください」
すると、彼の背後に扉が現れた。
と言っても、その扉の形状は、しっかりとした角材を長方形に繋げただけのフレーム状態。なので、ゲートと言った方が正しいかもしれない。その向こうには、真っ暗な闇が広がっていた。
「お帰りの扉が開きました」
「ありがとうございます! カレーがあれば、きっと母さんも元気になります」
そう言うと、犬コロは駆け足で扉の方へ向かった。
お皿が一枚無くなくなってしまうけれど、それで済むなら安いもの。早くお帰りいただかないと、旅館がもっとボロボロになってしまう。
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
扉が消えると、自然と安堵の溜め息が出た。
「楓さん。お客様は、結局カレーを持っていかれなかったんですね」
巴ちゃんが頬に手を当てて、机の上に残された一皿のカレーを不思議そうに見つめていた。
「あ!!! 無い!!」
突然、後ろにいた粋くんが大声をあげた。彼は、犬コロがまた何かやらかした時に備えて、近くに控えていてもらったのだ。
「何が無いの?」
「カレーの大鍋と、ご飯の土鍋がありません!!!」
「何ですって?!!」
まさか……!! あの犬コロ、鍋ごと持って帰ったのか?!!
その時、ぐーきゅるきゅるきゅるという、間抜けな音が聞こえた。
「楓さん……」
笑いをこらえている巴ちゃん。ごめん、お腹の音の犯人は、私です。えへっ。
「じゃぁ、今夜のまかないって、これしかないっていうこと……?」
粋くんが、そろそろとカレーのお皿を自分の方へ引き寄せようとした瞬間、部屋の襖がスパーンッと開いた。
「そのカレーは俺のものだ!」
「いえ、私がもらおう!」
「いやいや、僕のです!!」
いつの間にか従業員全員が集合して、喧嘩を始める始末。飛び交う枕に、滑るスリッパ。ついに、忍くんが投げた靴べらが、限定一食のカレーの皿に突っ込んだ。あぁ、これはもう、食べられない。
「いい加減にしなさい!!」
私の一喝で、ようやく皆は動きを止めた。
「食べ物を粗末にするとは何事ですか?! 罰として夕飯は抜きよ! 翔。至急、土鍋とカレー用の大鍋を仕入れてちょうだい。明日、また作りなおすわ!」
「やったぁ!!」
飛び跳ねて喜ぶ従業員達。そこまで喜ばれると、作りがいがある。
でもね、静まりたまえ、皆の者。言ったでしょ? 今夜はご飯抜きなのよ? あまり騒ぐと腹減るぞ。