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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
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第8話

 望月瑞希は、兄、明羅と二人で都心のマンションに暮らしている。十五年前に事故で亡くなった両親はローンをかかえていなかったため、今でもここに住んでいる。

 二人が学生の頃は、父の妹で精神科医の美紗緒が、一緒に暮らして保護者代わりになってくれていた。独身貴族の叔母は、今でも時折様子見がてら、話し相手になってくれている。

 しかし明羅の一件は駄目だった。叔母は明羅に味方した。

「彼女が罪を犯したわけではないでしょう。第一、明羅君はそれで中傷されたら真正面から立ち向かうわ。瑞希君だって、そう思うでしょう。」

「素性の悪い家系は、絶対に廻りますよ。」

「明羅君が、守るわ。絶対にね。」

精神科医は寛大だ。瑞希は頼る術が身内に無いことを知り、最後の頼みの綱として、愛姫を訪ねたのだった。

 愛姫は可八の意志を確認してくれたが、全然安心できない。可八の薄弱な思いなど、明羅の強さにすぐ押し切られてしまうと思うからだ。

 愛姫は、所詮他人なのだ。可八が誰と結婚しようと関係ないのだ。いや、肩入れするからこそ、反対などできないのかもしれない。どちらにせよ、期待などしてはいけなかったのだ。

 孤立無援の意味を、瑞希はことさら噛み締めた。兄の幸せのために、自分の輝かしい未来を犠牲にされていいわけがない。愛姫のような強い女性より、頼りなげな可八を選んだ兄の気持ちが、わからないわけではない。そう、愛姫は男に頼らず一人で前を向いて生きていく。どちらかというと、自分より下の男は男として価値を見出していないような気さえする。

 瑞希の婚約者の沙織は、同じ勤務校でフランス語の講師をしている。典型的なお嬢様育ちで、講師も社会勉強のためであり、仕事としての責任やキャリアなどというものとは無縁だ。こういう女が、平日は仕事で目一杯の夫に、休日の家族サービスを当たり前のように要求する妻になるのだろう。自分の都合に合わせて時間を作り、自分一人の時間を持てる立場に感謝などせず、非日常を夫にねだる。働いている者にとっては、家にいられる休日こそが非日常だというのに。だが、将来の理事長の椅子を思えば、それくらい容易いものだ。

 直接会う前に、実は、瑞希は愛姫の裁判を見に行った。

 颯爽としていて、うらやましかった。だが、その表情が何故か憂いを帯びていた気もする。大変な仕事だからそれなりに辛いこともあるのだろうと、一人納得した。

 だが、あの姿が冷たい他人行儀を思い起こさせる。実際会った愛姫は、エリートぶったりせず、大人しい印象の女性だった。しかし自分の意見をのべるときだけは、商業柄か、瞳の鋭さが違った。

 瑞希は、自分がどんなにもてるか自覚している。それに気づいたときから、女は利用する道具になった。自分を高めるためなら、自分の得になるのなら、どんな女とでもつきあった。自分から近づいたことなどなかったし、別れることを惜しんだ相手などなかった。雑誌に並んでいる物を与えれば喜ぶのだから、簡単なものだった。瑞希は、自分にあしらえない女などいないと思っている。

 だが、愛姫はわからない。

 ピアスもマニュキュアもしない女はめずらしい。これ見よがしのブランドのバッグも持っていない。指輪もしていない。鎖骨に、シンプルな銀のネックレスがさりげなく輝くだけだ。何をあげたら喜ぶのかわからない。どんなに優しくしても、自分の思い通りには動かないと思う。

 その夜、明羅は十時過ぎに帰ってきた。可八と食事をした後、家まで送り届けてから帰ってきたという。

「忙しくて疲れているんだったら、送り届けるなんてことまで、することはないだろう?」

腹立たしく言い捨てると、明羅は穏やかに微笑んだ。

「瑞希だって、遅くなれば沙織さんを送っていくだろう?」

「兄貴が疲れきっているから心配しているんだよ。」

「そうか。ありがとう。」

あまりにも穏やかな様子が妙に腹立たしい。自分とは正反対で、女性になどずっと興味が無かった兄が選んだのが、あの冴えない殺人犯の娘だと思うと地団駄踏みたい気分だ。

「で?もう結婚の話をしたのか。」

「ああ。」

瑞希は思わず固唾を呑んだ。

「彼女、何て。」

明羅は瑞希がどんなに反対しているかわかっている。だから少しためらい、そして言った。

「大丈夫だよ。」

「え・・・?」

明羅のそれは、答えになっていない。

「どういうことだよ。」

愛姫の言葉を信じている。だからこそ、はっきりさせたい。焦る気持ちをむき出しにした瑞希に、明羅は冷静な目を向けた。

「結婚するよ。例え、彼女が何と言おうと。嫌われない限りは。」

兄の背を眺めながら、瑞希は愛姫に会ったことが無駄だったのだと悟った。可八がどう思っているかなど問題ではなかったのだ。兄を説得しない限りは、どうにもならなかったのだ。

「俺の結婚はどうなる?いつかは破談になる。」

「沙織さんが瑞希を本当に好きならそうはならないはずだ。」

「馬鹿を言わないでくれ!結婚は家同士の繋りだ。本人同士の問題だけで済まされるようないい加減な家系じゃないんだよ!」

「本人に責任の無いことを攻めるのは卑怯なことだ。そういう相手となら、結婚すべきじゃない。」

「それはこっちのセリフだ。家の者の賛成を得られないような相手とは結婚すべきじゃない。絶対に、どこかで誰かが不幸になる。兄貴に、俺を不幸にする権利なんかないはずだ!」

「なら、どうすればいい?俺が、望月家から籍を外せばいいのか。」

瑞希は強く唇を噛んだ。

「兄貴には、俺よりも、叔母さんよりも、藤木さんのほうが大切なのか。」

明羅の細い目が、僅かに揺れた。

「彼女には、俺しかいない。」

「橋田さんがいる。」

「橋田さんは、いつか結婚する。その時彼女は天涯孤独になる。」

「同情で結婚するのか。」

「同情なら、橋田さんにだってしている。違うよ、可八に対しては同情なんかじゃない。」

「橋田さんだったら良かったよ。俺、そしたら大手を振って賛成していた。」

「それは、橋田さんが地位ある女性だからか。」

「それだけじゃないよ、素性も確かだ。少なくとも犯罪者の家系じゃない。」

「人を、家系で判断するな。」

「十分な判断材料だよ。犯罪を起こしたんだ、まともな血が流れているとは思えない。それを拒否する俺は正常だ。沙織の家も正常だ。だから今、婚約を破棄されたって当然だと思ってる。・・・時間の問題だよ。例え兄貴が籍を抜いたって関係ないだろうね。血が繋がっている限りは、他人にはなりえない。兄貴が藤木さんとの結婚を諦めてくれない限りはどうにもならない。藤木さんがどんなに素晴らしい人であろうと関係ないんだ、殺人犯の血が流れている限りは!」

 同じようなやりとりを、もう何回もしている。堂々巡りで決着などつかない。だが、言わずにはいられない。兄の理想論など、現実の前では無に等しい。

 やっとつかんだ逆玉のチャンスだ。女性は結婚する相手の男によって人生が左右されるというが、それは男にだって同じことだ。

 兄の転落人生など見たくない。日陰を歩かせるようなことなどしたくない。二人で一生懸命生きてきた。お互いが最高の理解者だと信じていた。

 だが、ここで決別した。

 女という生き物によって。

 馬鹿らしいと思う。

 だが、互いが譲れない。

 もう、どうにもならないのか。

 絶望のふちに立たされた瑞希は、最後の手段を決意していた。


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