五、新人メイド、楓
役員様とやんちゃ坊主の後は、しばらく普通のお客様が続いた。リストラされたサラリーマンや、中学受験に失敗した男の子。部活に打ち込むあまり、テストで赤点が続き、出席日数も足りなくて、留年が決定してしまった大学生など。どこか、人生の進路に関して行き詰まった人が続いている。皆、元の世界とは異なる雰囲気である止まり木旅館の生活を味わうことで、傷ついた心を癒したり、気分転換をして、無事に元の世界へお帰りになった。けれど、問題の根本的解決には全く貢献できていないところが申し訳ないばかりである。
次のお客様も同じようなパターンかしらと想像しながら、私は台帳を開いた。
「あらまぁ」
明日の昼過ぎにいらっしゃるお客様のお名前は、ミリアリア様。伯爵令嬢というご身分だそうだ。お年は花の一七歳。なんだ、同い年じゃない! って、……ごめんなさい。嘘つきました。本当は私、二十代です。しかも後半に差し掛かってしまいました。でも、心は永遠の一七歳!! え、見苦しいからやめろって?!
それにしても、なぜこんな身分の高いお嬢様が、うちに来るのだろうか。確か彼女が住む国は、さまざまな鉱石や宝石を産出していて、それを他国と交易することで繁栄している。伯爵令嬢ともなれば、日々キラキラしたものに囲まれて、蝶よ花よと育てられてきたにちがいない。人生が詰むようなことなんて、何もなさそうなのに。
「楓。わたくし、帰りたくありませんの」
「おきゃ……お嬢様。今頃、伯爵家の皆様もご心配されているかと存じます。そろそろ……」
「い・や・だ」
今回のお客様、ミリアリア様は、『お客様』呼びがお嫌いとのこと。本当は、その印象的なヘアスタイルにちなんで、『縦ロール』とお呼びしたいところだが、『お嬢様』と呼ばせていただくことになった。なんでも、お嬢様のお家のメイドさんには、そう呼ばれているらしい。だから私も同じようにしなければならないのですって。私、これでも女将なのに……。
忍くんなんて、どこからか私にメイド服を持ってきたのよ? 彼がこんなものを持っているわけないから、翔が仕入れたのかしら。余計なことを! お陰様で、若女将から転職した新人メイド、楓です。えへっ。
「そろそろ温泉とやらに入りたいわ」
「かしこまりました。お嬢様」
お嬢様が到着されてから、早くも三日間が過ぎてしまった。これは……あまりよろしくない兆候だ。うちのお客様は、だいたい初日か、少なくとも翌日の朝食後にはお帰りになることが多い。初めを逃すと、たいていずるずると長居コースになってしまう。お嬢様は、このタイプだから、とても従業員としては使えないし……もう、お先真っ暗。
その後、お嬢様は大浴場へ向かう支度をするのに一時間もかかってしまった。お茶会か夜会と間違えているのではないだろうか。お風呂なんて、タオル一枚あれば入りにいけるものよ! って、それはさすがにレディーとしては雑すぎるかしら? おほほ。
そして、ようやく浴場に到着したかと思うと、脱衣所のインテリアが質素すぎるとのお言葉。粋くんに急遽、お姫様仕様の長椅子や鏡台を準備してもらうことになってしまった。搬入した鏡台に可愛いボトルのお化粧品をずらりと並べてご機嫌をとった後は、ドレスを脱ぐのをお手伝い。もちろんこれは若女将……ではなくて、メイドのお仕事だ。脱がせながら、かけ湯の重要性についてしっかりと説明するところは抜け目ないでしょ? そしてようやく、湯船に浸かってもらうことができたのだった。
「お湯加減はいかがですか?」
「ちょうどいいわよ」
お嬢様は、初めて体験した温泉というものをいたく気に入ってくださったようだ。
たとえお客様のお相手に飽き飽きしてきて、先が思いやられたとしても、私は決して諦めない。まずは、聞き取り調査だ。お帰りへの道を切り開くには、お嬢様について詳しくなり、その後状況分析するしか方法はない。そして、分かってきたのは……
「つまり、婚約破棄系悪役令嬢ってことですね!」
お嬢様は、十五歳から王立の学園に通い始めて、あっという間に派閥を形成。その後、伯爵令嬢という身分がある上、お嬢様自身の猛アタックも実を結んで、見事第一王子の婚約者に決定したとか。しかし、翌年学園に入学してきた平民の地味な女の子に婚約者の座を奪われたらしい。あの手この手で反撃してみるも、その平民の子のチートな能力と王子の取り巻きやイケメン教師の前に野望は崩れ去り、泣く泣く退学。追い討ちをかけるように、伯爵家も悪事を働いたと他家から濡れ衣を着せられて、没落の危機にあるそうだ。
うわぁ。私、そんな展開の物語、いっぱい読んだことあるわー。
「だから、言っておりますでしょ? 帰っても、つらいだけですもの。せめて、伯爵家を再興することができれば……」
お嬢様は、手拭いの端を齧って、歯をギリギリ言わせている。
「お嬢様。貴族であることに、こだわりはおありですの?」
いつの間にか、言葉遣いがうつってきたかも。もう、嫌だわ。
「いえ、ございませんわよ? わたくし、貧しい暮らしをしたくないだけですもの」
「でしたら、お商売を始めてみてはいかがでしょうか?」
「何の商売を始めるっていうの?」
「温泉事業を始めるのです!」
「……なるほど。そういうことね!」
お嬢様は一見頭が空っぽそうなのだが、多少の知能はおありのようだ。温泉も、鉱物や宝石と同じ。掘り当てるものですものね。おそらく、お嬢様のお国では、温泉がある場所を調べるのが大変でしょうけれど、良いヒントにはなったご様子だ。婚約破棄された後に何かしらのチートで商売を大当てするなんて、よくあるパターン。是非とも、それを狙ってほしい。
「お嬢様、お帰りの扉が開きました」
まさか、温泉の中からお帰りになるとは。
現れたのは、美しい木目が印象的な薄茶の扉だった。ドアノブは、手にフィットするようにしなやかなカーブを描いていて、根元の方には薔薇の模様の装飾が施されている。鍵が二カ所も付いているところは、さすがお嬢様。
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
お嬢様、せっかくお帰りになるのに、あられもないお姿のままで申し訳ございません。残された豪華なドレスは、私の秘密のコレクションに加えさせていただきますので、どうかご心配なく!
私が恭しく頭を下げると、メイドさんカチューシャがお湯にポチャンと落ちてしまった。
「……楓さんはコスプレが好き。楓さんはコスプレが好き、と」
私の地獄耳アンテナが、誰かの小声をキャッチした。さっと振り向くと、桶の山に隠れるようにして、必死にメモ帳へ何かを書き込んでいる潤くんの姿が!!
「女湯で何やってるの?! 沈めるよ!!」
「後は任せて、楓さん」
ちょうど研さんが颯爽とした足取りでやってきたので、私は後を引き継いだ。おそらく、適切な教育がなされるはずよ。覚悟なさいね、潤くん!
コスプレは……そうねぇ。次は、乙女ゲーの主人公みたいな可愛いブレザーの制服が着てみたいな! なぁんてね。だって、私、学校って行ったことがないから。憧れなのよ。
私は、お嬢様がお帰りになったことを従業員に触れてまわると、書庫へ向かった。
止まり木旅館は、たくさんの本を所蔵している。いらっしゃるお客様のお迎え準備に役立てるために、様々な世界や様々な国について書かれた本が集められているのだ。
私は、お客様達が羨ましい。お客様は、皆つらいことがあって、ここに辿り着く。お見送りの言葉は、もう二度とそんなつらいことが起こりませんようにという願いを込めたものだ。もちろん、それは本心。でも、別の場所に行けるということ、そして帰る場所があって、そこに家族がいるということ。どうしても、羨ましいなと思ってしまう。
私だって、若女将の仕事がつらくなることはある。けれど、これは母さんから引き継いだ大切なお仕事だし、何よりもお越しになるお客様がいる。止まり木旅館は、やはり必要な存在だと思うのだ。
ともかく、私程度の苦労では、扉なんて現れない。それはきっと、これからも。でも、もし、現れたとしたらどうすればいいんだろう。私はその扉に飛び込むのだろうか。
柄にもなく、真面目なことを考えていたら、背後で翔がこちらを見つめていることに、私はなかなか気が付かなかった。