一、ユリの花
――時の狭間。
それは、あらゆる時空、あらゆる世界から隔絶された、神々と天人が住まう異空間である。
そこには一軒の高級和風旅館が存在した。
取り仕切っているのは、楓という名の娘。
これは彼女の物語。
さぁ、おいでなさい。
『何か』に行き詰まった者共よ。
『扉』は今、開かれる。
「ようこそおいでくださいました!」
本日のお客様は、門から続く石畳のアプローチに立ち尽くしていらっしゃった。庭の花をじっと見つめるその瞳は、少し不安そうに揺れている。
「あの……ここは?」
「止まり木旅館でございます。お着きになるのを心よりお待ちしておりました。さ、どうぞこちらへ! ご案内いたします」
お客様は、セーラー服をお召しだ。白いスカーフの先を指で弄びながら、横目でこちらを睨んでいらっしゃる。
「あなたは?」
「申し遅れました。私は、止まり木旅館の若女将、楓でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます」
例え、若い生意気な小娘相手でも、私は一切手を抜かない。今日も藤色の着物に身を包み、ピンク色の長い髪は襟足にかかるぐらいの低めの位置でひとまとめにしてある。染み一つない真っ白な足袋を履いて、もう完璧。身体に染み付いた女将の礼をしてみると、意外なことにお客様も美しい礼を返してくださった。
「……何見てんのよ。早く部屋に連れてって」
「はい! ただいま」
例え、小娘の口が悪くても、私は笑顔を一切崩さない。少し離れた所で待機してくれていた従業員の巴ちゃんに目配せすると、赤紫色の着物の袖から鋏をチラリと見せて頷き返してくれた。同時に、パッツンの黒い前髪がさらりと揺れる。これぞ、あうんの呼吸。いや、さすがベテラン。これで分かっちゃうのね。
私は、右手をそっと玄関の方へ向けると、小娘の前を歩き始めた。
お部屋へご案内して、中の説明を一通り済ませると、お茶を入れて差し上げた。お夕飯のお時間をご案内すると、ようやく仏頂面の小娘から解放される。
「それでは五月様、ゆるりとお過ごしくださいませ」
私は、部屋の入り口で頭を下げると、座ったまま襖を閉めようとした。
「待って!」
五月様は、急に立ち上がって、わなわなと唇を震わせる。
「か……帰らせて!」
まただ。こういうことは、本当によくあるのだ。こちらとて、帰っていただけるものなら、今すぐにでも帰ってもらいたい。けれど、そうは簡単にはいかないのでこんなに苦労しているのだ。さて、この小娘は私の説明を信じてくれるだろうか。
「五月様が、この止まり木旅館に満足してくださいましたら、自然とお帰りの道が開けます」
ややこしいので、これ以上のご質問は受け付けかねます。さっさと厨房に戻らなければ、夕飯の完成が遅れちゃう。私は、とびっきりの笑顔で有無を言わさぬことを示すと、再び頭を下げて部屋を後にした。
そして一時間後。
「失礼いたします」
巴ちゃんが、五月様のお部屋を訪れた。中からの返答を確認してから、部屋へ入っていく。五月様は、私とは少し相性が良くない気がしたので、今回は巴ちゃんにお相手してもらうことにしたのだ。
お客様が『帰る』ためには、従業員が一丸となって、お客様を満足させなければならない。さて、五月様の心は、これで動いてくれるだろうか。
「五月様。お持ちしました」
私は、襖の影から二人を見守る。どうだ?! 見たか! 巴ちゃんの必殺技、贈り物作戦!
五月様は目を丸くして、何度か瞬きを繰り返した。
「なんで……知ってたの?」
「やはり、そうでしたか。このお花がお好きなのですよね」
五月様は、巴ちゃんが運んできた花器にさっと駆け寄った。生けられているのは、ユリの花。広いお座敷で、そこだけが凛とした空気に包まれている。細長い緑の葉に映える立派な白い花は、そこに上品な大人の女性が一人、堂々と立っているかのような存在感があった。
五月様は口元を両手で覆って俯いた。巴ちゃんは、小刻みに揺れ始めたほっそりとした背中に優しく手を当てる。
「五月様。私共は、五月様がどのようなご事情で止まり木旅館にいらっしゃったのか、存じ上げておりません。ですが、ここに滞在されることで、少しでもそのお心を癒すことができれば、幸いにございます」
五月様は顔を上げた。泣いて濡れてしまった頬に、セミロングの黒髪が一房張り付いていた。
「ありがとう」
その瞬間、五月様の背後に木製の扉が出現した。
今回は、出るのが早かったな。
「五月様、お帰りの扉が開かれました。良かったですね」
五月様は、巴ちゃんに促されて立ちあがると、少しふらふらした足取りで扉の前へ進んだ。
「五月様、いってらっしゃいませ」
ここまで来れば、私も登場して構わないだろう。
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
五月様は、あからさまに顔をしかめたが、もう時間切れだ。開いた扉から強い光が差して、彼女はあっという間に扉の中へ吸い込まれていった。五月様の姿がすっかり見えなくなって扉が閉まると、その扉も徐々に輪郭がぼやけて消えてしまう。いつものことだ。
「あー、終わった! 終わった! 巴ちゃん、お疲れ様!」
小柄な巴ちゃんの肩をバシバシ叩いていると、私は部屋の外からこちらを覗いている視線に気が付いた。
「あれ、もう帰ったの?」
「うん、ごめんね。せっかく急いで夕飯の材料仕入れてくれたのに」
彼は、仕入れ担当の翔。三百六十度が不気味な白い霧で囲まれている止まり木旅館に、毎日必要な物資を届けてくれている。頼んだ物を必ず期日までに手配してくれる手腕は一流だ。細マッチョだし、青みがかった髪や洗練された仕草は王子様みたい。後は、見目麗しいお客様にちょっかいを出すことさえなければ、もっと信頼が置けるのにな。
「別にいいんじゃないの? ここは、時の狭間の止まり木なんだから」
「そうね。あまり長居なんてするものじゃないわ」
ここは、止まり木旅館。何かに傷ついたお客様が、時空を越えて心身を休めにやってくる。
さて、次のお客様はどんな方かしら? 台帳を開くと、既に次のお客様の情報が浮かび上がっていた。
「みんな! 次のお客様の到着は、二日後よ! 準備よろしくね!」
いつの間にか集まっていた従業員達が、私の周りを取り囲んでいる。
「はい!!」
声が揃っていて気持ち良い。
さて、今夜も張り切ってまかないを作りましょう!