三、相応しい場所
止まり木旅館には大きな書庫がある。旅館創業時から従業員居住スペースの一角にあって、私も暇を見ては入り浸っている。今日も私は、一人静かに書架にある本を開いているところだった。
――ガラガラガラ……
引き戸が開く音がしたので振り向くと、膝に手をついて息を切らしている眼鏡小僧がいた。
「失礼します!」
もしかして今日も、またあのパターンか?! 彼は、お部屋準備担当の粋くん。男の子にしては少し小柄で、ふんわりとした緑色の髪は天使のよう。これで既婚なんて、詐欺としか思えない。
「ちょっと本を読ませてください! 駄目なんです。何度やっても、納得いかないんです! ここは、新たなインスピレーションを得るために……」
止まり木旅館では、いらっしゃるお客様それぞれに合わせて、お部屋の中身をカスタマイズしてお迎えしている。だって、いろんな人が来るでしょ? 皆が止まり木旅館本来の純和風文化に慣れ親しんでいるとは限らないんだもの。
粋くんは、とにかく凝り性。いつも庭の奥手に並んでいる蔵から、様々な家具や調度品を引っ張り出してきては、彼のセンスで組み合わせて部屋の中へレイアウトしていく。私からすると、常にそれらのコーディネートは完璧で、毎回同じ部屋のはずなのに違った顔を見せてくれるので、驚かされてばかりだ。
しかし、そのコーディネートのアイデアに行き詰まることもあるらしく、そんな時はすぐに書庫へ籠もってしまう。あまりに悩みすぎて、お部屋準備がお客様のご到着ぎりぎりになるのは勘弁だわ! よし、こうなったら……
「いいわよ。でも、ちゃんと間に合わせてね? でないと……」
粋くんは、すでに何冊もの本を抱えて、窓際の机に向かっていた。ちっ! 私の話を聞いていないだと?!
「今夜はピーマンづくし定食にするわよ!」
「そんなぁ?! 許してください、楓さーん!」
ふっ。みんなの食を握っているのは、この私! 実は厨房を仕切っているのです。簡単に逆らえると思うなよ? はい、そこ。悪魔とか、貧乳婆とか言って野次るんじゃない!
そんな私の叱咤激励は功を奏し、粋くんは無事にお客様がお着きになるまでにお部屋の準備を済ませてくれた。
「それでは、失礼いたします」
今はお客様をお部屋にお通ししたところ。私は、静かに頭を下げて襖を閉めようとした。
「待て」
嫌です。待ちたくありません。
「はい。いかがされましたか?」
本日のお客様は、アドミトという世界からいらっしゃった男性。先程から、おなかを空かせたハイエナのように部屋の中を彷徨って、「うー」とうなっている。
お願いだから、ステッキを畳に叩きつけないで! 畳が傷んでしまうし、そんなことをしてもお召し物に相応しい紳士には見えないよ?! 無駄なあがきは止めましょう!
「この部屋は……偉大なる芸術には不似合いだ!」
彼はイダイというお名前なんだけど、どう考えても、イタイの方がお似合いなのよね。もちろん、痛いという意味。
「申し訳ございません。アドミトとは異なる文化ですので、違和感はおありかと思います。ですが、快適に過ごしていただけますよう、できるだけのことをさせていただきますので、どうかお納めくださいませ」
これでも、うちの粋くんは優秀なのだ。
イタイ人は、床に座る文化をご存知ないから、和室に合う木製のおしゃれなテーブルセットとベッドが搬入されている。なんと照明までシャンデリアと交換されているという徹底ぶり。絶妙な和洋折衷の空間が広がっていて、素人目には完璧に思える。書庫にあったアドミトの本にあったイラストと見比べても、現地と遜色ない文化レベルを再現できている。純和風旅館が、ここまでやっているのよ? けっこうがんばっていると思うのだけれど。
「いや、駄目だ。これが似合う空間でなければならないのだ!」
イタイ人の手には、大きなガラス細工があった。
「恐れ入りますが、お持ちのものは、何でしょうか?」
「何? これが何か分からないだと?!」
分かるわけないじゃない! だから、聞いてるの!
「これはな……芸術品だ!!」
「……」
例えお客様が意味不明なことを言おうとも、私は決して動じない。
イタイ人の話によると、彼は裕福な商家の出で、仕事をすることもなく、芸術活動をしていたらしい。ほら、やっぱりイタイ人だ。
で、彼曰わく、最高傑作ができたけれど、誰からも認められなかったらしい。さもありなん。きっと、この人柄も影響しているに違いない。
「このままでは、あまりにこの芸術品が不憫だ。この偉大なる芸術に相応しい場所が、どこかにあるはずなのだ!……そう思っていたら、ここに辿り着いたのだが……」
イタイ人はじっと私を睨んだ。何なに? 止まり木旅館に来てしまったことが私のせいだとでも言うの? ならば、受けて立とうじゃないか! 絶対に満足させてみせる!
「あの……その芸術品、見せていただけませんでしょうか?」
イタイ人は、絶対に落としたり投げたりしないようにと何度も念押ししながら、私に手渡してくれた。私、そんな乱暴な人に見えるかしら? 失礼よね。
受け取ったガラス細工は、基本的に平べったい楕円形をしている。近くで見るとかなり精緻な技巧が施されていた。たくさんの幾何学模様が彫り込まれていて、基本的に透明なのだけれど、一部には白のグラデーションが入っている。確かに美しくはあるけれど、だから何?という感は否めないわね。
その時だ。私は良いことを閃いてしまった。
「分かりました。私、若女将の楓が、イダイ様の芸術品のための『舞台』をご用意させていただきます!」
その後、私は、イタイ人をなんとか説得して、芸術品とやらをお借りすることに成功した。
そして三十分後。
「失礼いたします」
いくらお部屋を洋風に改造しているとは言え、ここは旅館。私はイタイ人のお部屋に舞い戻ると、いつも通り座ってお部屋の襖を開き、丁寧に頭を下げた。
「私の芸術品に相応しい場所は用意できたのか?!」
「はい! 巴ちゃん、お運びしてちょうだい」
巴ちゃんも私の隣で頭を下げると、慎重にお盆を持って、部屋の中へと入っていった。
「これは……!」
イタイ人は、驚愕の表情で固まっている。
「お刺身と申します。アドミトでも、生魚は召し上がりますよね?」
「美しい……。何なのだ、このマッチングは!!」
私は、イタイ人の芸術品をお皿として使った。白い大根の敷きづまと大葉の緑。その上にあるのはもちろん主役、宝石のように光る天然本マグロの赤だ。そしてワサビも忘れずに。
皿とお刺身は、シャンデリアからの白い光を浴びて、とてもキラキラしている。その輝きは、大根や大葉のマットな質感があることで、より一層その艶やかさが際立っていた。
どうやらアドミトでは、こういったガラス製品を皿として使う風習がないらしい。上流階級では陶器、シルバー。下級階級では、質の悪い陶器や木製のものが主流だとか。でもそんな固定概念、捨てちゃえばいいんだ!
「相応しい場所を作らなくても、相応しい場所になれるのです。もちろん、イダイ様も」
イダイ様は、はっとしたように顔を上げた。
その瞬間、彼の背後に、重厚な焦げ茶の両開きの扉が現れた。
うん、狙い通り。彼は人の言葉に耳を傾ける力がある。これまでは、この酷いマイペースな性格のお陰でボッチだったかもしれないけれど、今後はこの芸術品とやらを通して、彼の理解者を増やしていってほしい。そして、誰かにとっての相応しい場所になってほしいものだ。そうすれば、文字通りの偉大な人にもなれるはず!
「イダイ様、お帰りの扉が開きました。どうぞ、お刺身はお戻りになってから召し上がってくださいませ」
イダイ様は、刺身の皿……ではなくて、芸術品を手に持つと、巴ちゃんに促されて扉の前へ移動した。
「この度は、ご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
私と巴ちゃんがゆっくりと頭を上げた時には、すっかり扉は消えてなくなっていた。
「楓、お疲れさん。うまくいったみたいだな」
声がした方向を振り向くと、米袋を担いだ翔が立っていた。
「あ、翔。新鮮なお魚、仕入れてくれていて助かったわ! ありがとうね!」
「そりゃ、客のためだからな。当然のことをしているだけだ」
ふんっ! 私のためじゃないことぐらい、分かってますよーだっ! 私はむしゃくしゃしながらも、ちょっと思い立って、近くのテーブルの端に備え付けられていた紙とペンを手に取った。
「楓さん、どうされたんですか?」
巴ちゃんが、私の手元を覗き込む。
「私もちょっと、芸術的なことをしてみようかと思ってね!」
え? 何で、そんな憐れみの目で見ているの?
私は、ささっととウサギの絵を描いてみた。どうだ?! なかなか可愛いでしょ!
「あれって……熊ですよね?」
「いや、コアラだろ? あいつなら、可愛い系のものを描くはずだ。こういう時は、絵そのものじゃなくて、あいつの行動パターンを予測する方がいい」
「で……ですよね! コアラを描くのがお上手ですねって言えばいいんですよね!」
……二人とも。ちゃんと、聞こえてるからね? そしてこれは、歴としたウサギですから!