三十、閑話 千景の話
私は、空大町の老舗温泉旅館の娘、千景。五人兄弟の長女である私は、母、万智と共に、若女将として日々、お客様のおもてなしに勤しんでいた。
そんなある日、旅館に一風変わった男性がやってきた。見た目は普通の旅行客なのだが、纏っているオーラが尋常ではない。カリスマ性と言おうか。色気と言おうか。とても言葉にならない程の特別な存在。一目見た瞬間、私は恋に落ちてしまった。
そんな彼は、客室へ案内した私に、すぐに正体を明かしてくれた。なんと、『導きの神』とのこと。彼もまた、私に一目惚れしたと言った。
導きの神は、憔悴していた。彼は、時の狭間に迷い込んだ人々を元の世界や居場所に戻すことを生業にしていたが、最近迷い人が増加したことで忙しくなり、疲労困憊の状態だったのだ。
そこで、私はこんな提案をした。
時の狭間に宿を作り、そこで迷い人をお客様としてお迎えする。そして宿の従業員がお客様をおもてなしすることで、彼の負担を軽くしてはどうかと。
この提案に賛同したのは、私の兄弟だった。旅館で生まれ育った彼らは、いつか自分の宿屋を持つことが夢だったらしく、時の狭間に新たな宿を開業すると名乗り出たのだ。その結果、導きの神は、時の狭間に五つの宿と、迷い人の自動振り分けシステム、宿運営に必要な仕組みなどを作った。
私は、これまで信心深い方ではなかったし、第一、老舗旅館の娘である。簡単に自分の結婚や将来を決めることはできない。でも、導きの神が母から出された条件をクリアしてくれたので、私は彼と一緒になり、時の狭間に移り住むことになった。
その後、私は時の狭間で楓を出産。楓のことは、導きの神が従える天女一行が世話をして助けてくれた。そして、時の狭間にやって来たものの元の世界へ帰れなくなったお客様を従業員として取り込みながら、止まり木旅館を運営し続けた。
しかし、夫である神がいることで、宿の運営が他の宿よりも有利になっていることを他の兄弟から妬まれ、私達は別居することに。巴ちゃんが来てからは、さして夫がいなくなったところで、実質的な差し障りはなくなっていたこともあり、泣く泣く離れることとなった。
それから時が流れて、あの日がやってきた。女将部屋から廊下へ出ようとした瞬間、ふっと身体が軽くなる感覚に陥った。気がつくとそこは……実家の旅館だった。
しまった!と思った。母から出されていた条件が発動したのだ。結婚の際の条件で、母、万智にもしもの事があった場合、自動的に私の身体は実家の旅館へ戻る仕様になっていた。しかし、この仕様が定められた時点では、まだ楓がいなかった。だから一緒に実家へ帰れるような仕様にはなっておらず、私一人だけがこちらの世界へ来てしまったのだ。
楓をこちらへ呼び寄せる方法は、一つしかない。楓が若女将を辞めて、仕入れ係になることだ。それならば、あちらとこちらを行き来できる。けれど、金銭感覚皆無のあの子に、仕入れ係が務まるとは到底思えない。それに、女将不在の止まり木旅館が、今後どうなるのかなんて、少し考えただけでも不安になる。
夫のことを思って作った宿。母のことを考えて作った仕組み。なのに、楓のことがすっぽり抜け落ちていたなんて。母親失格と言われても仕方ない。
翌日、こちら側へ様子を見にきた翔くんには、お願い事をした。楓には、私が死んだことにしてほしいと。おそらく、もうあの子には会えないのだ。死んだことにしておけば、楓も踏ん切りがつくのではないかと思ったから。この事は、私の兄弟にも徹底させた。
しかし、私は楓のために、少しでも何かをしておきたかった。
遠く時空の彼方から、この事件の全てを見守っていた夫、導きの神。彼は、この度の謝罪のために、私の元を訪れた。例外的に楓だけは、こちらへ寄越してくれないかと頼んだが、彼は首を横に振るばかり。時空の狭間における仕組みは、他の神様との取り決めもあり、もはや変更することが叶わないそうだ。そこで、私は彼に頼みごとをした。
「あの子はまだ半人前。あなたは、神である以前に父親でしょう? あの子の近くに居てやってほしいの」
こうして導きの神は、姿を変えて、客として楓に近づいたのだった。他の宿にバレないようにするためだ。
楓は、本当に可愛い娘だ。どんな母親でも、そう思うものかもしれないけれど、うちの娘は一際可愛らしいと思う。
例えば、楓がまだ幼い頃、こんなことを尋ねてきた。
「母さん。なんで、母さんの髪の毛はピンク色なの?」
「母さんはね、タラコが大好きだからよ。だから、タラコと同じ色なのよ」
「ふーん。じゃぁ、なんで私の髪の毛はピンク色なの?」
「それはね……楓は赤ちゃんの頃、お庭の池の中にいるプランクトンが大好物だったからよ」
「そうなの?」
「そうよ。ピンク色の元になる、ベータカロチンたっぷりのプランクトンをいっぱい食べていたのよ」
「そうなの? 私って、すごい?」
「楓は、とってもすごいよ!」
こんなことを信じてしまうなんて、もう馬鹿……じゃなくて、可愛い以外の表現が見つからない。それなのに、私は……。
翔くんは、仕入れのついでに、よく私の所へ立ち寄っては、楓の話をしてくれる。相変わらず変な客ばかりで大変そうだが、従業員の皆とは仲良くできているようだ。
しかし、今日の翔くんの様子はおかしい。何か思いつめたような表情をしている。
「千景さん。もうこれ以上、楓に嘘をつき続けるのは、俺には無理です」
「でも、今更……。それに……」
「前々から、準備してきたんです。今の俺の役目も、引継先の目処が立ちました」
「翔くん、もしかして……!! あなた、それでいいの?!」
「……楓のためにできることは、これだけですから」
「翔くん、それは本当に楓のためになることなのかしら?」
翔くんの話を聞いていれば、よく分かる。彼が、どれだけ細かく深いところまで楓のことを気遣い、大切に思っているのか。そして、そんな優しい彼に対する楓の気持ちも。
「……分かりました。翔くん、楓に本当のことを話してくれていいわ。でも、これだけは約束して? 決めるのは、楓よ。必ず、楓に選ばせてあげて」
「分かりました」
楓がどちらを選択することになるのか、私には分からない。けれど、彼女には今、転機が訪れているということ。それだけは確かだ。







