十八、勉強するといいよ
厨房で、夕飯の下ごしらえをしていた。鶏胸肉に塩麹を擦り込んで、冷蔵庫へ。こんにゃくの味噌田楽も、夕方には味が馴染んでいるだろう。手拭いで、荒れた手の水分を拭っていると、入り口の引き戸が開いた。
「楓さん! できたよ!」
礼くんだ。すっかり大きくなったけれど、こうして名前を呼んでくれる時の無邪気さはあの頃のまま。うっかり頬が緩んでしまうのである。
「ここじゃ何だから、書庫で確認させてもらうわ」
私は、礼くんと連れだって書庫に向かった。
書庫の窓際の机に、二人並んで腰掛ける。礼くんは、彼の宿題を私の前に差し出すと、そわそわしていた。
「そうね、よく書けているわ。ここまで詳しく書いてくれていると、今後良い資料になるでしょうね」
「やったぁ!!」
ガッツポーズで喜ぶ礼くん。私より年上なのに可愛い奴め!
彼には、彼が元居た世界、アツイゾに関する情報を取りまとめてもらっていたのだ。今後、アツイゾからお客様を迎える場合、いちいち礼くんに説明してもらうのも、業務上支障がある。そのため、時間がある時に、こうして参考資料としてまとめてもらっていたのだ。これは、新人従業員の義務でもある。
「でも、ちょっと質問があるのだけど」
「ん? なになにー?」
私は、礼くんを睨んだ。
「なんで、半分以上が、『アツイゾ女の喜ばせ方』とか、『効き目抜群!王家御用達薬師のお墨付き!これでメロメロ、媚薬の作り方』だとか、『ホッテストのおすすめデートコース!これで君にも彼女ができる!』なのよー?!」
「もー、楓さんは全然分かってないなあ。この情報がいかに貴重か! いかに有効か!! これをお客様に見せたら、もうイチコロだよ!」
「イチコロなのは、礼くんだけでしょ?! しかも、若女将の私がどうやってこれをお客様に説明するの?! 無理ムリ!! それに、これ見て喜ぶのは男性だけでしょ?」
「大丈夫、巻末に女の子向けのアドバイスも書いておいたから。楓さんもこれを読んで勉強するといいよ!」
私、自分が世間知らずってこと、一応分かっているつもり。だからって、そんな、勉強だなんて……。ついつい読まなきゃいけない気がしてきちゃうじゃないの?!
「そんな、しかめっ面してたらシミとか皺とかできちゃうよ?! あ、そうだ。楓さんは、気分転換が必要なんだよ! よし、僕がちょっと手伝ってあげる」
「何するの?」
「任しておくれ、妹よ」
「妹?!」
「そう、いつも若女将として過ごしているけど、たまには普通の女の子として過ごしてみたらいいと思うんだ」
なんだか、礼くんが優しい。ちょっと、キュンとした。
「でも、いきなりそう言われても、何をしたらいいか分からないでしょ? だから、僕の妹として過ごしてみたらどうかな?」
「妹ねぇ……私、兄弟いないし、妹なんてテレビぐらいでしか見たことがないから、よく分からないわ」
「だと思ったから、ちゃんと教科書を用意してみたよ! 見てみてー!!」
礼くんは、懐から何冊かの本を取り出した。表紙には美少女のイラストが描かれている。早速、ページを開いてみた。
なっ、何これ……?!!
妹とお兄さんがお医者さんごっこしてるよ?! 「お兄ちゃんなんて、大嫌い!」とか言いながらキスしてるよ?! 次の本なんて、お風呂で鉢合わせた上、寝込みを襲う?! 妹って、なんてハードなの?! 世の中の妹さん達は、こんなに刺激的で、苦労の生活を送っていたのか!!!
「ね? 楽しそうでしょ? 今日一日だけでいいから!」
「わ、私……」
私が、後少しでうっかり頷いてしまいそうになっていたら、急に目の前の本が消えた。
「だから、お前が騙されてどうする?」
仁王様降臨。振り向くと、頭から湯気が上がりそうな程に怒った翔がいた。
「え……?」
「女性向けの雑誌でも、今度仕入れてきてやるから、それで我慢しな。これは没収」
「は、はい……」
翔は、こっそり逃げようとしていた礼くんの首根っこを掴んで、どこかへ引きずっていってしまった。
その夜、寝る前になって、ふと思い出した。
そう言えば、書庫に備え付けている紙と筆記用具の在庫を切らせていたのだ。明日になると忘れてしまいそうだから、私は仕入れの依頼をするために翔の姿を探した。
従業員控え室を覗いたけれど、誰もいない。となると、やはり部屋に居るのだろう。
私は、翔の部屋の前に立った。実は私、彼の部屋に入ったことがない。いつも「自覚が足りない」だとかよく分からないことを言われて門前払いされてきたのだ。さて、今夜は入れてくれるだろうか。私は、心を決めて、ノックした。
返事はない。私は、そっと、引き戸の持ち手に触れてみた。少し横に動かしてみると……開いた。鍵がかかっていなかったのだ。
「翔……?」
そっと引き戸を引いて、中を覗く。翔の気配はない。しかし、そんなことよりも、もっと目を引くものがあった。あったというか、僅かに浮かんでいた。
灰色の扉だ。
フレームがあって、金属製で、ちゃんとドアノブが付いている。でもその外見以上に、れいの『扉』であるということが、直感的に理解できる。
なぜ、ここに? なぜ……
「楓」
背中がぞわっとして振り向くと、着流し姿の翔が立っていた。
「見たのか?」
きっと、あれが翔の秘密だったんだ。あれを見せないために、これまで誰も部屋に上げなかったのだろう。そして、きっと私も、見るべきではなかったのだ。
私は、仕方なく、頷いた。
「ずっと、隠しておけるとは思ってなかったんだ。見られたのがお前で、まだ良かったよ」
翔は、私の頭の方に手を伸ばした。私は、小突かれるのかと思って、目を瞑ってそれに備えた。けれど、何の衝撃もやってこなかった。代わりに、ふんわりとした優しい手つきで、私の頭をそっと撫でていた。
「仕入れの方法、ちょっと変えようかと思ってる。また説明するから」
急に、仕事の話になって、少しびっくりした。
「その朝顔の柄の浴衣、似合ってるよ。おやすみ」
それだけ言うと、翔は部屋の中に入っていった。ガチャンと鍵をかける音がした瞬間、私は用件を伝えるのを忘れていたことに気がついた。







