七、閑話 潤の話
僕がここに辿り着いたのは、一年程前のことだ。
元々、ある田舎で役人をやっていた。そう言うと、なんだかお堅い人のように聞こえるかもしれないけど、実際はふにゃふにゃの『ところてん』みたいなものだった。上から何か言われると、型にはめて押し流されるみたいな感じ。カッコ悪い? いや、楽に生きるにはこれが一番なんだよ。
やっていたのは、議会の書記係。議員さんがあれこれ言うのを一字一句漏らさずに聞き取り、記録していく役割のことだ。正確さが勝負の仕事だから、毎日コーヒー飲んで気合いを入れて取り組んでいた。
でも一番大変なのは、議会後の議員さんとの攻防。記録として残してほしくない発言があるだとか、誰々の発言はこんなふうに変更して記録してほしいだとか。やだねぇ、偉いさんってのは。すぐに銃とかで脅してくるし。
そしてある日、僕は、初めて賄賂として金を受け取り、記録を改変しようとしていた。
その時だ。記録した議会資料が保管されている部屋の扉を開けてみると……
そこには、見たこともない程立派な門がそびえていた。振り向くと、入ってきたはずの扉が消えている。一瞬にして冷や汗が背中を伝うものの、立ち止まっていても何も変わらない。とりあえず、目の前の大きな木製の門に近づいた。ふと見ると、看板が掛けられている。縦書きだ。止まり木旅館。聞いたこともない。というか、なぜ読めるのだろう。
僕は、旅館ということは人がいるに違いないと思って、門を強くノックした。すると、その勢いで門は開き、中が見えた。僕のいた街には無いセンスだが、明らかに人の手によって丁寧に整えられた庭が広がり、奥には、平屋の大きな家屋やいくつかの蔵がある。入口らしきところまでは、石畳の道が続いていた。
なんとなく、入りづらい。明らかに高級な宿である。これまで、長年下っ端役人をしてきた身には、少々敷居が高すぎる。しかし、どうにかして帰らねばならない。待つ人なんていないけれど、明日からは誰がうちの庭のハーブに水やりをするっていうんだ。生き生きと空に向かって枝を伸ばしている、花のついた庭の木々を見ていると、急に心細くなってきた。
「ようこそおいでくださいました」
声のした方を振り向くと、桃色の髪の女性が立っていた。着ているものは……記憶を辿ると、一昔前、ある島国で着られていた民族衣装に似ていた。薄紫色の上質な布地でできている。
「私は、ここ、止まり木旅館の若女将で、楓と申します。お着きになるのを心よりお待ちしておりました」
これが、楓さんとの出会いだった。
その後、楓さんは、あの手この手で、僕が帰れるように尽力してくれた。所謂、『おもてなし』というやつだ。温泉だとか旨い料理だとか。
でも、僕は一向に帰ることができなかった。僕よりも後に宿を訪れて、すぐに帰っていくお客が多い中、次第に焦りを感じ始めた頃。楓さんから一つの提案があった。
従業員にならないか、と。
従業員になると、もう二度と元の世界には帰れないらしい。じゃあ、楓さんはどこから来たんだ?と尋ねたい気持ちを飲み込んで、僕は即答した。
「ここに置いてください」
楓さんは、客が旅館に満足すれば、帰るための扉が現れると信じている。けれど、本当は少し違うんだ。心の中の問題が解決しないと、扉は現れない。そのことに気づいた時、僕はもう帰れないことが分かっていた。だって、僕の問題は、二度と解決しないから。やっぱり世の中、取り返しがつかないことってあるんだよ。あの時、金を受け取ったという事実は、消えてなくならない。だから、すぐに決断したんだ。
今度こそ真っ当に働こうと思った僕に与えられた仕事は、清掃係。まさかの、清掃係。僕は、やればできるタイプだ。なので、やれと言われれば、それなりにできるけれど、得意かどうかは別であって。
楓さんは、ああ見えて仕事に厳しい。おじさんの入口に立っている年上の僕に対しても、容赦ない。そんな中、気分転換に始めたのが、日記だ。日記というか、備忘録か。
止まり木旅館は、おもしろい。この場所の不思議は、一週間程で慣れたが、ここに居る人はもっとおもしろい。このおもしろさは、前職のスキルをフル活用して、書き留めずにはいられなかった。
まず、楓さんは、客がいる時といない時のギャップがすごい。言葉遣いも、所作も全く違う。
この前なんか、見てしまったんだ。
誰かが脱げ散らかしていたスリッパがあった。楓さんはそれを拾うと、手首のスナップを効かせて、スパーンッと長い廊下の上を勢いよく滑らせる。スリッパは、そのまま廊下の端にある靴箱の中に滑り込むと、きちんと踵が揃った状態で収まってしまったのだ。何この荒技?! 行儀が悪いのに華麗じゃないか!
後日真似しようと思って練習していたら、つまみ出されて庭の草むしりの刑を食らってしまった。もうしません。
旅館には、もう一人女性がいる。巴さんだ。彼女の着物は、特殊だ。袖の中にいろいろな物が隠されている。昨日は、フライパンが出てきた。ぱっと見、何も入っていなさそうなのに、大変不思議だ。どうやったら、あんな大きなものを収納できるのだろうか。
ちなみに、フライパンは、僕の頭を叩くために使用された。痛かった。
古株と言えば、翔さん。いつも手甲を付けている。手裏剣か苦無が仕込まれていそうで、なんとなく怖い。
そして彼の部屋は、誰も入ったことがないと言われている。いつか潜入してみたい。
謎が多い彼だが、他の人は知らない秘密を一つだけ僕は知っている。それは……言っちゃってもいいのかな? 翔さんは、いつも持ち歩いているものがある。青い飾り玉だ。黒い紐に通して首から下げている。本人は、うまく着物の中に隠しているつもりみたいだけどね。あれは、楓さんの帯留めの飾りと同じ物だ。仕入れ担当だからこそ、できたことだろう。ライバル多そうだけど、まぁがんばりたまえ。おじさんは、応援しているよ!
それから、研さんは、大浴場男湯の脱衣所をいろいろ改造している上、たまに浴場でもおもしろい実験をしている。忍と粋は、楓さんに卓球で勝つために夜な夜なこっそり練習しているし、みんな仕事を楽しんでいる。あ、これは仕事じゃないか。まあ、いいや。
ともかく、ここに来て良かった。全然飽きないし。
さて、今日は誰を観察してみようか。
「潤くん! またさぼってたでしょ!」
客室の押し入れに隠れていたら、また見つかってしまった。
「今日という今日は、そのノート燃やしますからね!!」
楓さん、ノートはこれ一冊じゃないんですよ。既に、三十四冊目ですから。
それに、いつか長期滞在のお客様が出た場合、娯楽としてご提供する予定ですので、燃やされては困ります。