第1話 武蔵、沈マズ
1946月7月12日
東京都/千代田区
元米海軍太平洋艦隊司令長官たるレイモンド・A・スプルーアンス大将は、現在はアメリカ、メリーランド州のアナポリス海軍士官学校の校長を務める身であった。そんな彼が今居るのは、有楽町に位置する旧第一生命ビル――連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の、煙草臭の染み付いた応接室だった。スプルーアンスは横に座る男――旧海軍予備役大尉の伊藤叡と待たされること1時間だが、急く様子も無かった。数日前、無二の親友であった伊藤整一予備役中将の“行方不明”報告を聞かされたその時には、彼は悲愴と驚愕に包まれていた。が、それも今では治まっていた。いや、生存の可能性を諦め、ただただ現実を受け入れただけなのかもしれない。だが昔の伝手を用い、日本への直行便を掴んだ点から見ても、希望だけは捨てていなかったのだ。即ち――伊藤整一は生きている、と。
スプルーアンスはふと、隣に座る伊藤叡の俯く顔を見た。史実の1945年春、沖縄上空で米海軍の艦載戦闘機と激突し、壮絶な最期を迎える筈だったその男は、今物語では終戦まで生き延びた数多い特攻隊員の1人であった。当時、愛国的な若者によって成り立っていた“特攻”だが、その武器ともいえる航空機無くしては、特攻隊員は丸裸の人間に過ぎなかったのである。そしてその問題の原因は“物資不足”という言葉によって集約される。既に資源が枯渇し、海外からの輸送もままならなかったその状況下では、航空機の不足は目に見えた問題だった訳である。例え航空機があったとしても、次の“燃料”という問題を解決しなければ意味も無い。
伊藤叡は、そんな理由から地上に釘付けだった特攻隊員達とは異なり、航空機を与えられた一人であった。が、彼は特攻機を護衛する任務――即ち直掩機のパイロットであった。1945年の今となっては、第一線機と呼ぶにも苦しい性能を持つ零式艦上戦闘機――通称“零戦”を操り、数において大きく上回る米海軍の艦載機から、特攻機を守り切る。それが如何に困難な任務であったかは、言うに及ばないだろう。攻撃と格闘性に重点を置き、防弾性能を投げ捨てた零戦は、太平洋戦争を通じて重武装化と改良のなされた米軍機の前には無力であった。それが平均数十機以上も数に勝っているのだから、伊藤叡を始めとする直掩機部隊は大変だったに違いない。
そんな激動の日々を生き延びた伊藤叡。そしてその父親たる伊藤整一中将もまた、戦艦『大和』とともに終戦の日を迎えていた。史実では1945年4月、沖縄特攻作戦――通称『菊水作戦』に駆り出され、沖縄特攻を見ることなく、九州坊ノ岬沖に撃沈される戦艦『大和』。その艦内には無論、特攻艦隊司令長官たる伊藤整一の姿もあり、彼もまた『大和』とともにその身を海中に没することとなる。
しかし今物語では、戦艦『大和』と特攻艦隊は沖縄へと向かうことは無かった。1945年4月上旬、戦艦『大和』を始めとする帝国海軍の軍艦に燃料を供給する山口県徳島市の『第三燃料廠』が、B-29の大空襲に晒され、壊滅したのだ。こうして第三燃料廠を喪失し、沖縄までの燃料を失った特攻艦隊は出撃中止を与儀無くされたのである。その後、『大和』は米海軍の2度の空襲を耐え、終戦を迎えた。
だが歴史の成り行きは残酷だった。米軍に接収され、その指揮下に入った『大和』は戦艦『長門』同様、1946年7月に行われるビキニ環礁の原爆実験に“標的”として選ばれてしまったのである。それは『大和』を愛した多くの人々――特に終戦間際、戦艦『大和』の指揮を担っていた第二艦隊司令長官伊藤整一としては、あまりにも哀しい現実だった。そして彼は、その変え得ることの出来ないであろう不条理を何としてでも正すべく1つの組織を設立した。
それが――『大和会』である。
「……こちらです。元帥がお待ちです」
ダグラス・マッカーサー元帥の副官であるL・E・バンカー大佐は、応接室で待っていた2人をGHQ最高司令官執務室に通した。スプルーアンス大将が先に立って奥に進むと、デスクに座るGHQ最高司令官マッカーサー元帥の姿が現れた。もうもうと立ち込めた紫煙に囲まれ、トレードマークでもあるコーン・パイプを口に咥え、内線電話に向かって喋りながら。ペンを持った手を振って、スプルーアンス達に入るよう促すと、もう一度、手を振って、バンカー大佐を下がらせた。
バンカー大佐が背後で扉を閉めた。マッカーサーは2人に手振りで合図をし、デスクの前に置かれていた椅子に座るよう促した。それから、内線電話を切り、受話器を電話器に乱暴に押し付けた。そしてコーンパイプをデスクの上に置き、2人の顔を見据えた。
「スプルーアンス大将。会うのは1945年の夏以来だな」
伊藤叡は目の隅で、マッカーサーがやや不機嫌気味な視線をスプルーアンスに投げ掛けていることに気付いた。とても歓迎しているような様子ではない。恐らくは……。
「元帥も御元気そうで」
そう伊藤叡が考える内、スプルーアンスは社交辞令的に返答を返した。その目は冷め切っており、陸海軍――いや、両者の不仲さが垣間見える。そんな返答にマッカーサーは少し頷き、再びコーンパイプを咥えると、マッチを勢い良く擦り、火を付けた。煙が立ち昇り、彼の口許が緩む。そしてスプルーアンスの右隣に座る、見慣れない日本人青年の方にその注目を向けた。
「そちらの彼は?」
「伊藤叡予備役大尉であります。マッカーサー元帥」
「あの伊藤提督の息子さんです、元帥。今回の一件の関係者の一人でもある」
スプルーアンスがそう言うと、マッカーサーは少し唸った。
「伊藤提督……の息子か……。なら、彼にとっては酷な話となるだろう」マッカーサーはそう言い、伊藤叡の方に視線を向けた。「我々、GHQの懸命な捜査の結果、君の父伊藤整一氏は、『大和会』の中心的人物であるということは明らかになった。そしてもう1つ、ビキニ環礁での原爆実験で『大和』の運行を委託した日本側乗組員の一部が、行方不明となっている……この意味が分かるかね?」
「……まさか」
「そのまさかだ」
マッカーサーは淡々と言った。「どうやら、その乗組員が『大和会』のメンバーだったらしい。現在、懸命な捜索作業が続けられているが、それも無駄に終わるだろう。何故なら我々の推測では、『大和会』の伊藤整一らは、原爆実験の標的艦である『大和』に潜り込み――自決したと確信しているからだ」
第1話『武蔵、沈マズ』
1973年5月
広島県/呉市
「左、帽振れー!」
黎明の刻、曙色に染まる呉の港街を背景に1隻の巨艦がその姿を露とする。約1年間、かつて“戦艦『大和』”が建造・修繕の為に利用していたという旧呉海軍工廠――造船船渠から遂に解き放たれた“それ”は、太平洋の遥か先を目指し、突き進む。そしてその後方からは、遅れるようにして2隻の艦艇が追従していた。海上自衛隊が誇る護衛艦――即ち旧海軍の子孫達だ。
まず1隻目の護衛艦『はるな』は第1護衛艦群所属のヘリコプター護衛艦(DDH)である。起工は3年前の1970年。竣工は今年2月であり、まだ生まれて間もない新鋭艦だった。ソ連海軍の原子力潜水艦を仮想敵として効果的な対潜任務の遂行を求められた末、誕生した『はるな』は、基準排水量4700tと旧海軍の軽巡洋艦に匹敵する水上艦艇へと仕上げられた。計3機のHSS-2『ちどり』対潜哨戒機を搭載可能とし、個艦兵装としては73式54口径5インチ単装速射砲、アスロック対潜ミサイル、68式短魚雷を有している。主機関には蒸気タービンエンジンが採用されており、30ノット以上の速力を出すことが可能であった。
そして2隻目は護衛艦『あまつかぜ』――海上自衛隊初のミサイル護衛艦(DDG)である。『ジェットコースター』の異名を持つこの艦最大の特徴は、海自で初めて艦対空ミサイル『ターター』と『ターターシステム』を搭載したことにあった。『ターターシステム』とは対空武器システム――ターターミサイル・ミサイル発射機・レーダーを一括りにしたシステムの総称――のことであり、米海軍が開発したもので、それを海自で初めて導入したのが護衛艦『あまつかぜ』だった。
この『あまつかぜ』だが、当初は『あきづき』型護衛艦をベースにした2600t級護衛艦として起案されたのが始まりである。しかしその規模では収まらないことが後の派米調査で判明し、数回の設計変更の末に3050t級護衛艦として建造される。また設計変更の中には規模の拡張のみならず、『いすず』型護衛艦でも採用された遮浪甲板型という艦型が採用されている。
搭載兵装に関しては、ミサイル護衛艦という名称の通り、Mk.13『ターター』単装発射機、68式50口径3インチ単装速射砲、アスロック対潜ミサイルなどを有している。だがヘリコプター搭載能力に関しては、『あまつかぜ』は有していない。
しかし『はるな』、『あまつかぜ』と並ぶ――いや、立ちはだかるというべき2隻の前方を航行する巨大艦は“ターターシステム”、“ヘリコプター搭載能力”を有し、更に両艦とも持たない世界最大の火力を持っていた。その巨大艦の名は――『むさし』である。
■打撃護衛艦『むさし』性能諸元
基準排水量:67,000t
満載排水量:74,805t
全長:263m
全幅:39.0m
吃水:10.6m
機関
主缶:石川島播磨FWD2胴水管型缶×12基
主機:蒸気タービン方式4基4軸推進
(出力:240,000hp)
最高速力:32ノット
航続距離:16ノットにて10,000海里
兵装
45口径63式46cm3連装主砲:3基9門
54口径Mk.39/5インチ単装速射砲:12基12門
50口径57式3インチ連装速射砲:30基60門
Mk.13単装ターター発射機:4基160発
Mk.16/8連装アスロック発射機:1基
Mk.32/324mm短魚雷連装発射管:2基
装甲
舷側:410mm
甲板:200mm
主砲防盾:600mm
艦橋:500mm
艦載機:HSS-2『ちどり』対潜哨戒機×2機
C4Iシステム
WDS/Mk.11武器管制装置:1基
Mk.74ミサイルFCS:1基
63式46cm砲FCS:1基
Mk.117水中FCS:1基
レーダー
AN/SPS-48三次元対空捜索レーダー:1基
AN/SPS-49二次元対空捜索レーダー:1基
OPS-16対水上捜索レーダー:1基
AN/SPG-51Cミサイル射撃指揮レーダー:1基
ソナー
SQS-23艦首ソナー:1基
電子戦
NOLR-1B/ESM
かつて太平洋戦争中、大日本帝国海軍の象徴――世界最強の戦艦として君臨し続けていた『大和』型戦艦第2番艦。史実では『レイテ沖海戦』において米軍機による幾度もの爆雷撃を受け、撃沈された『武蔵』だが、今物語ではその悲劇的な歴史は回避される。『レイテ沖海戦』で辛うじて撃沈を免れ、満身創痍ながらも帰投。その後、終戦までの期間を修繕と待機に回される。そして終戦後はGHQに接収され、一旦は姉妹艦の『大和』同様に原爆実験の標的に決定するが、当時の対ソ戦略の一環として日本に一定の海軍力――要はウラジオストクのソ連海軍を“南下”させないだけの抑止力を持たせるべく、その保有を認められたのである。こうして『武蔵』は海上警備隊に配備され、警備艦『むさし』と改名。正式に運用されることとなった。また『むさし』はその後、1952年勃発の『朝鮮戦争』で米国側の要請を受け、非公式に対地制圧任務等を担っている。
このように史実と異なった歴史を歩んできた『むさし』だが、更なる変貌を遂げることとなったのが1968年。ベトナム戦争の只中、東側諸国の脅威を認識するこの時代、海上自衛隊は3年前に就役したミサイル護衛艦『あまつかぜ』によるターターシステムの配備とその高い性能を評価していた。そして同時に、第1護衛艦群旗艦であり、規定外の大型艦でもある『むさし』に“ターターシステム”を始めとする近代兵装を組み込むという“近代改装案”を発起する。その後、予算の獲得や数回に渡る改装案の変更を経て、1971年にドック入りし、2年後の1973年3月、改装が完了した。
米海軍の新鋭対空武器システム、世界最大の主砲45口径46cm砲、67000tという巨体を支えるべく換装された蒸気タービン機関、アスロックを始めとする対潜兵器、そして計2機の対潜ヘリを搭載可能とする後部甲板。それらを兼ね備えた“近代の戦艦”こそ、護衛艦『むさし』であった。
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