第9話
瑞希に可八の思いを伝えたものの、愛姫にはあれで解決できたとは思えない。
可八は明羅と会っている。最近では、可八の様子でそれがわかるようになっていた。
悔しい。
自分より先に恋人を持ったことではなく、あの明羅の心をとらえたことが悔しい。
だが、可八はその未来をあきらめている。それが本当なら、切ないことだ。
しかし。
どうせ明羅についていくのだろうと思う。
明羅の言葉に抗えないのだろうと思う。そうすると、可八の潔い決意の言葉でさえ、疎ましくなってしまう。
誰に相談することもできず、自分の中で反芻しては落ち込んでいく日々が愛姫には続いた。本当に重い悩みは誰にも話せないものだが、それでもこういうときは、自分の孤独をことさらに感じずにはいられない。
友達がいない。
恋人もいない。
家族も、いない。
ある夜、どうしてもバーに行きたくなった。
酒は嫌いだが、どうしてもあの雰囲気に浸りたくなった。
たった一杯のシンガポール・スリングだったが、アルコールに免疫のない体はすぐに反応し、体が熱くなった。気だるい液体を吸い込んだ赤いチェリーが効いたようだ。
マンションに戻ると、下半身の力が一気にぬけ、上がり框に手をついた。
「大丈夫ですか?」
あわてて愛姫の体を支えようとした可八は、いつもと違う雰囲気に、動きを止めた。
「お酒、召し上がってらっしゃいます?」
愛姫は何も答えず、とりあえず框に腰を下ろした。足が思ったように動かない。どうしたら楽になるのかわからないが、こうして休むほかない。
そこへ、可八が水の入ったコップを持ってきた。
差し出されたグラスを持ち、しかし、愛姫はそれを素直に受け取る気持ちになれなかった。
可八には支えがある。つらい思いを支えてくれる、これ以上ない恋人がいる。だから、こんな自分にもやさしくできる余裕があるのだ。
可八のせいで。
可八のせいで、母は死んだのに。
可八のせいで、自分の人生は狂ってしまったのに!
パシャッ
気づくと、グラスの水は可八の頬から滴り落ちていた。空のグラスをフローリングに投げ出し、愛姫は座った目で可八を訝しげに睨み付けた。
「思い上がった顔をしないで。自分に恋人がいるからって、浮かれた顔見せないで。私から何もかも奪ったくせに、そんな顔しないでよ!」
可八がどんな表情をしたか。
わからないまま床に倒れこんだ。
もう、どうなってもいいと思った。
可八と一緒にいたくない。
明羅と結婚したければすればいい。そうしたら晴れて自分は自由の身だ。
しかし、一人になって、それで何があるというのだろう。
何も無い。
家に帰って、毎日一人になるだけだ。
いったい自分は何を求めているのだろう。何がどうなれば満足するのだろう。
明羅は可八のもとへ行ってしまった。
あんなに苦労してなった弁護士なのに、毎日がジレンマとの戦いだ。
どうして、弁護士を目指したのか。父に対抗したかっただけなのか。だとすれば情けない。
人生の価値が見出せない。今までが我武者羅すぎたのか。
冷たい床に頬をつけたまま、愛姫は重い瞼を閉じた。
次の日は、可八と会わずに家を出た。あそこまでしてしまったのはお酒のせいもあるだろうが、やっぱり後悔せずにはいられない。
気まずい。どうすればいいのか。
その日の帰り、あまりの蒸し暑さに耐え切れず、愛姫は帰り道のコンビニで冷たい炭酸飲料を買い、飲みながら夜道を歩いた。このまま帰って可八にの顔を見るのも気が重く、愛姫はマンション近くの公園へ足を伸ばした。
木々の間を流れ出した風が汗に当たって気持ちが良い。ブランコを揺らしながら公園を独占し、ペットボトルが空になるのを待って、家へ戻った。
しかし、可八は家にいなかった。
また明羅か。
後悔した気持ちが又憎しみに変わり、空のボトルをゴミ箱に投げつけた。
時計を見ると、十一時を回っている。
その時だった。
突然、玄関のチャイムが鳴り響いた。
こんな自分に誰か。可八なら鍵を持っている。
チェーンをつけたままドアを開けると、そこには紺色の制服姿の若い警官がいた。
驚く愛姫に、警官は軽く頭を下げた。
「夜分遅くに失礼します。橋田愛姫さんですね。」
「・・・はい。」
「こちらの女性と同居していらっしゃいますね。」
警官の影に隠れるように、幽霊のように可八が立っていた。
「・・・そうです。」
警官は可八に家に入るよう促し、その影が見えなくなるのを確認してから、小さな声で愛姫に言った。
「実は、電車に飛び込もうとしたところを保護したんです。」
「・・・!?」
愛姫は耳を疑った。
空気が固まってしまったように、体内に入らない。
「青い顔してホームにずっと立っていたらしく、駅の係員が不振に思っていたら、突然走り出したということで、通報が。」
「・・・・・。」
「聞いても何も話してくれなくて、とにかくやっとここの住所だけ聞き出しまして。」
「そうですか。すみませんでした・・・。」
一通りの手続きをすませ、警官が帰ると、愛姫は玄関にへたりこんだ。
何ということだ。
今さら、心臓が高鳴りだした。喉から飛び出そうで、息ができない。
可八が自殺未遂。
自分のせいなのだろうか。
夕べのことがあったから。
(私が・・・・。)
もし、このまま可八が死んでいたら、どうしていただろう。自分の言動が可八を追い詰めたのだとしたら、自分が殺したも同じだ。殺人者と同じだ。
突然、唇が震えた。歯が噛み合わさらなくなった。
恐ろしかった。
自分の罪が恐ろしい。未遂でよかったものの、本当に死んでいたら。
と、その刹那、愛姫ははじかれるように立ち上がった。可八が、今また独りになって自殺をはかろうとしているのでは、という不安がよぎったからだ。
「可八!」
愛姫は廊下を走り、可八の部屋の扉を勢いよく開けた。
中は暗く、廊下の明かりではよく見えない。
息を呑み、目を凝らして中へ入っていくと、ベッドに顔を伏せて可八は泣いていた。
「可八・・・。」
愛姫はとりあえず安堵して可八のそばに近寄った。
「可八、・・・私が悪かったのね。」
すると、可八は布団に埋めた顔を横に振った。
「でも、昨日は私が悪かったわ。」
「そうでは・・・ないです。」
声にならないほどの嗚咽が夜の静寂に響く。
「じゃあ、なぜ・・・。」
可八は泣いたまま、何も言わなかった。言えなかったという方が正しいかもしれない。
愛姫は、とにかく可八を独りにしてはいけないと思った。いつ、また死への衝動にかられるかわからないからだ。
泣きやまない可八をベッドに入らせ、愛姫はその傍らに付き添うことにした。
どんな理由にしろ、可八が自殺していいわけはない。
(もしかして・・・。)
瑞希ではないか。
駄目なら最後の手段に出ると言っていた。明羅の説得ができなくて、可八に直談判したのではないか。もしそれが事実で、それに愛姫の態度も加わったなら、自殺するほどの気持ちになっても無理はない。
(やっぱり、私が・・・。)
昔、可八が自閉症になって、自分のせいだと思ったときを思い出した。あのときも恐ろしくなって、可八を救うことに必死になっていた。それと同じことを繰り返している。
可八を救うためではない。
自分を救うために必死になっていただけだ。
一番卑怯な自分。
一番ずるい自分。
やっと眠った可八を眺めながら、愛姫は自責の念にかられた。今、こうして傍に付き添っているのも、優しさからではない。自分が楽になりたいからだ。自分を救うためだ。
(でも、)
可八がいくら憎くても、死んで欲しくはない。夢見が悪いからとかではなく、ストレートな、感情だ。それが、長く一緒に暮らしているがゆえの情というものだろうか。
(自分を殺したりしないで。)
窓の外のベランダ越しに、銀色の星が見える。
夜は、真夜中でも漆黒ではない。雨が降っても、いつも蒼い夜だ。
(宇宙の色は、・・・黒じゃないんだ。)
愛姫の瞳から、涙が溢れだした。
何が悲しいのか、自責の念なのか、可八が無事だったことにホッとしているのか、わからない。ただ、涙が止めどなく溢れていく。
愛姫はその夜、可八の手を握ったまま、放すことはなかった。