『高校生物』で少女を救ってみた。
メイちゃんとミュウちゃんとの楽しい食事を終え(右手は依然不自由)、とりあえずこのコミュニティの長であるミヤさんのところへ行くことにした。
運び込まれた時は意識がなかったので、実際に村の様子を目にするのはこれが初めてだ。
メイちゃんとミュウちゃんの家は石造りだったが、他にも木造も見られる。
道は舗装されるまではいかなくとも、きちんと平らに整備されている。
時折荷車を引く馬を見ると、やはり地球なのではないかと考えてしまう。
ガラスが所々に見られることから、その程度の文化はあるようだが、精度がいいとは言えなそうだな。
よくよく考えてみると矛盾点が多いように感じる。
そもそもここまで町や建造物が整備できているとするならば、ナメクジの弱点などは知っていておかしくない。
それどころか知っているのが普通だ。
だいたいナメクジの弱点が塩等の水分を吸収できるもの、という事実は少し知能の高いものがいれば、自然と解明される事実であろう。
やはり考えれば考えるほど謎は深まる。
形成された文化と人々が持つ知識とのギャップがありすぎる。
「そういえばミュウちゃんみたいな耳の付いた人って、この村にはあまりいないみたいだけど…。」
先ほどから村を見渡しているが、女性ばかりしかいないということに関しては、戸惑いこそしたが、事前に聞かされていた分、驚きは少なかった。
ただ、ミュウちゃんみたいな子がさっきから一人も見られないのはどういうわけだろう。
やはり僕の望み通りにはいかないというわけなのだろうか。
「あ、そ、それはですね…」
何か踏み込んではいけない雰囲気の話らしい。
明らかに顔を曇らせたミュウちゃんと、どこか居心地の悪そうな顔をしたメイちゃんを見れば一目瞭然だった。
「あ、別に無理にはいいよ。そこ自体は大して気にはならないし。」
そうこうしている間に、ここまで見てきた建物の中では一番大きな屋敷の前に着いた。
石造りの家で、まばらな大きさの石がセメントのようなもので固められていた。
「ここがミヤ様の屋敷です。もう既にミヤ様はお待ちですので、どうぞこちらへ。」
隣の建物から上がる湯けむりのようなものを横目に、二人に連れられて中に入った屋敷はなかなかの豪華さだった。
「おぉ。気がついたか、ラストよ!よく来たな。さぁ、あがってくれ。」
屋敷に入るとすぐにミヤさんが出迎えてくれた。
案内してくれた二人と別れ、ミヤさんの後ろについて行く。
揺れる長い髪は光沢をみせ、綺麗な曲線を描く体躯は完成された体であった。
ここで後ろから抱きついてしまおうかと悩んではみたが、ナメクジの一件でこの人の身体能力を知っている僕は、そこで思いとどまった。
客間のようなところに案内された僕は、ミヤさんの正面に座った。
二人の間に置いてあるテーブルには、竹のようなもので作った碗に水が汲まれていた。
「さて、ラストには悪いと思っているが色々と聞かせてもらいたい。まだ体が全開ではないのはわかるが、こちらとしてもお前の素性をある程度知っておかなければならない。」
「いえ、体の方はもう万全です。あの二人にはよくしてもらいましたから。」
「そうか、それならよかった。さて早速だが幾つか聞きたいことがある。さて、まずいきなりだが、お前は何者だ?」
「それについてはなんとも言えないのが現状ですね。別に自分の素性がわからないのではなく、むしろ今おかれている状況がわからないので、説明しようがないといいますか…。」
事実その通りなのだ。
情報の本質は他との差異だ。
今僕が持っている、僕に関する情報が、この状況下において通用するものなのか。
それがわからない以上は説明しようがないのだ。
根本が違うもの同士は比べる対象にならない、つまり差異は生まれないのだ。
「すまん、ラストの言っている意味がよくわからないのだが…。」
こういう理論じみた説明をしてしまうのは理系の性なのだろうか。
「そうですねぇ。一つずつは整理していきましょう。まず、僕は人間です。おそらくこの点はあなた方と共通でしょう。」
「ああ、そうだな。」
「そして僕は、ここの文化や地域、生態系などについて、ほとんどの知識がありません。つまりこのあたりの生まれではないです。」
「それは既にだいたい理解しているつもりだ。おそらくどこかから漂流してきたのだろうというのが、私個人としての見解だが、実際はどうなのだ?」
「断言はできませんが、その可能性は極めて低いと思います。そもそも僕がここに行き着く前の記憶では、少なくとも近くに海はありませんでした。まぁ、気を失っていた間に運ばれたという路線もないとは言えませんが…。」
ここら辺の話は本当にわからないことだらけだ。
あの安産型女神風の女の出現だって、僕が作り出した幻想とすれば一言で片がつく。
実を言うと僕はあれは幻想であってほしいと思っている。
だいたい急に異世界へ飛ばされて冷静にいられるはずがないだろう。
アニメや漫画の主人公ではないのだ。
そんな人外的な適応力があってたまるか。
だからこそ、ここは異世界ではないと思っている、否そう思いたいのである。
「なんとも微妙な物言いだなぁ。まぁつまるところ、ラストは今この現状における知識は全くないということか。」
「まぁつまるところ、そうなりますね。」
「となると教育係というか、お目付役が必要だな。後で考えておこう。」
あわよくば美人な人をあわよくば美人な人をあわよくば美人な人をあわよくば美人な人をあわよくば美人な人をあわよくば美人な人を…っと。
「正直なところラストに関してはわからないことが多すぎるし、ラストもわからないことが多すぎる。お前のことに関しては、おいおい調べていくさ。では逆に知りたいことはないか?」
「山ほどあるのですが、まずはですね…」
さて何から聞いたものか。
まずはここを取り巻く環境や背景から探るのが無難か。
「まずここはどこなのでしょうか。」
「ここは『テトラ』だ。テトラというのはこの集落の名前でな。もっと言うなら『コーナー』という地域の中の『テトラ』という集落だ。コーナーとはつまり『人種』のテリトリーのことだ。」
ここで出てくるカタカナ語の多さが僕の安心を誘う。
というのも僕がいまだパニックを起こしていない最大の理由は、言葉が通じること、そしてスラングのような言葉も通じること。
これが僕が考える最悪の『異世界へ飛ばされている』という状況から遠ざけている。
それにしてもテトラが『あのテトラ』を意味しているんだとしたら、ますます現実っぽいよなぁ。
いやいや、「人種」ってなんだ?
動物と区切っているということか?
「ちなみにこの集落って、何かの番号なり順番なりでいうと『4番目』だったりします?」
「おお!確かにそうだ。ここは六つある人種の集落の四番目だ。ちなみに大きさ順だぞ。物理的な意味ではなく、全体の規模としての。しかしなぜわかったのだ。そんなことまだ言ってはいないぞ?」
「いや、だって名前が『テトラ』だし。」
「どういうことだ?」
まただ。
文化と知識の齟齬がここにもある。
ただの偶然という可能性も捨てきれないが、もし他の集落の名前が【モノ・ジ・トリ・テトラ・ペンタ・ヘキサ】だとしたら、この人たちはその言葉の意味も理解しないまま、その言葉を使用しているということだ。
「えっとあの、お聞きしたいんですけど、他の集落の名前はなんですか?」
「序列を一から順に、【モノ・ジ・トリ・テトラ・ペンタ・ヘキサ】だぞ?」
やはり予想は的中した。
ここでは形成されている文化と持ち合わせている知識との間に、決定的な齟齬がある。
「かなり話は変わるのですが、建物やガラスの作り方とかって、どう『学んだ』のですか?」
あえて変な聞き方をした。
普通なら作り方をどう学んだかではなく、『どう作るのか』を聞くところだ。
「それがな、原理とかはよくわからんのだが、先代達から受け継がれている書物に、建物やガラスだけでなく、様々な事柄に関するイロハが書かれていてな。私達はそれに従っているだけなんだよ。」
「そういうことですか…。」
つまり今形成されている文化に、ここの住民の知能が追いついていないということか。
それゆえのこの状況か。
まず一番最初に考えた背景は『文化の発達していない地域に、どこかから技術だけを持ってきた、もたらされた』というものだ。
これは最有力候補だ。
それならば『原理はわからない。ただこうすればそうなるということは知っている。』という現状に納得がいくし、至極人間的だ。
というのもこの考えはありふれている。
例えば飛行機。
どのような形状のどのくらいの重さのものが、どのくらいスピードを出せば飛ぶかはわかっている。
しかしなぜその条件で飛ぶのか、ということに関しては工学的にも科学的にもまだ完全には解明されていない。
例えば麻酔。
どんな物質が麻酔として働くかは知られている。
しかしなぜその物質が麻酔として働くかはまだ分かっていないのだ。
現実にも当たり前のことがわかっていないことなど、結構あるものだ。
そう考えると、別にここで展開されている現状もおかしなことはない。
そして考えたくもない最悪なもう一つの候補。
それは『一度、大規模な文明破壊が起きた』ということ。
完全に文明が消滅したが、わずかに残された文献やらでここまで細々と展開してきたという案だ。
まぁ前者で考える方が楽だし現実的だ。
「あ、それとー
「ミヤ様!」
僕の言葉に一人の女性が割って入ってきた。
「おい、ウサ!今は大事なー
「大変です!オオナメに襲われた一人が錯乱しています!」
「なんだと!?」
そういえば大ナメクジと戦っていた時に、あの粘液をかけられた人たちはかなり慌てていた気がする。
「すまないラスト。少し出てくる。」
「あ、なら僕も行きます!」
ナメクジには毒性などないはずだが、ここは僕の知らない土地だ。
もしかしたらここの生態系を知る機会かもしれないし、僕の知識が役立つかもしれない。
現場に到着すると一人の少女が、言葉どうり錯乱していた。
叫び声をあげ、頭を抱え込んでいたが、その様子は毒による効果ではなく、ただ単なるパニック障害のように見て取れる。
「きゃああああああああああ。もう!もう私はダメなんだ!死ぬんだ!」
この言葉からすると、やはりパニックのようだ。
ただ周りの人たちは全く近寄ろうとはしない。
おそらく彼女の腕に付着している、キラキラとしたもののせいだろうか。
僕が寝ている間にも、もう一体の大ナメクジの襲来があったらしく、おそらくその被害だろう。
駆除自体はすんなりいったと聞いているが、やはり人的被害ゼロとはいかなかったか。
「おい!落ち着け!まだどうにかなる!」
必死に問いかけるミヤさんの声は届かない。
「ミヤさん!あのオオナメには毒があるんですか?」
「そうだ!詳しくはわからないが、かなりの低確率で感染してしまうのだ。そのおかげで助けてやりたいがむやみに近寄れもしない…。くそ、なんて無力な!」
やはり毒があったのか。
それにしてもなんとももどかしい。
目の前に苦しんでいるいたいけな少女がいながら、なんの手の施しようもないなんて…。
いや、それよりも、そんなことよりも命がけで戦いに挑む彼女達がすごい。
人間命がけなんて、そう易々とできるものではないのだ。
ましてやこんなに小さい子が…。
何かできることはないのか…。
受験知識における医療技術なんて、ほぼないに等しい。
いや、でもまだー
「ミヤさん!過去の感染者の症状は?」
「頭痛や発熱、それに各部の麻痺や痙攣だ!それに、すこし奇怪な行動や言動を取ったものもいる。ただ皮膚が腫れたりはしないんだ!」
この症状は神経に作用されているのは確実だ。
痙攣や麻痺が全身に出るということはつまりそういうことだ。
それにしても奇怪な行動や言動か…。
いやそれよりも皮膚に異常はない?
神経異常の一部か?
ならどうやって…
ナメクジ…神経性毒…神経異常…低確率な感染…経口感染か?麻痺や痙攣…伝達障害…脊髄?脳?…これは本当に毒か…?いや…これはー
「線虫だ!」
この路線の確証はない。
しかし試す価値はある!
「ミヤさん!この村にお風呂はありますか?」
「え?なぜいま?いや、あるぞ!屋敷の隣に!」
あの湯けむりは風呂のものだったか。
僕は誰も近寄ろうとしなかった彼女に近づいて、抱き寄せた。
ちなみにこれが肉親以外での初めての自発的抱擁である。
下心はない、いや、本当に。
感染の恐れがあると近寄れなかった周りにどよめきが走る。
「大丈夫、もう大丈夫だよ?死にはしないし、君は絶対に助かるよ。大丈夫、落ち着いて。」
少女の腕にべっとり付いた粘液を、周囲に見せるように、また少女にわかるようにわざと触った。
「ほら、僕だって何にもなってないよ?だから大丈夫、落ち着いて。ね?」
抱き寄せた体は小さく、弱々しく、いまにも壊れてしまいそうだった。
こんな子が命がけの戦いに出ていたなんて、想像もできない。
少女が落ち着きを取り戻し始め、胸の中ですすり泣く声が聞こえてくる。
「ミヤさん!お風呂まで運びます!道を開けてください!」
少女を抱えてお風呂場へ向かう。
周囲の目線は複雑なもので、憐れみから恐怖、軽蔑の目まであった。
風呂場に到着した僕たちは、服もそのままで風呂に飛び込んだ。
粘液が付着した腕を丁寧に洗い流してやる頃には、少女は完全に落ち着きを取り戻していた。
まだ涙を見せる少女は
「本当に助かるの?」
と問いかけてくる。
「大丈夫だって!絶対に大丈夫!」
不安の中に浮かんだ一閃の笑顔は眩しく、それを見てこちらも微笑んでしまう。
いやしかしあれだな。
かなり危ない絵面だな、これ。
児童ポルノ法とかでひっかかるやつだなこれ。
粘液をすっかり洗い終えた僕らは、ビショビショのまま皆の元へ向かった。
なぜか少女は僕にしがみついて離れようとはしない。
かなり危ない!周囲の目がとても痛い!
やめて!これは不可抗力であって、決して望んでこのような状況に身を投じたわけではなくて、いやでもだからと言って嬉しくないのかと聞かれますとそれは別物で…
「おいラスト!どういうことだ!説明しろ!」
ミヤさんの言葉で無事に自分の世界から帰還した僕は説明を始める。
「おそらく過去の人達を苦しめた原因は、正確には毒ではありません。厳密には線虫というナメクジの粘液に生息する寄生虫の一種です。これは毒ではなく、感染も経口感染に限られます。簡単に言えば口からということです。僕のいた地域のナメクジは小さかったので口からなんてことは滅多になかったですが、あの量の粘液が飛ばされると、誤飲しても仕方ないです。まぁつまり、浴びただけではなんてこともないですよ!強いて言うなら手洗いうがいの厳重化、熱い風呂に入るくらいが対策でしょうか?」
線虫ー線形動物の一種で、代表的なのはカマキリに寄生しているハリガネムシなんかが有名だ。
高校生物の最後の分野で習う分類であり、入試頻度からあまり深く取り上げられない分野だ。
線虫自体の被害例が少ないのは前述の通り、経口感染だからだろう。
さらにこれは加熱することで殺虫できるのだ。
「よ、よくわからんが、ほんとうに大丈夫なんだな?」
「はい、おそらく大丈夫です!」
周囲から安堵の息が漏れる。
しがみつく少女がいま流した涙は、先ほどとは違うものだろう。
「そ、そうか…。そうかそうか。よかった。」
気の抜けたミヤさんの顔は、体躯とは裏腹にかなり幼く見えた。