爪を研いだ猫
ドレスコードという言葉を、ご存知だろうか。なんでも、その場に適した服装でなければ、入店や入場を断られたりしてしまうケースがあるらしい。何を言いたいのかというと、王立シュテルンツェルト学園の制服姿だった俺、トリス、ミーツハートは、入口に立つドアマンに入場を断られてしまったのだった。ああ招待状を見せないといけないのかと思い内ポケットから取り出した招待状を見せても、ドアマンは首を横に振るだけでどいてはくれなかった。
ここで登場するのがドレスコードというわけだ。今回お呼ばれされたダンスパーティーには、どうやら最高のおめかしをしていかなければならないようだった。トリスが「あう……あうぅ……」と狼狽えるが、その点は心配いらなくなったーーもう一人のドアマンが近付いてきて「ネーブル様よりお話は聞いております。どうぞこちらへ」ーーと案内された。
カリオストロ王国。カリオストロ王城へと、俺たちは足を踏み入れる。
飛行機が着陸したのは、カリオストロ王国はカリオストロ王国でも、カリオストロ王城の敷地内だった。お庭に滑走路があるなんて……これを知っていたら、何に対してもそんなに驚かなくなってしまう気がする。次元が違いすぎる。生まれが違うだけで、こんなにも違いが生じるのかーー嫉妬は覚えないが、一日体験してみたくはあるよな。ジル・ヘルメス・ミウラ王子。
「似合わねー……」
自分の姿を改めて確認して、その似合わなさに思わず笑ってしまう。
白のスーツに、黒のスラックス。髪の毛はヘアワックスでばっちりとまとめられ、おまけに首元には蝶ネクタイというスタイリング。
似合わねーよなー。
この、ビッカビカに黒光りする靴も、なんだか落ち着かない。早くスニーカーに履き替えたい気分だ……。
それにしても。
カリオストロ王国。プバーテート大陸。ーーハルプカッツェ発祥の地とはいえ、このご時世、いくらなんでもハルプカッツェ人で統一されすぎじゃあないか……? 俺とトリスを除いて、今まで見た人、その全てがハルプカッツェ人だ。特に意味はないと思うけど、思いたいところではあるんだけど、なんていうか……ただでさえ居心地が悪いというのに、どこか拒絶されている感が否めない。
ダンスパーティーが始まるまでまだ少し時間があるが、周りのセレブたちは軽いものをつまみながら談笑している。
手持ちぶたさん……。
「お待たせ~」
と、そんな声が聞こえてきてその方向を見ると、スタイリストさんが見事にスタイリングした、ちょっぴりゴージャスになったトリスが、何やら優雅さを演出しながらこちらに歩いてきていた。
「どお? どおよ? うっふ~んっ」
微かな優雅さが台無しだった。そして、微かな谷間を強調するようなポーズをとるトリスは、燃えるような真っ赤なドレスに身を包んでいた。……似合ってる、って言わなければならないんだろうなあ。まあ、似合ってなくはないし、俺よりかは着こなしているようだし……ドレスに着られている感じは、悔しいかなあんまりしないし。
「ああ……違和感はないと思うぞ。初めて着ましたー、って感じはしないな。孫にも衣装とはこのことだ」
「あー、ジルくん。ちなみに孫にも衣装じゃなくて馬子にも衣装だから」
「ふーん。知ってたし」
「あっそ。……にしてもジルくん。それ似合ってね~! ぷふっ」
「吹き出す気持ちも分からないでもないが……できることならあまり触れないでいただきたいのですが。自分でも分かっておりますので」
「おほほほほ! ざ~す。見るからに読点使いには見えないざ~すからね。おほほほほほほ、おほほのほ! ざ~す」
「失礼ですが、あなた様は何者でいらっしゃいますでしょうか?」
「ヴァタ~シの名前はトリス・トトリト・リトリトリ。ざ~す」
「さてわたしは何回トリと言ったでしょうか! みたいなクイズで使われそうな名前だな……」
正解は五回でした。
「っていうかミーツハートは? 一緒の部屋じゃなかったのか?」
「一緒の部屋、だったんだけど……もうすぐじゃないかな~? ほら、女の子は色々時間がかかるんだよ。野郎どもとは違ってね」
じゃあ、トリスは手抜きスタイリングだということか。
ここのスタイリストさんは、よおく分かってらっしゃる。
「んー……一応、カリオストロ王国はミーツハートの故郷だし、王城は実家っていうことになるわけだからなあ……。積もる話もあるだろう」
「だけどさ~。ネーブルちゃんも言ってたけど……、ミーツハートさん、大丈夫かなぁ。ちょっぴり心配かも。--それに」
トリスは、ダンスホールを見渡して、
「--なんだかな~」
「言いたいことは分かる。分かるけど、それは心の中に留めておいたほうがよさそうだ。せっかくのダンスパーティー、十二分にエンジョイしたいからな。主に食事面で」
「だね~」
「……。なあ、お前は食べすぎないほうがいいんじゃないか? ウエストのラインがはっきり分かる分、女子としてはできる限りセーブするべきだろ」
「その件に関しては、おっけ~おっけ~大丈夫。こう……」
ふんっ! --と、腹をへこませてみせるトリス。それを維持して乗り切る魂胆なのだろうが、果たしてどうなんだろう。どのくらいの時間堪えきることができるのか試したことがないのでなんとも言えないが……それでもこれだけは言える。トリス、お前は愚かだ。
「す……す、りむ……でしょ⋯⋯」
「まあスリムだな。でも、やり方はスマートじゃない」
「ーーんはああああぁっ」
腹を元に戻すトリス。
「んじゃあ気にしないことにするよ」
「鋼どころじゃない、ワールドオブリヒト最強硬度の精神を持っているんだな……お前は」
「うえっへん! ドヤァ」
「褒めてない……」
「まったく……お主らときたら」
と。どうやらミーツハートのおめかしが完了したらしい。俺とトリスが同時に声のしたほうを見てみると、まあ当然ではあるのだが、ミーツハートがこちらに向かって歩いてきていた。
……正直に告白すると。
王立シュテルンツェルト学園の制服を着ている時のミーツハートは凛としていてどちらかというとカッコイイ部類にあたると思うのだが、ドレスアップし、長い黒髪をまとめたミーツハートのその姿を見た瞬間、俺はーー俺は。
美しい。
そう、思った。
美しい女性がこちらに歩いてくるーーそれだけで、心臓が飛び出てしまうのではないかと思うほど、ドキリとした。
恋。ーーというのは俺には残念ながらよく分からない感情だけど、たぶん、恐らくはこんな感じでやってくるものなのだろう⋯⋯。
夜がやってくる少し前の淡い紫色をしたドレスに身を包んだミーツハートは、しかし、やっぱりというかなんというか、期待を裏切ることなく一ミリたりともブレることなく、ライム・ミケット・ミーツハートはライム・ミケット・ミーツハートだった。
「いつ何時でも、お主らはお主らなのじゃのう。一緒にいて恥ずかしくなるレベルでな」
「月並みだけど……、その台詞、そっくりそのまま返してやるよ。そんなんじゃあ、せっかくの衣装が台無しじゃねえか……」
「は? どういう意味じゃ? それは」
「あぅ!? ……えぇ……とぉ……、あぁ……」
狼狽を絵に描いたような男子高校生が、そこにはいた。
完全に思考が鈍っていた。いつも以上に、働いていなかった。
ていうか、ミーツハートのことが直視できないのだが。中身はミーツハートのままだけど、外側はまるで別人だから、俺の人見知りモードが遺憾なく発揮されているのだった。
「うぅ⋯⋯」
「ミーツハートさんが綺麗、だってさ。ジルくんが」
「ゔ!?」
なんてことを言ってくれるんだ、こいつは! このアホな幼馴染みは!
ーーと、一方のミーツハートの反応はというと、
「まあ⋯⋯これでも妾は、元王女じゃからのう。似合うのは当然じゃろうが。三年前まではダンスパーティーやら食事会やら、そういったものは日常茶飯事じゃったからなあ。王女様としてのポテンシャルは未だ健在だということじゃーーかと言って、絶対に戻りはしないがな。プリンセスリターンは考えておらん。可能性も、また皆無じゃ。妾は一流の錬金術師になると決めて……、そうして、シュトラール大陸に渡ったのじゃからのう」
「その時は、モモモさんと一緒に?」
トリスがそう訊いた。
すると、ミーツハートは呆れたような表情になる。
「モモモには残るように言ったのじゃがな……いくら言い聞かせても、あやつはしつこく食い下がった。そうーー本当に。本当にしつこく。まるで長年洗わずに使い続けたティーカップにこびりついた茶渋のように、頑固でしつこかったのう」
「……ミーツハートさんのことが大好きなんだね、モモモさん」
「これがわたしの仕事ですからー、とかなんとか言っておったがな。あくまでも業務の一環として、なんじゃろう」
「そういうモモモさんはどこにいるんだ? さっきから姿が見えないけど……」
「ああ、あやつならクロロのところじゃ。久し振りに会ったのじゃからなーー姉妹同士、色々話したいこともあろう」
「え……あの人たちって姉妹だったのか!?」
それにしても、似てねえええええええ! 義理の、とかでないと納得できないくらいに似てなさすぎだろ!
「ちなみにクロロが妹じゃ」
「嘘だろ!?」
「嘘じゃ。このような分かりきった嘘を鵜吞みにするお主のほうが嘘じゃろ?」
「ぐっ……また思考がーー」
妹が姉の使用人。姉が妹の使用人。
なんだか、色んなところが逆な姉妹だなあ……。ん、いや、立場が逆転しているのはミーツハートとネーブルのほうだけか? これ以上、俺の頭を混乱させないでほしいのだが……。
「お客様、お飲み物などはいかがでしょうか」
「ああ、ありがとうございますーー」
ウエイトレスさんが飲み物を持ってきてくれたのでありがたく受け取る。細いグラスには、およそ飲み物には似つかわしくない、この世の飲み物とは思えない、時間の経過と共に色が変わる虹色の液体が注がれていた。細かい泡が、シュワシュワと弾けている。
ていうかそのウエイトレスは誰あろう、ミーツハートの妹であるネーブルだった。ネーブルもまた、煌びやかにドレスアップ済みだ。
「あ、ネーブルちゃん。おいっす~」
「遠路遥々よく来てくれたわ。飛行機とはいえ疲れたでしょう。はい、どうぞ。ーーお姉様も」
はい。とグラスをミーツハートに渡すネーブル。トレーを使わず指に挟んで持ってきていて、なんだかファミレスや居酒屋の熟練店員さんみたいだ。
「……毒を盛っているのではないじゃろうな」
「お姉様……。さすがにそれは引くわよ」
「そうだぞミーツハート。せっかくネーブルが持ってきてくれたんだ。素直にありがたく受け取っておけよ」
「そうよ。ジルの言うとおりよ。それにお姉様はこの『ポイズンスター』が好きでしょう?」
呼び捨てかよ。まあいいけど。
「ていうか『ポイズンスター』って……。めちゃくちゃ怪しいネーミングだな。この色ーー確実に人を殺してるだろ」
「『ポイズンスター』はカリオストロ王国では知らない者がいないくらい有名な、ずっと昔からあるジュースなのよ。ハルプカッツェ人なら必ず飲んだことがあると思うわ」
「へえ……、じゃあ、一口いただいてみるとするか」
言って、ハルプカッツェのソウルドリンクと言うべき『ポイズンスター』を、俺はオレンジジュースやサイダーを飲むみたいに、軽い気持ちで飲んでみた。
--軽い気持ち、と言っていることからも分かるとおり、『ポイズンスター』は、しかし俺の口には合わないようだった。
いや、ここは正直に言おう。
--くっそ不味うございます!!
心の声が聞こえていたのだろうーー俺の表情を見てか、ネーブルは、
「誰しも最初は同じような反応をするわ。でも、わたくしたちには、なぜかこれがクセになってしまうのよ。あなたたちはどうかしら?」
俺に続いて『ポイズンスター』を飲んだトリスの表情も、ぐにゃりと歪んでいた。
「大抵の食べ物とか飲み物は何かしらの例えが思い浮かぶんだけど~……。これは『ポイズンスター』だとしか言えない……」
「ドリンクバーの全てを混ぜ合わせてもこうはならないだろうなあ……」
文句を垂れつつ、俺とトリスは、半ば自動的に『ポイズンスター』の入ったグラスを傾けるーーああ、どうやらネーブルが言っていたのはこういうことらしい。
「にゃふふ……その様子だと、ハルプカッツェ以外にも効くみたいね」
「ん~……なんか」
トリスの言葉に、俺は続けた。
「屈辱的……だよな。なんとなく。そこはかとなくなんとなく」
「ポイズンスタースパイラルと命名しようと思うのだが、どうかね?」
「いーんじゃねーか? 別にどうでもいいし」
言いつつも、ゴクリと一口。う~ん……まっずい!!
「ネーブル、ここにいてよいのか。そろそろ始まるぞ」
「そうね……もっとお姉様とおしゃべりしたかったけれど、主催者が不在じゃあ、始まるものも始まらないものね。それじゃあ、一仕事してくるとしますか。ーーお姉様、ジル、トリス、楽しんでいってちょうだいね。にゃふふ……」
ネーブルはひらひらと手を振って、ダンスホールを縦断していく。すれ違う人すれ違う人がネーブルの存在に気付くと、びっくりしたような表情を浮かべてから慌てて頭を下げる。疑っていたわけではないのだが、ネーブル・ブリューゲル・カリオストロは、やっぱり改めてカリオストロ王国のお姫様だったんだなあ、と思った。
ダンスホール、と一口に言っても、規模で言えば大型の劇場のそれだ。しかも城内の一角である。そんなダンスホールには、百人以上のハルプカッツェ人が入場していてーー他にも、高い位置に設置されている観覧席? にも、楽器を持った数十人のハルプカッツェが控えていた。どうやら生演奏でダンスをするらしい。この日のためにプロ集団を雇った……んだよな、たぶん。
金かかってんなあ……。
ネーブルが壇上に立つと、招待客たちは自然と会話をやめて視線を集中させる。やがて、静寂の中、ネーブルは話し始めた。
「今日はこのダンスパーティーに来てくれてどうもありがとう。好きなように食べて、飲んで、そして踊りましょう。ではーー始めようかしら」
パチン! と指を鳴らすネーブル。それを合図に、控えていたハルプカッツェ楽団が演奏を始めた。
もっと長いこと学園長先生のように色々と語るものだと思っていたが、意外とあっさりとした挨拶だったーー招待客もそう思ったのか多少戸惑っている風だったが、一人が動きだせば戸惑いはそれまでで、各々好きなようにダンスパーティーを楽しみだす。これでいいのかお姫様。
「おっしゃ~! 食うぞ~!」
気合い十分なトリス。
「ねえミーツハートさん、料理ってどこなのかなあ!? はよお! はよお!!」
「トリス・ローゼンクロイツ・サクラザカ、お主……」
呆れながらも、ミーツハートはホールの隅のほうを指差す。そこには様々な料理が並んだ台が置いてあって……、どうやらビュッフェスタイルでの食事となるらしい。すると、ちょうどシェフらしい男性が、出来たてほやほやの料理を運んできたところだった。しかも人が少ない。ゆっくり選ぶにはありがたい。
「なんせタダじゃからのう。死ぬほど食うがよい。できるのならば食い尽くしても構わんぞ」
「い~よし! 行こうジルくん! 目標は全部の料理を制覇することだよ! ペース配分、これ大事! では……」
吶喊! と叫び、トリスは料理の元へと突撃していったーーどんな覚悟をしているんだ、俺の幼馴染みは……。
「……ミーツハートはどうする? とりあえず一緒に食べないか? そこら辺ふらふらしてるのもなんだし」
「ふんーー最初からそのつもりじゃ。いちいち妾を誘ったりなんだりせんでもよいわ。まったく……うざったらしい」
「お前、本当にそう思ってんのか」
「妾は思ったことしか言わん。社交辞令? はっーー反吐が出る。世渡り上手、と言うが、そんな奴ほど自分で思っていることを必死に心の中に留めているのじゃろう。そいつの精神は、さぞ強靭にできているのじゃろうな」
「えーっと……俺はお前が凄いやつだと、素直に思うよ。憧れすら覚えるほどに、感心している今日この頃だよ」
「なんじゃ、今頃か」
「へいへい、すんませんね。ーーああ、あんまり遅いとトリスが騒ぎかねないから、早いとこ行くとするか」
「同行者だと思われたくはないのじゃが……致し方ないの。背に腹はかえられん。背に腹がくっつきそうじゃからな」
「お前ら飛行機の中で結構お菓子食ってたじゃねえか……、時にミーツハート。ここはお前の実家……っていうことになるわけだけど、家出とはいえ、家族に挨拶とかしなくてもいいのか? 俺が口を挟むべきではないことは、もちろんのことながら分かってるけど……余計なお世話なのは重々承知なんだけど、一応顔くらいは出してもいいんじゃ」
「勘当を言い渡され、そして、妾も絶縁を望んだ」
ミーツハートは言った。
しかしその口調は極自然で、日常の何気ない会話をしているかのようだった。驚いている暇もない。
「ーーもう、親子関係ではなくなっておる。ネーブルも言っておったじゃろう。あやつはこの国の王位継承権第二位ーー現時点でカリオストロ女王には、娘が二人。正式に妾は生家からーーいや、国から除外されたのじゃ。それでどうして、赤の他人にもかかわらず顔を見せることができるーーそれ以前に、あっちのほうがお断りじゃろうな。にゃはは……ま、妾のほうが断固としてお断りじゃがな。拒絶度でいったら妾のほうが断然強い」
「何で争ってんだよ、一体……」
「妾は一流の錬金術師になるために家を出たということじゃ」
「だから脈絡もなくーー。……だな。俺も負けないように頑張らないとな」
「今はこれじゃが、妾はあまり時間をかけたくはない。すぐに追い抜いてみせるぞ。遥か先を、歩いていってみせるからのう」
「うむ。日々の鍛錬を忘れるでないぞ。一日一日の積み重ねが何よりも大事なのじゃからな」
「トリス・ローゼンクロイツ・サクラザカみたいなキャラになっておるぞ、お主」
「わたしがどうかした?」
料理の載った台に到着すると、既にトリスは大量の食べ物を皿に盛りつけていた。欲張りというか、戦略的でもなんでもない盛り方。そんなんじゃ味が混ざってしまうだろうに……。
「……………………」
あのミーツハートですら言葉を失っていた。恐るべし、俺の幼馴染み。
「???」
「なんでもねえよ。なんでもないから、それより早く食べたらどうだ? 出来たてのうちに」
「んん? ん~それもそうだね。それじゃあ、あとはどれにしようかな~」
「まだ盛るのかよ! 料理は逃げたりしないから、安心してゆっくり食べなさい! ていうかお前そんなに盛って全部食べられるのかよ、お残しは許しまへんで」
「大丈夫大丈夫。なんてったってわたしの胃袋はホワイトホールだから」
「リバースしてんじゃねえか」
「スイーツもあるというに、計画性のないやつじゃ」
「それとこれとは腹が別」
甘いものは別腹、だったな。いやトリスの場合は、主食でも関係なく別腹になり得そうだが。ブラックホールのように、際限なくほいほいとなんの苦もなく収まりそうなものだが。
ーーダンスホールには、スローテンポの優雅な演奏が流れている。その曲に合わせて、二人一組になって足を交互に出したり回転したりと、イメージどおりのダンスが行われていた。社交ダンスのような激しさはない。これといった複雑な動きも、またないように見える。本当に気軽に、ただ身体を揺らしているかのようだ。ダンスをしているように見せかけている、みたいな感じ。言い方は悪いけど。だけど確かに踊りとして成立している。
これがセレブのダンスパーティーというものか……。つくづく思う、俺には似合わない。
「んん〜! なんていう料理かはまったく分からないけど激ウマ〜! ほっぺたが落ちるぅ〜」
トリスの胃袋に、次々と料理が落ちていく。食べている、というよりは、飲んでいるに近い。
カレーは飲み物、というのは聞くけど。
「あんまりがっつくなよ、みっともない。もっとこう、お上品にお食べなさいな。とうもろこしも、一粒一粒丁寧に、自然の恵みに感謝をして、ありがたくいただきます」
「とうもろこし一本食べるのに一日かかっちゃうよ、そんなにちんたら食べてたら。食事は戦争なんだよ。こちとら命かけてんだよ。でも感謝はするよ。ありがとう! んぐんぐんぐあぐあぐあぐ⋯⋯!」
「この世界には呪われなければならない人間が存在している。ーーお前だあぁぁぁぁぁぁ」
「なぜ妾を指差す。殴るぞ」
「いぶぅ!?」
警告ではなく予告だった。
ていうか普通に殴られたよ。ちょい強めのストレートが、俺の左頬に吸い込まれていったよ。
「暴力は妾に与えられた特権じゃ」
「剥奪したい特権ランキング第一位じゃねえか!」
「暴力は妾に与えられた使命じゃ」
「そんな使命は今すぐ忘れてしまえ!」
「暴力は妾そのものじゃ」
「歩く暴力でいらっしゃった! 恐ろしい!」
「暴力で全てを解決できる世の中に、妾はしたいと思っておる」
「そんな世の中はお断りだ⋯⋯なんなんだよ、誰なんだよ、お前は」
「井伊時代創郎じゃが?」
「二代目えええええぇぇぇぇぇぇぇぇえ!?」
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯くだらない会話はこのくらいにして、皿に料理を盛りつけていく俺とミーツハート。料理名は、さっきトリスが言ったように不明なものだらけだが、見た目だけで美味しいことが伝わってくる。当然、庶民には到底手が出せないような高級食材がふんだんに使われているのだろうが、果たして皿一枚分でいくらくらいの値段になるのだろうか⋯⋯? タダだと分かってはいても、トリスみたいに豪快な食いっぷりは、俺にはできそうにない。
白身魚に細かく刻んだ何かの載った一品。
見るからに柔らかそうなぶ厚いお肉。
なんだろう⋯⋯ピーナッツクリームのような何か。
おかず系の⋯⋯ゼリー? のような何か。
もはやイモムシ。のような何か。
どろどろの茶色い塊。のような何か。
活字にするとゲテモノ要素が満載なのだが、しかし一度口にしてしまえばこっちのもので、どれも絶品、人生で味わったことのない料理に舌鼓を打つ。このイモムシは世界で一番美味しいイモムシに違いない。
「も……も~……」
「隣に牛がおるぞ」
「牛は牛でも胃袋が一つしかない牛だな。ほら言わんこっちゃない。テンションが高いままの状態で調子こいて盛りつけるからこうなる。自業自得。自動車事故だ。ーーあまりかかってないのは見逃してもらうとして」
「う……う~……」
「自動車は自動車でも、それだとパトカーじゃのう」
「スイーツが食べられないなんて、可哀想なトリス……。でも安心しろ。俺がお前の分まで頑張って食べてやるからな! 仇は討ってやる!」
「あ……あ~……」
ゾンビのように呻くトリスの顔が、まるで死人のように青白い。それがなんだか、面白い。
「そろそろ踊りに飽きてこっちにも人が集まってくる頃じゃろうな」
「お……お~……」
「……こんなトリスをこのままここに放置するわけにはいかないなーーそれともトリス、楽屋みたいなところで少し休ませてもらうか?」
「ん……ん~……」
首を横に振るトリス。その様子は駄々をこねる子供みたいだ。
「みんなと一緒にいる~……」
「……無理だけはすんなよ。トリスに何かあったら、サクラザカ夫妻に顔向けできないからな」
「さ……さんきゅうべりいまっちょ」
「どういたしましてりーぬ。テリーヌって食べたことないけど」
「何を言っておる、さっき美味しい美味しいと食べておったじゃろうが」
「え……!? あのイモムシが!?」
「お主はイモムシを食っとったのかーーではなく、ゼラチンで固めておったやつじゃ。テリーヌ」
「あのゼリーみたいなやつがテリーヌって言うのか……まだまだ知らないことばかりだな、この世界は」
「知らないことのほうが圧倒的に多いじゃろうな。というかテリーヌも知らないとは……話にならん。死んだほうがよいのではないか?」
「テリーヌを知らないだけで死なないといけないのかーーでも結構多いと思うぞ? テリーヌ知らない人」
「そんな奴はゼリーで固めてしまえ」
「テリーヌの材料となって死ぬのは何がなんでも避けたい……!」
「ふう~……、三割ほど復活した」
などと言いながらお腹をさするトリス。
今までのどのタイミングでカロリーを消費する場面が訪れたんだろう?
「さあさあお待ちかね、スイーツのお時間だ」
「少しは自分の胃袋をいたわれよ。そのうち穴があいてもしらないからな」
「その穴は気合いで埋める」
「気合いがあればなんでもできると思ったら大間違いだぞ。できるものはできる、できないものはできない」
「『不可能という言葉は俺の辞書には載っていない』ーーなんていうけど、あれはただの戯言なんだね」
「まあ……台詞としてはいいんじゃないか? 弱そうな奴っぽいけど」
「弱い奴ほどよく吠える……じゃな」
「…………」
「なんじゃその目は。何か言いたげな、この上なく気に障るそのふざけた目は。殴るぞ」
ぶおん! ーーと、ミーツハートの拳が耳元を通過した。
「あっーーぶねえな! だから躊躇なく人を殴ろうとするなよな! めっ!」
「最近のサンドバッグは回避機能が備わっておるのか。進化したもんじゃ」
「お前はどこの不良だよ……」
はあ~……。と、長い長いため息をついたところで、後ろから誰かが歩いてくる気配。なんとなく、俺はネーブルなのではないかと思った。その予想は、果たして見事に的中した。まるでそこに突然ひまわりが咲いたかと思ってしまうような、鮮烈な黄色い色彩のドレスを身にまとった小学六年生が、悠然とこちらに向かって歩いてくる。
「お姉様、あんまり友達をいじめちゃあ駄目よ。ーーごめんなさいね、ジル。わたくしのお姉様がこんなので。素直じゃないのよ、まったく。いえ……逆に素直なのかしら? 素直すぎるほどに、お姉様はどこまでもお姉様なのかしら。にゃふふ……我ながら何を言っているのやらちんぷんかんぷんにゃ」
「大丈夫、俺には分かってるから」
「にゃふふ。わたくしたち、案外通じ合っているのかもしれないわね」
「むう⋯⋯小学六年生と通じ合っているってーー、なんか俺としては釈然としないんだが」
「あら。高校一年生と小学六年生が、どうして通じ合ってはならないのかしら。それほど離れているわけではないというのに」
「もしかしてなんだけど⋯⋯だから最初からタメ口なの? 呼び捨てなの?」
「さあ? どうかしらね」
「ネーブル、お主は生まれてこの方、敬語というものを一度も使ったことがないじゃろうが」
「それはお姉様も同じことでしょう? この機会に試しに使ってみたらどう? ま、無理だろうけれど」
「ふん。知らんのか? だったら教えてやるが、妾の辞書に不可能の文字はない」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「言ったわね? ちゃんと聞いていたわよ、このハルプカッツェのいい耳で」
ネーブルは自分の耳を軽く引っ張り上げながらそう言った。こういうところは小学生っぽいんだけどなあ。
ネーブルの分かりやすい挑発に乗ったミーツハートは、先生方にも己を貫いて敬語をまったく使わない我が一年D組の猫姫様は、果たして、ですます口調で話をすることが可能なのか。⋯⋯まあ、うん。予想どおりの結果になるとは思うけど、一応、本人がせっかくやる気にーーなっているかどうかは別として、ミーツハートが敬語を使おうとしている光景というのは、単純に見てみたいと思う。
「もちろん、わたくしはやらないけどにゃん」
「その言葉に強い意思を感じるから、ネーブルにやってみろとは言わないよ。そんじゃあミーツハート、覚悟はいいか」
「にゃはは、ーー捻り潰してやる」
「そこは『はい』でいいんだよ⋯⋯」
俺は出題者風に声色を変えて、
「ミーツハートさん、今日のダンスパーティーはどうですか?」
「うむ。全体的に不愉快じゃな」
「うおーい! ちょっとは頑張ろうという気持ちを見せてくれーい! ーー結論! お前に敬語は不可能だ!」
「やっぱりね。にゃふふふふふ⋯⋯」
「今日は調子が悪いようじゃ」
「三百六十五日、オールシーズンじゃねえか!」
「オール◯ーズン!? 庶民に愛されてやまないお菓子がこんなところに!?」
「お前は食べ物のことしか頭にないのかよ!」
「ねえ、あなたたちは踊らないの? ずっとここにたむろしているようだけど。ダンスパーティーなのだから、普通はダンスをするものなのだけれど……」
「ああ……そのことなんだけど、生憎、俺たちに普段ダンスを嗜むような習慣がないから、踊りようがないというかなんというか……」
「それに人前で踊るなんてこっぱずかしいしね~……。テーブルの上で胡坐をかいてサバ缶を食べているところを人に見られるくらい恥ずかしい」
例えの部分を早口で言うトリス。
「変わった例えをするのね、トリスは……。例えとはいえ絶対にいるはずがないじゃない、そんな人。例えというのは現実性を帯びていなければ伝わらないものよ。分かりやすいことも重要ね」
いたんだなあ、これが。実際に存在していて、実際に遭遇してしまったんだな、これが。俺はミーツハートのほうを見ーーようとしたがすんでのところで思いとどまる。賢明な判断だと、俺は自分で自分をそう評価したい。また殴られるに決まっているからな。
「んーー?」
などと考えていたら、何かが俺の脇腹に触れた。かと思った次の瞬間、俺の脇腹がごっそりとえぐり取られたーーかと思ってしまうほどの激痛が走った。
「--------!?!?!?」
声を殺して叫ぶ俺を、俺は褒め称えたい。このハルプカッツェ、どうやら人間に苦痛を与えるあらゆる手段を知っているらしい。拷問隊長ミーツハート。
なんにせよダンスホールにみっともない叫び声が響き渡らなくてよかった……。
「どうしたの、身をよじったりして。ひょっとしてダンス?」
こんなに奇妙奇天烈摩訶不思議な踊りがあるはずがないだろう。
あえて言うなら痛み苦しみを身体を使って表現しているんだよ。
「ん~! 美味しい~!」
くねくねと身体をくねらせてスイーツの味を身体で表現するトリス。もう、お前の心配だけは絶対にすまい。
「こんな隅のほうで踊らなくてもいいじゃないの。もっと広いところでのびのび踊らないと。ーーさ、行きましょう?」
言うが早いか、ネーブルは俺の手を引いて歩きだすーーいや待て待て待て待て! 行きましょう、って一体どこに?
「おい、ネーブル!」
呼び留めたのは、俺ではなくミーツハートだった。呼ばれたネーブルは歩みを止めてくるりと振り返って、
「ちょっとジルを借りるわね、お姉様、トリス。にゃふふ……今宵はダンスパーティーなのだから、ダンスパーティーと銘を打っている以上、参加者はダンスをせざるを得ないにゃ」
「でも……そんな決まり……」
「ないわ。もちろん冗談よ。けれど、レディーがこうしてダンスを申し込んでいるのだから、男としては断れないわよね? もしかして断るつもりなの? 勇気を振り絞ってダンスに誘ったわたくしを、あなたはコケにするつもりなのかしら? そのようなことができる人には、わたくしには見えないのだけど……わたくしの見る目が狂っていたのかしらね」
「いいんじゃん? ダンスっちゃえば?」
トリスがそんな、わたあめよりも軽い口調で言う。THE・他人事とはこのことだ。THE・ふざけんじゃねえよ。
「いい記念になると思うよ~?」
「⋯⋯そうね」
ネーブルは頷いてから、ニッコリと笑った。
なぜだろうーー、よく分からないのだが、背筋に寒いものを感じた……気がする。ただの、少女の明るい笑顔、……のはずなのに。
「きっとあなたにとって、一生忘れることのできないような、とってもとっても素晴らしい日になることでしょう。わたくしにとってもーーね」
「んん……まあ、ある意味では、もしかしたらそうなるかもしれないな」
ーーとんでもない大失敗をする未来しか見えない。
ていうかそれより何より、お相手はカリオストロ王国の第二王女なんだぞ? 足を踏んづけたりで足を引っ張ってしまった暁には、ネーブルの使用人であるクロロさんにーーいやいや国そのものから制裁を加えられる可能性も、十分にあり得る。
レッツ・ダン死ング! ……ということか。なるほどね。ああ、なるほどね。なるほどね。
というかーー高校一年生になって、ことごとく死が絡んでくるのはなぜなんだ? 死神の大鎌が首にあてがわれているような……これは本格的に呪われている気がしてきたぞ。
にゃふふ……と、ネーブルはいつものように笑う。そう、いつもの、ように。
そう、信じたい。
「それじゃあーー存分に楽しみましょうか。ジル、あなたはわたくしの言うとおりにしていれば、それで問題ないわ」
身を委ねなさい。ーーネーブルは言った。
「上手くやりたいのならば、あなたはわたくしのものになりなさい。どう? 簡単でしょう? にゃふふ⋯⋯さあ」
レッツ・ダンシング!
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
ダンスホールの中央に立っているのは、錬金術に特化した学校に通う平々凡々な高校一年生と、ワールドオブリヒト三大国の一つであるところのカリオストロ王国、その王位継承権第二位の王女様の、たった二人だけ。
軽い吐き気を覚えるくらいの静寂。ダンスパーティーの参加者はみんな端のほうに寄っていて、いつ始まるのかとそわそわしているようだった。いつぞやの体育館での一件を思い出す。まさにあの時と同じ現象が、俺とネーブルが手を繋いでダンスホールの中央に向かって歩いていったーーもとい引っ張られていった際に起こった。ほとんどが信じられないと言いたげな顔をしていたが、一部には憎々しげに俺を睨みつける比較的若いジェントルマンが少なからずいた。まあ⋯⋯当然だろう、どこの馬の骨とも知れないパッとしない野郎が一国のお姫様と踊ろうとしているのだ、身の程をわきまえろって感じだよな。しかし「俺のネーブル様が⋯⋯!」という押し殺した叫びが聞こえてくるのは、なぜなんだろう?
なんていう疑問は置いておいて、今は目の前の状況に集中だ。ネーブルは、わたくしに任せておけば万事上手くいく、みたいなことを言っていたけど、人をそんな、からくり人形のように思いどおりに動かせられるものなのだろうかーーましてやこの俺だぞ? 糸が絡み合って四苦八苦するに違いないと思うのだが。決して不器用ではない……と自負しているけど、ダンスは運動神経がものを言うのであって、しかし意外や意外、実はダンスが踊れる男でしたー、となる可能性もないではない、と思いたい。
不安しかないイベントだが、それよりも、こんなに大勢の人が見つめる中でダンスなんて、俺としては絶対に御免被りたいんだけど……。成るように成る。
どこの楽観主義者だよ、この言葉を考えたの……。
モヤモヤウジウジとそんなことを悶々と考えていると、頭一つ分小さいネーブルが、ハルプカッツェ楽団のほうにちらりと視線を向けた。ーーそして。
そして、始まった。
高校一年生と小学六年生の。
錬金術師の卵と、正真正銘のお姫様の。
たった二人だけのダンスが、ついに始まってしまった。
ああ⋯⋯と、思う。どうするつもりだ、これ?
静かな、一人によるバイオリンの演奏から始まったわけだが、ーーって。
そんな不安を知ってか知らずか、ていうか絶対に認識していると思うのだが、ネーブルはそんなことはお構いなしとばかりに片方の足を前に出してくる。
俺も、慌てて鏡のように片方の足を後ろに引く。どうにか誤魔化せたみたいだが、当然、ダンスはまだまだ続く。
しかしネーブルの言っていたように、ちゃんと踊りらしくはなっているようだった。ネーブルのリードあってこそ、成立している。
時間が経つにつれて、曲調も盛大で壮大なものへと変化していったーーネーブルもまた、動きに変化をつけたきた。片手の指先だけで握り合い、彼女がその場でくるりと回る。未経験のはずなのに、俺の腕は彼女が回りやすいようにいつの間にか高い位置にあった。
添えるように両手を握り直し、横へ、前へ、横へ、後ろへと、ステップを踏む。
ふと、何気なしに外野に視線をやると、ちょうどトリスたちの姿が目に入った。トリスはというと、あれは一体どんな感情なのか分からないが、『むほほ顔』とでも言うのか、からかいたい、羨ましい、といった色々な感情が同居したような表情でこちらを見ていた。一方のミーツハートはといえば、キッ! ーーと、なぜか剣呑な雰囲気を漂わせていた。何が起こるか、一瞬たりとも見逃すまいといった様子。めっちゃおっかない。
曲調がさらに激しさを増す。もうすぐフィナーレ⋯⋯だといいが。
「にゃふふ⋯⋯」
「ん?」
左右に揺れながら、いきなりネーブルが笑ったのでどうしたものかと思っていると、
「さすが、お姉様は鋭い、と思ってね」
足の運びに神経を集中しているため、何も言えずにネーブルの顔を見ることしかできない。
ただーーバイオリンの演奏が、狂気的なーー凶器的な音色に、どういうわけか聴こえてきた。背筋が冷たい何かで、優しく、優しく撫でられる感覚。
ネーブルを見る。
たぶん、この数分、俺は一度も瞬きをしていなかったことだろう。
「あなたをここに招いたのには理由があるのよ」
他ならぬ、あなたを。
ーーね。
「わたくしは、ネーブル・ブリューゲル・カリオストロ。カリオストロ王国の、第二王女。一番上のお姉様は今の仕事を優先させたいようだから、恐らくわたくしが次の女王となるでしょうね。いえーー確実に、と言ってもいいかしら。にゃふふ⋯⋯」
ーーねえ。
あの時のこと、覚えてる?
「わたくしが、あなたたちに声をかけた時のこと。初めて、あなたとわたくしが出逢った瞬間のことを」
右に、左に、流れるようにステップを踏みながら。
「一目惚れというやつね」
まるで常套句のように。
「わたくしは、あなたに恋をしてしまった。安っぽい言葉だけれど……運命を感じたわ。わたくしの心はたちまちにして、すっかりあなたの虜になってしまったみたいなのーー」
するとネーブルは、くるりと回転を加えながら俺の脇に倒れ込んだーーこのままでは床に落下してしまうだろうと思い彼女の華奢な身体を受け止めると、目の前にあったのは、彼女のーーネーブルの、優しく柔らかな笑顔だった。金色に染めあげられた一房分の髪の毛が、爛々と光を放った。
「上手じゃないの。とても初めてとは思えない」
「そりゃどーも」
ネーブルの身体を起こすと同時に、これまでとは比にならないくらい、演奏が盛り上がっていった。ラストスパート、といった感じの迫力だ。
ていうか小学六年生に告白されてしまったんだが。
「単刀直入に言うわ。ーージル、わたくしと結婚してくれるかしら?」
「は……????」
脳みそが疑問符になった。
いや、脳みそが疑問符でいっぱいになった。
「もちろん、すぐにとは言わないわ。年齢的に不可能だもの。アウトだもの。だからその時を迎えるまでは、婚約という形でどうかしら。彼氏彼女の関係なんて、無意味でつまらないもの」
「…………」
余計だとばかりに、言葉が出てこない。喉が得体の知れない何かで塞き止められているかのように、まったく声が出せない。
ていうか小学六年生にプロポーズされてしまったんだが。
「にゃふふ……。さあ、返事を聞かせてくれるかしら。あんまりレディーを待たせるものではないわよ。そうでしょう? にゃふふふふ……」
「ぁ⋯⋯⋯⋯」
俺は、どうやら口を開いたようだ。
頭の中がふわふわする。意識が朦朧としている、と言ってもいいだろう。
と、逆プロポーズされてしまったわけだがーーしかし俺はネーブルをそんな風に見たことがない、結婚したいしたくないそれ以前に恋仲関係なんて、ネーブルが成人を迎えたとしてもあり得ない。なんでそんなことが言えるのか。⋯⋯なんでだろうな? よく分からない。ロリコンを完全否定したいだけなのかもしれない。
だけど、ネーブルは美人なお姉様と同様、すれ違う男たちを振り向かせる美しさを持っていると思う。今は少し幼さを感じるが、数年後が楽しみになる整った顔立ち。
「ジル。わたくしを幸せにできる、この世でたった一人の男」
「俺はーー」
「誓いなさい。わたくしを幸せにするって」
「違、うーー」
「違うじゃないわ。誓いなさい」
「誓うーー」
「にゃふふ、そうそう。それじゃあ、最初から最後まで続けて言ってみて?」
「俺はーー、誓うーー」
俺は何を誓うんだ、何を誓おうとしているんだ。
ていうか、いい加減気付いてきた。
今の俺は、正気じゃないーーでもなんで? 催眠術という技術なのだろうが、一体いつから?
いつからなんだよ。まったく⋯⋯。困った妹さんだ。人の心を弄ぶなんて何事だ。許されることではないけど、だけど俺は、ジル・ヘルメス・ミウラは、とっても寛大な男なのだ。大海原のような広い心を以て、全てを許そう。
「ネーブル、を。ーー幸せ……に」
ネーブルを幸せにするーー
そう、俺の口が言葉を紡ごうとした、まさにその時だった。
男として決して退くことのできない状況に陥ってしまう、ネーブルとの婚約が約束されてしまう、その寸前。一歩手前どころではなく半歩手前のところで。
すっかり聴き慣れた、自分自身に絶対的な自信を持った、誰に対しても上から目線で、自分にまったく素直じゃない、だけど目標に向かって邁進していくその姿は尊敬に値する、我が一年D組のクラスメイトであり俺の命の恩人でもあり、そしてーー
まあ、この先は認められないだろうから、いいか。
ともかく、彼女は数歩前に進み出て、激しい演奏にも負けない大声で、
「血迷ったか!! ネーブルッ!!」
ミーツハートがそう吼えると、ホールに満ちていた旋律がピタリと途切れた。しばらく反響していたが、やがてそれも消えた。
静寂の中、ネーブルがため息をつく。呆れた、というよりかは、「あーあ」というように。
「お姉様……」
「妾の耳を欺くことなどできんぞ。ジル・ヘルメス・ミウラ、お主もいつまでそうして呆けておるつもりじゃ、しっかりとせい!」
「え⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
カツコツと無言でこちらに歩いてきたミーツハートが、俺の目の前で立ち止まると、掌を俺の頬に打ちつけてきた。
いわゆるビンタというやつではあるが、冗談抜きで、首が吹っ飛んだかと思ったくらいの威力があった。人間が受けていい衝撃では絶対ない。
「えっ……ええ!?」
「どうやらまだ意識が混濁しているようじゃのう……」
すっーーと静かに腕を振り上げるミーツハートを全力を以て制する。
「待て待て! ばっちり覚醒してるから! もうビンタはお腹いっぱいだから! これ以上俺のほっぺをいじめないでくれえ!」
リアルにほっぺたが落ちかねない……。
「可哀想に……。そうやっていつもお姉様に暴力を振るわれているのね。同情するわ」
「……お主の狙いがこんなことだったとはなーーのう? ネーブル。これを血迷ったと言わずして、何を血迷ったと言うのか」
「心外ねーーこんなこととは。わたくしにとっては一世一代の大勝負だったというのににゃ」
「ポイズンスターに毒を盛った奴など、この長い歴史の中で、恐らくはお主だけじゃろうな。まったく、笑えん冗談じゃ」
「さあ? なんのことかしらね?」
認めているのと同義のしらばっくれようだ。
しかしミーツハートはこれ以上追及しても無意味だと判断したのか、呆れた風に鼻から息を吐く。
「……これでお主のくだらない計画は水泡に帰したわけじゃが」
「あら。まだ終わってはいないわよ、お姉様」
「往生際の悪い奴じゃのう……」
「残念だけどわたくし、諦めが悪い性格なの。知っているでしょう?」
ネーブルはそう言うと俺に手を差し伸べて立ち上がらせてくれた。
「お姉様は、まだあの学校で学びたいでしょうーー学ぶべきことが、たくさんあるでしょう。できることなら、あまりこの手は使いたくないのだけれども……」
「この期に及んでまだ何か企んでおるのか。いい加減にーー」
「ジル。お姉様が学校からいなくなってもいいのかしら? にゃふふ……」
「な……!?」
「お、のれ……ネーブル!!」
今にも掴みかかりそうな勢いでミーツハートが叫ぶ。いや掴みかかろうと実際したのだろうが、しかしそうなる前にネーブルが次の言葉を発していた。
「こんな時くらい、権力を好き放題振りかざすのも悪くはないと思ってね。本当に気が進まないのだけど、人生、どうしても譲れない時、っていうものは案外来るものね。ーーさあジル、あなたの返答次第でお姉様の人生が変わるのよ? わたくしの人生も……あなたの人生も。あなたの一言で、百八十度反転する。ダンスと同じように、今度はあなたに全てが委ねられた。くれぐれもーー」
ーー歩むべき道を、間違えないように……ね?
そう言って、ネーブルがこちらに手を差し伸べてきた。こっちが正しい道だと、言わんばかりに。いや、選択肢は最初から一つしか用意されていないのよ、と言外に言っているのだろう。
ちらりと、ミーツハートの表情を窺う。彼女には珍しく、下手に手出しができないといった様子で、……その瞳が、俺を映すその双眸が、穏やかでない内心を表すかのように、揺らいでいた。
卑劣極まりない策ではあるーーあるのだがしかし、王位継承権が剝奪され現在は一般市民であるミーツハートには、これ以上ないほど効果覿面なようだった。
これも策のうち、というやつだ。卑劣な策でも時と場合によってはもっとも効果的になるーー、んだろうけど……。でも。
でもーーだけど。
俺は。
「選択肢が一本道なら、その道を進むことしかできないよな。ネーブルには悪いけど、俺は、もっとミーツハートと一緒に錬金術の勉強をしたいと思ってる。一緒に卒業……できるかどうかは分からないけど、友達が学校を離れるのを、指をくわえてただ見ていることなんてできない。そんなの当たり前だろ」
「にゃふふ……賢明な判断、というかまあ当然ね。それじゃあーー」
「でも婚約はしないぞ。それも当たり前だろ」
「にゃ……?」
ぽかんと開いた口が塞がらない様子のネーブルに俺は言う。
「そんなのがまかり通ると本気で思ってたのか? いずれは上に立つ者として、世の中の善し悪しくらいは頭に入れておいたほうがいいぞ? まだ小学六年生とはいえ、それくらいはーーな?」
「にゃ……にゃ、にゃにゃ、にゃんっ……!?」
「もっと大人になれ! とは言わないけどな。今回の話はなし! っつーことで。もう忘れた! 忘れたほうが幸せなことだって、世の中にはいっぱいあるよな……うんうん」
「にゃ……にゃにを、言っているのか……あなたは理解しているのかしら? わたくしはあなたの考えが理解できていないのだけれどーー理解に苦しんでいる真っ只中にゃんだけれども……」
「大袈裟に言えば国からの勅命を蔑ろにしたってことなんだろうけどな」
「広く捉えるならば、そうなるわね。にゃ、ふふ……そこまで把握しているのに、なぜ? どうしてあなたは、わたくしの手を迎え入れないの? 何不自由のない、あなたが望むのならば酒池肉林の絢爛豪華な暮らしを提供してあげるというのに、一体なぜ……どこに断る理由があるというのにゃっ」
「だって俺、馬鹿だし」
「それとこれとどういう関係があるのよっ」
「『今』しか考えられないーーってこと、だよな?」
「なぜ妾に訊くのじゃ……知らんわそんなもん。というか、妾はどうなる。この一件での被害者はただ一人だということを、よもや忘れてはいまいな」
「そ、そうよ!」
ミーツハートのお蔭で悪に満ちた一方的すぎる条件を思い出したネーブルがそんな声を上げて、ビシッと姉を指差す。
「ジル、お姉様がどうなってもいいの!? わたくしは本気よ!? 本気の本気なんだからね!?」
権力は光にも闇にもなる。ネーブルは決して後者ではない、そう思っていたのだが……。まあ、心の暴走を御しきれていないだけだろう。ネーブルはまだ小学六年生なのだから、子供のわがままスピリッツが抑制できずに漏れ出したのだと思われる。おもちゃコーナーの前でじたばた暴れる子供のイメージだ。
まずは冷静さを取り戻さないといけない。いやいやをする子供から、ネーブル・ブリューゲル・カリオストロに落ち着けないと、何も始まらない。
「一つ、賭けをしないか?」
俺は人差し指を立ててネーブルの目を真っ直ぐ見つめる。
「賭け……?」
鼻息を荒くしていたネーブルだったが、それを聞いてか幾分か冷静になったようで、しかし言っている意味がよく分からないというように小首を傾げた。
「国を統べる女王様の娘なら一般市民の意見も聞いてもらえるんじゃあなかろうかと思ったんだけど……それに、精神異常をきたすような一歩間違えれば廃人まっしぐらな危険極まりない毒を飲まされたんだから、こっちとしてはこれくらいの条件は吞んでほしいなあとも思うんだけど……ネーブルの見解を聞かせてくれるかい?」
「にゃ……」
ネーブルは上品な仕草で口元に手を当てて、
「にゃふふ……いいわよ? わたくしとしても、度を過ぎた理不尽なことを要求しているのに心を痛めていたところだから、その条件とやらを聞こうかしら。さあ、言ってみるにゃ」
ニヤリ。内心でほくそ笑む。実際に口角が吊り上がっていたかいなかったかは、残念ながら俺自身には分からないが。ともかくーー条件。
「決闘で決めるっていうのはどうだ? ネーブルが勝てば、俺と婚約成立。ミーツハートが勝てば、王立シュテルンツェルト学園残留決定」
ふふんーー俺はドヤ顔を作ってから、それからこう言い放ってやった。
「我ながら名案だろう?」
……うん。
迷案では、ないはずだ。




