World in the rain
その日、微睡みから浮き上がった僕が最初に捉えた音は、ぱたぽとと窓ガラスを叩く雨粒の音だった。瞼を開ける前に、その裏で薄い光を感じ取りながら、ああ、と内心で溜息。
昨日の天気予報はわざと見なかった。夜空を覆う雲を見つめながら、それでも、晴れてほしいと願って眠りについたのに。
期待を裏切ってくれた、とはいえ予想通りの天気を知らせてくれる雨音に耳をすませる。さてどうしようかと、僕が次の問題について思考する前に、その声はするりと耳に入ってくる。
「―――雨だねぇ」
ぱちり、今度は瞼を持ち上げる。体をベッドに預けたままの僕の視界に映ったのは、抱え込んだ膝の上に顔を乗せた彼女だった。お気に入りの薄桃色のパジャマのままで、言葉同様ぼんやりと僕を見つめている。
「……起きてたんだ」
「ついさっきだけどね」
右腕を持ち上げて、頭上にあるはずの目覚まし時計をまさぐる。手に当たった固い物体を引き下げて、まだアラームをセットした時間より早いことを知った。つまり大分朝早い。平日だってもう少し寝ていられる時間だ。
「また、寝る?」
視線を時計に向けたまま、彼女に尋ねる。彼女は暫くだんまりのままだったが、いや起きる、と小さく呟いた。
「寝ててもいいよ、ご飯でも作るから」
やることもないもんねえ。そう言ってこちらに向けられた背を、上半身を起こしながら見つめる。
―――今年は思ったより、落ち込んでいないようだ。
「朝ごはん、材料ないよ。冷蔵庫の中ほぼ空」
「うーん、でもなんとかするよ」
そして、ドアの向こうに足音は消えていった。
僕もベッドから足を下ろして、なんとはなしに窓へ歩み寄る。カーテンの隙間からは、窓に伝う雨筋と、その向こうに広がる暗い色の雲達が見えた。
雨音をバックに、寝室の脇、クローゼットの前の存在に目をやる。
臙脂と紺のお揃いのバックパック。
奮発して買ってしまった一眼レフカメラ。
付箋が一つ付いた旅行雑誌。
その雑誌の付箋が張られているページには、ここから300キロほど離れた場所にある山の、その頂上から撮影された夜空が広がっている。
知る人ぞ知る絶景スポット。けれども山道が整備されていないせいで、その日いったん雨が降ると登ることができないとされている所。
僕らがそこに行こうと思い立ち、そして毎年行けずじまいになってもう5年目となってしまった。
*
冷蔵庫の中は、確かに中身が少なかった。
不器用な彼は普段も料理をしないが、こうして私が泊まり込む時には、夕飯1食用意できるくらいには材料が揃えられている。けれども今日は本当に無い。
食パンをトースターに入れ、二つだけ寄り添っている卵を手にとりながら、考える。
昨日から雲行きは怪しかったのだ。私だって、昨日のうちからなんとなく行けない予感はしていた。彼ならもうわかりきっていただろうに。となると、ただ単純に忘れていたのだろうか。それとも、・・・・・・自然と口の端が持ち上がるのがわかる。
2つ上の彼はいつも穏やかで、付き合い始めた当初、私のことをひどく安心させてくれるのと同時に、オトナの彼には到底追いつけそうにない私がひどくじれったく思えていた。
最初にあの場所に行こうと決めたのは、私が大学3年生の時。彼氏との旅行なんて初めてで、遠足前の小学生とはまた違う緊張のせいで眠れなかった前日の夜を今でも覚えている。
そして、次の日。彼の車が私を迎えに家の前まで来たとき、突然大雨が降りだしてきた。
あの年は私の夏休みに合わせて予定を決めたから、勿論季節は夏。きまぐれな天気に相当腹を立てたものだったが、今日はもう無理そうだし、また今度行こうよ、もっと星が見える季節に。そう言う彼に説得されてそのまま自宅デートをした。
そして、次の機会は1年以上経った後。私の就活と論文が終わった後となった。全部頑張ったご褒美に連れて行ってあげる。その彼の言葉に、無事全てが終わったことに喜んで、その年はカレンダーを2週間前から1日に10回はめくっていた。
その年に行けなかったのは、天気のせいではなかった。前日の夜、彼が倒れて病院へ運ばれたのだ。
疲労によるもので重い病では無かった。病室のベッドで本当にごめん、と平謝りする彼を、私は散々罵って、それから5日間、彼が退院するまで顔を合せなかった。でも、それは何も旅行に行けなかったせいでは無かった。
彼のことを何もわかっていなかった私に幻滅して、腹が立って、悔しかった。
私が忙しくしていたのと同時期からずっと、仕事が多忙で、やっとのことで休みを取った事実を知ったのは、私に彼の入院を連絡してくれた彼の同僚からだった。
あの時の自分の行動が子供のようで、自分が情けないやら彼に申し訳ないやらで、退院した彼にもなかなか謝ることができなかった。でも彼は、絶対連れて行くからもう少し待っていてと、私に言ってくれた。
変われたのは、3年目。その年は、私と彼の休暇が重なっていた時期に台風が直撃して、前日からとっくに諦めていた。でも、初めて彼の家にお泊りさせて貰うことになった。
初めてのことに、色々緊張した。星を見に行くのを待つ前日よりも緊張していた、と思う。
それが驚愕に変わったのは、彼の家で夜ご飯を作ろうとしたときだ。
冷蔵庫が無かった。
買い物袋を片手に持ったまま、冷蔵庫どこ?と聞いた私に答えた彼の困ったように笑う顔を今でもよく覚えている。それから話をきちんと聞く内、彼が一人暮らしを始めてからまともな料理を食べていないことを知って、もう言葉も出なくなった。就職と同時に独立したのだから、もう2年は経っている。
それを知らなかった彼女である私もどうかと思ったものだが、もうそんなことに構っていられなくなった。私も料理は得意では無かったが、彼の健康のためにそれから半年、ほぼ毎日母に料理を教わった。
そのころから、なんとなくだけど、彼との距離が埋まっていくのを感じた。自分がオトナになれたのかは分からなかったけど、とにかく彼の小さな言動に、自分が後ろではなく隣に並べている感覚を覚え始めたのだった。
4年目は、私が熱を出した。これでおあいこ、そう言った私に彼はばかだななんて言って笑った。入院した時のことを気にしていたのを知っていたらしい。それよりも早く元気になれ、と言って、おかゆを作ってくれようとしたものだから慌てて止めて、市販のおかゆパックとプリンを買ってきて貰った。
ありあわせのおかずを用意しながら、今年はさてどうだろうか、と彼と自分を顧みる。私はもう、今年は少しも残念な気持ちにならなかった。ここまで来ると自分たちの運のなさに笑えてきてしまうし、何よりこの暇になった時間があることが逆に幸せでもあった。
私も彼も、社会人になってから、忙しない付き合い方が増えていた。こうしてゆったりと過ごす時間を大切にしたいと、感じるにはまだ若いだろうか。
でも、
「コーヒー、入れる?」
リビングのドアから顔を出した彼の、その優しい笑顔が好きだから、そして彼が用意するコーヒーの、ちょっと煎れすぎたコーヒーの苦みが楽しみだから。
「うん」
今日だけは、この雨の中の世界でゆったりとふたりきりでいたい。
*
彼女の作った朝食を食べ終えて、今僕はテーブルを布巾で拭いている。その後ろでは、彼女が使ったお皿を片付けていた。
材料がなかったせいでトーストと目玉焼き、少しのハムという簡素なものだったけど、ソースをかけた半熟の目玉焼きは、久しぶりに彼女の料理を食べたなあと僕をしみじみさせた。
付き合い始めてからの彼女は、会うたびに少しずつ、少しずつ変化してオトナになっていった。
それは何も髪を染めたとか、化粧の仕方が上手になった、とかだけではなくて。この料理だってそうだけど、彼女はもう僕の支えを必要とはしていない、誰かを、僕を支えることのできる人になっていて。
ただのんびりとしているだけの僕に年下だからと気を使って、背伸びをして。でもたまに我慢がきかなくなって。そんな彼女が可愛かったのだけど、もう彼女も一人の女性だった。今は僕もただ彼女の支えに、彼女に見合う人物になりたいと思う。
蛇口をひねる音。
「ねえ、今日この後どうする?映画でも借りてくる?」
最後の一枚のお皿を手に持ったまま、彼女がカウンター越しに僕に問う。僕はそうだなあ、なんてぼやいてテレビの傍まで寄った。
「映画もいいと思うけど、今日はせっかくだし旅にでてみない?」
テレビ台の下のボックスを引っ張り出しながら彼女を肩越しにみると、まるでよくわからないといった顔をしていて、それがちょっとまだ子供っぽくておかしい。
「ちょっと大変だけど、きっと素敵な旅に連れて行ってあげる」
あの写真の星空にはまだ連れていけないけど、また来年、いやずっと先になっても、僕が君に見せてあげるから。
その時まではどうか僕の隣にいてほしいと、心の中で願っている。
*
それから、彼と彼女は旅に出た。
テレビ画面を前に、勇者と魔法使いは星空を目指してひたすら進んでいった。
彼女はゲームをしなくなってから久しかったからか、彼も予想外の行動に出て道のりはなかなか険しかった。
それでも、彼女も彼も散々笑って、ときどき本気で口論になって、それがおかしくてまた笑って。
画面に星空とエンドロールが流れる頃に、外の雨音が止んで、二人並んで窓の外の世界を伺った。
そこにあるのは日常で、またあの星空とは遠くなる。
それでも、二人は空を見上げ、まだ見ぬその景色に向けて約束をするのだ。
また来年に、きっと会いましょうと。
初投稿になります、千乃です。
知識もないまま書いたので、段落や間やらきちんとしていないかもしれません・・・すみません、ちゃんと勉強します。
初めて最後まで書ききれて、ひとまずほっとしました。
勉強が忙しい中ではありますが、これからもちょくちょくお話をあげられたらいいな、と思っています。
どうぞよろしくお願いします。