第3話 虚空の彼方に……
1973年6月。ミッドウェー諸島沖を航行する海上自衛隊リムパック派遣艦隊。その旗艦たる“打撃護衛艦”『むさし』には、不穏な情報が届けられていた。突如、気象予測に無い“正体不明”のハリケーンが観測されたのである。これは海自派遣艦隊にとっては大きな危機だった。それも大型のハリケーンとなれば、その威力は洒落にならない。特に艦隊はミッドウェー島にて、米海軍側からの補給を受ける手筈となっていたため、最低でも燃料補給などは何としてもハリケーンの接近前に済ませておかねばならなかった。そんなわけで、朝方、その報告を受けた伊藤叡海将補らは慌てて起床し、対策を講じることとなったのである。
「洋上での燃料補給はやはり、諦めるべきではないでしょうか?」
護衛艦『むさし』作戦会議室。航海長兼副長の冴島正哉二等海佐は強く主張した。今回のミッドウェー島での補給が、日米双方の関係者にとって危険であると判断したからである。「各艦、燃料の余裕はある程度、あります。ここで無理をして後々に関わってくるようなことになれば、それこそ他国海軍関係者にとっても迷惑を掛けかねません……」
「艦長、私も冴島副長の意見に同意します」
そう発言したのは、護衛艦『むさし』砲雷長の磯部だった。「ハリケーン――それも観測例の無い超大型だと聞いておりますが、そんなものが接近している中での洋上補給作業というのは、危険過ぎます。やはりここはハワイまで急ぎ、そこで補給を受けるべきかと」
「2人の意見には、私も概ね賛同する」
護衛艦『むさし』艦長、千早は口を開いた。
「司令、私も洋上補給は中止すべきかと思います。如何しましょうか?」
「君達の意見はもっともだ。私も同意するし、我々の最優先任務はハワイへ向かうこと。ここで無茶をして、部下を危険に晒すわけにもいかんからな……」
と言い、伊藤は静かに立ち上がった。
「……あれがハリケーン、かね?」
「ええ。そうですが……」
護衛艦『むさし』艦橋。伊藤は徐に窓際へと歩み寄り、指し示す。そこには、天まで衝くほど巨大な1本の竜巻が聳え立っていた。灰色に渦巻く巨大な柱――荒れ狂う海原を飲み込み、天高くへと押し上げる。空は灰暗色の雲によって一面覆われ、晴れ間など見ることも叶わない。そんな情景を作り出す巨大なその竜巻は今、ただ一直線に、この護衛艦『むさし』を目指し、突き進んでいたのだ。
「ハリケーンの針路を外れるよう、艦の変針は行っているのか?」
「勿論です」
航海長の冴島は言った。
「……だがあのハリケーン。まるで“意思”でも持つようにこちらに向かっているぞ」伊藤の主張する通り、ハリケーンはミッドウェー島の前に立ちはだかるようにして聳えている。そしてこの護衛艦『むさし』に向けて、接近していたのだ。
「このままでは危険だ。すぐに――ッッ!?」
その時、護衛艦『むさし』に一筋の閃光が迸った。耳を聾する轟音とともに天より降り注いだそれは――雷。しかしそれは『むさし』にとって、思わぬ作用を生み出すこととなった。
『艦橋、CIC。水上レーダー、僚艦2隻を捕えられせん。ロストしました』
艦内電話の受話機から響いたのは、電測長丸山一等海曹の声だった。
「何だと、そんな馬鹿なことがあるかッ!」冴島は怒鳴った。「通信はどうだ?」
『駄目です。繋がりません』
「くそ……」
レーダー、通信という手段を失った今、旗艦たる『むさし』が艦隊を捕えるどころか、指揮する自体不可能に近くなっていた。それは即ち、この派遣艦隊自体が繋がりを失い、孤立しているということに他ならない。特にハリケーンが迫る今となっては、死活問題であった。
刹那、強烈な衝撃が護衛艦『むさし』の巨大な艦体を押し上げた。ハリケーンである。灰色の渦を巻くその巨大な柱は、ミッドウェーの海を掻き混ぜ、巨大な津波を引き起こして『むさし』にぶつけていたのだ。
「くッ……。何という……ことだ……」
「司令。大丈夫ですか」
先ほどの衝撃で床に倒れ込んだ伊藤を、冴島が起こし上げる。
「くそッ……。くるぞ……ッ!!」
伊藤は怒鳴り、冴島は振り返る。
そこに映り込んできたのは――巨大な水の壁だった。
第3話『虚空の彼方に……』
――伊藤叡は夢を見た。沖縄の空、群青色に染まった、晴れ晴れとした蒼空。だがそれは、夢の中で描かれた光景では無く、過去に一度目にしている光景だった。そう、太平洋戦争末期の沖縄――日米両軍が官軍を巻き込み、死屍累々の地獄と化した島の上空。火炎放射と空襲で消し炭と化した大地と対照的な、どこまでも澄んだ青色の空であった。そこに浮かび上がる――暗白色の翼。それはかつて、伊藤も搭乗し、共に空を翔けたことのある大日本帝国海軍の名機――零式艦上戦闘機である。両翼に紅い“日の丸”を付けたその零戦は、沖縄の空を忙しく翔け回った。伊藤の身体はその零戦のコクピックにあった。
ふと、伊藤は後ろを振り向く。そこには数機の青い戦闘機の姿があった。彼はその機体のことを鮮明に覚えていた。そしてそれが憎むべき敵――である、ということもまた、彼は覚えていた。
「……ヘルキャット」
自身の意思と関係無く、自然と口から洩れたその言葉。それは青い戦闘機の正体――米海軍のF6F艦上戦闘機の名称に他ならなかった。
刹那、零戦はフワリと宙を舞い、大空を滑り落ちるよりに下降した。背後ではヘルキャットがそれに続き、次々と翼を翻していく。伊藤はそんな光景を見て、言い知れぬ絶望と恐怖を感じていた。それは以前にも一度、目の当りにしている光景――の筈だった。しかしそれでも、戦争というのは人を変える。そして同時に、戦争を経験した人間は、戦争が終わってもまた、変わることがあるのだ。何十年という歳月の末、今となっては数少ない記念写真や、おぼろげな記憶の中でしかかつての情景を思い出すことの出来なくなっていた人間が突然、鮮明な戦争の場面を目撃すればどうなるか……。それが今の伊藤である。
「く……くそ……ッ……」
自然と喉奥から押し上げてくる嘔吐の感覚。視界はモザイク状にぼやけ、両手両足からの感覚が途切れていく。嗚咽が漏れ、全身が金縛りにでもしたように動かなくなる。背後からはヘルキャットが迫り来る……。そんな状況の中、伊藤は、その己の力を振り絞り――コクピットを押し開けた。
「こ……こんな……こんな……」
満身創痍になりつつも、必死にコクピットから身を乗り出す伊藤。次の瞬間――彼は飛び出した。その背中には脱出用の落下傘が備えられている。
猛スピードで空を翔け降りる彼だが、その視界はある瞬間――真っ白となった。否、何も存在しない……。まさに“虚空”――とでもいうべき空間だった。そんな空間にただ一人、伊藤は存在している。そこには天も地も存在しない。故に彼は今、落ちてはいなかった。飛んでいなかった。歩いてもいないし、浮いているわけでもない。もっとも近い表現で言うならば――“固定”されているというべきだろう。伊藤は今、そんな状況にあったのだ。
「……私は……」
白濁した意識の中、伊藤は眠りについた。
1941年12月8日
アメリカ合衆国/ハワイ準州
オアフ島は――燃えていた。黎明、東の空より昇ってきたのは、太陽だけではなかった。300機以上の大日本帝国海軍航空機が、突如としてアメリカの国土であるハワイ、オアフ島の空を埋め尽くしたのだ。それは事実上の日米開戦――『真珠湾攻撃』に他ならなかった。それは戦艦こそが、艦隊決戦こそが戦争の決定打となり、航空機では戦艦を沈められはしない、と信じて疑わなかった当時の海軍常識を根底から覆す作戦でもあった。この攻撃で米海軍は太平洋艦隊の主力戦力であった戦艦8隻を撃沈、または損傷により行動不能とし、米海軍太平洋艦隊を事実上の壊滅に至らしめたのである。だがしかし、この『真珠湾攻撃』は一方では帝国海軍にとっても大きなリスクをはらんだ作戦――主力たる空母6隻全てを喪失しかねない大博打であったこともまた、事実であった。
「まさかこのようなことになろうとは……」
オアフ島真珠湾、米海軍太平洋艦隊司令部。帝国海軍による攻撃を受けなかったその建物には、既に降格を免れないであろう1人の男の姿があった。その男の名は――ハズバンド・C・キンメル。現在、太平洋艦隊司令長官を務める男であり、この『真珠湾攻撃』の責任を背負わされた人物である。
「戦艦8隻を一気に潰され、真珠湾の港湾施設も打撃を受けた……。今や無事なのは空母を引き連れたハルゼー達の艦隊だけで、太平洋艦隊はほぼ壊滅状態だ……。くそッ、忌々しい……ッ!!」キンメルは苦虫を噛み潰したが如く、顔を歪ませて怒鳴った。
「……この責任は私が取らねばならぬ。だがその前に、ジャップの艦隊だけは何としても壊滅させるッ! 分かっているな、マクモリス」
そんなキンメルの声に、太平洋艦隊司令部作戦参謀のチャールズ・H・マクモリス海軍大佐は頷く。
「サー、ミッドウェー島のハルゼー中将には、この攻撃のことについて既に連絡を取っております。また、残存の哨戒機は全て、ハワイ近海に展開し、艦隊の捕捉に専念させております。ジャップを逃がしはしません」
「そうか……。頼むぞ、そうでなければ真珠湾でジャップの騙し討ちを食らい、死んでいった水兵達に申し訳が立たん。それに私はアメリカ海軍史に残る恥晒し者として、笑われ続けることとなってしまうだろう……」
――そう言い、キンメルは未だ炎上を続ける真珠湾の光景を眺めるのであった。
ご意見・ご感想等お待ちしております。