三十二、押し入れの中
襖をノックすると、すぐに返事があった。念のため、胸元に鍵を忍ばせていたが、今夜は使わずに済みそうだ。
「こんばんは」
「こんばんは?」
私は、あれから女将部屋に戻って、着物を普段着のものに着替えている。そして、やっと一人になって落ち着いた時、ようやくふつふつと羞恥心が湧いてきたのだった。
母さんが生きてくれていて、本当に良かった。父さんという存在が実在したこと。しかもあの方だったということは、本当に大きな驚きだったけれど、見守り続けてくれていたことは嬉しかった。
ここまでは、良しとしよう。
翔は、私が止まり木旅館の若女将を続けることを嬉しいと言ってくれた。いや、その前だ。私、翔にあんなことを……。皆が注目している中で、なんで言っちゃったんだろう。あれはどう解釈しても、私が翔に……好きって言ってるようなものだよね?! 顔の火照りがなかなか収まらない。
だから、二人きりになっちゃったら、もう何をどうやって話をしたら良いのか分からない。でも、この際いろいろ確認しておきたいこともあるし……。困ったな。
私は、密さんから返してもらった青いトンボ玉をぎゅっと握った。ちらっと翔を見ると、彼は静かに入り口の襖の方を睨んでいる。
「いくら親でも、盗み聞きは趣味悪いぞ」
え?! もしかして、そこに研さんがいるの? 翔は、鍵を外してほんの少しだけ襖を開けた。すると、そこには研さんだけでなく、密さんまでいるではないか。
「うちの娘は、お前にはやらん!!」
だから、今更親顔されてもね……。っていうか、研さん、そんなキャラだったっけ?
「翔。この駄目親父は妾がなんとか取り押さえておく故、今夜こそ楓を……」
「う・る・さ・い!」
翔は、ピシャリと襖を閉めると、すぐさま鍵をかけ直した。そして、押し入れの襖を開けて、私の方を向いた。
「ここ、入って」
まさか……監禁?! そう思った時には、私は翔に押し入れの中へ連れ込まれていた。
「何するのよ?!!」
「何かされたい?」
「ち、違うもん!」
「馬鹿、音漏れ防止だよ。何かするには狭すぎる」
「え?!」
そして私と翔は、狭い押し入れの中で、タブレット型端末の画面の灯りを頼りに話を始めた。
「楓、怒ってない?」
「何を?」
「千景さんのこと」
「だって、口止めされていたんでしょ? 仕方ないじゃない。それに、私が母さんの所に行けるように段取りを考えてくれていたのだし、感謝こそすれ怒るわけがないわ」
「……ありがとな。選んでくれて」
翔は、私の手を握った。手の先から、ビリビリと電気みたいなのが走ったような感覚がして、胸がキュンとする。私はそれを誤魔化すために、話題を変えた。お金のことだ。
「ねぇ、あの持って帰ってきた着物、高かったでしょ? あれのお金、どうやって工面したのよ?」
「そもそも、仕入れ全部の原資について言えることなんだけど、あれは導きの神が用意した金で買ったものなんだ」
翔によると、私の祖母にあたる万智さんが、そのお金の管理を行っているらしい。時の狭間にある宿の仕入れ係は、皆、万智さんと交渉して予算を確保し、それで物資を調達しているそうだ。
元々用意されていたのは金塊だったそうで、それを特殊ルートで通貨に換金して使っているとのこと。なんだか怪しくて、怖い。でも、別世界へ調達しに行く際は、金塊の状態のままの方がどこでも通用して便利なのだとか。なんだそりゃ?!
「じゃあ、万智さんが着物に大金を叩いても良いって言ったの?」
「あの糞ババアは、孫の楓に会いたいばっかりだからな。俺にさっさと止まり木旅館を乗っ取れってうるさかったよ」
あらまぁ。万智さんは、そういう立場なのね。そりゃあ、そうかもしれないけれど、それだと今後の仕入れ、翔は大変になるんじゃ……。だって、翔は万智さんの願いを反故にしたのだから、きっと今まで以上に予算をとるのが厳しくなるにちがいない。私がその懸念を伝えると、翔はニヤリと笑った。
「大丈夫。俺、仕入れ係は引退するから」
「礼くん?」
「そう。あいつ、人懐っこいタイプだから、あの婆さんとも何とかやっていけるだろ」
「じゃあ、翔はどうするの?」
「俺? んー、あの紋付き羽織袴の出番、かな?」
「何それ? あんな礼装、さすがに普段着には使えないわよ?!」
「違う違う。楓には、千景さんの黒引き振袖を着てもらって……」
それって……これって……もしかして今、すごく大切な話が始まってる?!
私が、思わず息を飲み込んだ時、タブレット型端末から、軽やかなアラート音が鳴った。
「あ、千景さんからメールだ」
母さん、メールとか使えたの?! っていうか、タイミング悪すぎ!
「もし、楓が止まり木旅館に残ることになったら、メールでやり取りできるようにしようって千景さんと話してて……」
翔は、何やら操作を始めた。アプリのダウンロードだとか、あたらしいアカウントを作るだとか、ブツブツ呟いている。何をしているのだろう?
「楓。千景さん、やっぱりすごいわ。機械音痴とか言いながら、ちゃんと使いこなしてる」
「どうしたの?」
「今から、千景さんと会おう」
「はい?」
翔は、タブレット型端末の画面にちょんっと触れた。そして、しばらくすると……
「母さん?!!」
なんと、画面に母さんが映っていたのだ。
「楓?! 翔くん?! あなた達、どこにいるの? 真っ暗なんだけど?」
「押し入れの中ですけど」
「え?! ……人に見せられないようなことでもしていたの?!」
母さん、他に言うことあるでしょ!? 愛娘との感動の再会なんですよー?







