第7話
愛姫は、かなり悩んだ。
瑞希からの依頼を、何と切り出せばいいかわからなかったからだ。しかし、いつかは話さねばならないのだろう。夕飯の後片付けをしている可八の背中に、愛姫は思い切って声をかけた。
「可八。」
「何ですか。」
洗い物の手を止めて、可八は無邪気に振り向いた。おそらく、愛姫の話など夢にも想像していないのだろう。
「望月さんとおつきあいしているんですってね。」
「・・・。」
可八の表情がこわばった。愛姫は話を引き出そうと落ち着いて、優しく言った。
「父に会って聞いたのよ。別に、隠すことではないと思ったから。」
「つきあいと言っても、いつも取材つきなので、何ともいえません。」
よく言う。
明羅が結婚まで考えているというのなら、それなりのことはあるはずだ。
「父は、結婚するみたいだと言っていたけど。」
「そんな、それは行きすぎです。」
何が、どう行きすぎだというのだろう。可八の話は体よくあしらわれている様で核心をつけない。
「じゃあ、考えてないの?結婚。」
「・・・考えてません。」
思わず、愛姫は身を乗り出した。
「考えてないの?」
「はい。」
「それほど好きじゃないってこと?」
「いいえ。」
「じゃあ、何?」
思わず口調が強くなる。すると、可八は少しうつむいていった。
「私は、殺人者の娘ですよ。結婚なんかしたら、明羅さんまで後ろ指指されてしまいます。」
愛姫は、可八がそんな風に思っているなどと少しも考えがおよばなかった。愛姫の態度が可八に劣等感を植え付けさせているとは感じていたが、こうまで考えているとは。
瑞希が案じる必要などなかったのだ。
「私、取材が終わったら明羅さんとは会いませんから。」
いつにない、強い意志の声だった。愛姫はなんとなく、可八が哀れになった。
「でも、好きなんでしょう。」
可八は、向日葵色の色あせたエプロンの裾をぎゅっと握った。
「好きですよ。」
そう言った可八の目が驚くほど大人で、愛姫は思わず息を呑んだ。
「好きだから、結婚しません。私の命より大事な人を、中傷の的になどさせられません。明羅さんのご家族にまで迷惑かけてしまいます。そんなことできません。」
きれいな表情だった。
可八が自分の意思を、こうもはっきり出したことがかつてあっただろうか。こんな表情を見れば、明羅が好きになっても不思議はないと思う。
もし、可八が明羅と結婚すると平然と言ってのけたなら、きっと愛姫は反発しただろう。だが、こういう展開では何も言えない。ただ、可八と争う必要がなくなったことで心の重荷が少し軽くなった。
現金なものだ。自分に都合が良いときは、相手に思いやりを持てる。
次の日、愛姫は瑞希に可八の思いを伝えた。瑞希は安堵しているようだったが、愛姫は、本当に説得すべきは明羅なのだろうと感じていた。瑞希の戦いは、むしろこれからなのかもしれない。
可八がいくら明羅と結婚しないといっても、明羅が可八を思っているということだけで、愛姫は十分に傷ついている。思い返すたびに、胸の奥がずきりと痛む。
愛姫の今の仕事は、麻薬所持逮捕者の弁護だ。どう足掻いても有罪を免れない場合は、少しでも刑が軽くなるように手を尽くす。正義感の塊の愛姫には、耐えられないような依頼も少なくない。「では何故弁護士か」と言われたら、父と同じ立場にありたくなかったからとしか、答えられない。
今日は、逮捕者の上司に会い、情状のための意見書を書いてくれるよう頼んできた。本音を言ってしまえば、麻薬所持という常習性の高い犯罪に、情状の余地はないと思っている。それでも弁護をするのは、仕事だからと割り切ればいいのかもしれない。だが、愛姫にはまだ割り切れない部分のほうが多い。その分、精神的には非常に疲れる。
特に可八と明羅のことがあってからは、家について食事を終えればすぐに眠ってしまう。しかも、闇に引っ張られるように深い眠りに落ちる。
ワープロを打つ手の甲の細胞の筋が、深くなってきた。
ふと、窓の外をぼんやりと眺めた。
道向かいの雑居ビルのミラーガラスに、灰色の電柱が映っている。
目標が無い。
どこへ向かっていけばいいのかわからないのに、生きていかねばならないのは、少し辛い。
朝起きて化粧をして。
電車に乗って仕事をして。
夜、家に帰って眠る。
ただ、それの繰り返し。
休日を区切りに瞬く間に一週間が終わり、そして一年が過ぎていく。
繰り返して、どんどん年をとっていく。
一人なのだろうか。
このまま一生、一人なのだろうか。
明羅を好きになって、人生に少しの光が見えてきた気がしたのに、また闇に引き戻されてしまった。次にいつ動くかわからない心を抱えて、今度こそ、その覚悟をしなければならないのだろうか。
昼休み。
すっきりとしない頭を抱えて、日比谷公園にやってきた。
ベンチに仰向けになっているサラリーマンや、ランチを楽しむOL達の間を、ぼんやりと歩いていく。
出会う男が皆、既婚になっている。あるいは離婚暦のある男。そんなのに興味は無い。
ずっと一生懸命に生きてきたつもりなのに、どうして神様は、自分より気楽に生きているようにしか見えない女たちには与えている「妻」という座を、自分には与えてくれないのだろうか。
卑怯なところはある。人を見下す癖もある。
それがすべて、一人でいる原因になるのだろうか。
一人でも生きてはいける。
仕事にあぶれる心配はないし、大病さえしなければ、老後まで安泰だろう。
しかし。
公園の芝生に群がる無数の雀が、いっせいに空へ羽ばたいた。
空を仰いだ首筋がピンとのび、新鮮な空気が体に満ちた。
だが、空があまりにも眩しくて。
再び地面を見下ろし、瞼を固く閉じた。
睫毛だけが、静かに濡れた。