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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
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第6話

 愛姫の父は、名検事として名を馳せている。

 その父に歯向かうように弁護士になった。父の頭脳を譲り受けなかったのか、何度も司法試験に挑戦した。しかも大学は一浪している。現役合格した中堅大学への入学を、父が許可しなかったからだ。強制的に予備校へやられ、二年目に一流大へ入学した。

 港区のマンションは、霞ヶ関からタクシーでもそうかからない。昔、仕事で帰宅できなかったときの常宿を、父はそのまま今の住まいにしている。身の回りの世話をするという名目の秘書の女を愛姫は追い返し、一人リビングで父の帰りを待った。自分から父に会いに来るなど、十年ぶりくらいだ。

 父は午前一時過ぎに帰ってきた。

「お前が会いに来るとはな。」

「うざったい女は帰したわよ。」

「どうせ帰るんだ。かまわん。」

エリートの父には、風格がある。だが、愛姫にとってそんなことはどうでもいいことだ。

「それで?何の用だ。」

愛姫はソファから立ち上がり、父を見上げた。

「どうして今まで黙っていたの。可八の自閉症を知っていたこと。」

父はブランデーのビンを棚から出しながら

「だから何だ。」

「実の娘のことは放っておいて、可八のことは気にかけていたのね。」

「それがどうした。あのまま可八が病気で日陰の生活を送っていてもいいというのか。」

「お母さんの病気も、放っておいたでしょ。」

「奈津子は大人だ。」

「大人なら放っておいてもいいってこと?お母さんが頼れたのはお父さんしかいなかったのに!私だって、そうだった!」

 父は琥珀色の液体の入ったグラスに口をつけ、笑った。

「やきもちか。」

愛姫はカッとして地団太踏んだ。

「馬鹿言わないで!誰が!?」

父の言うとおりなのかもしれない。だが、それは認められない。

「可八がどんなに感謝していようと、いい気にならないでよ。私とお母さんは確実に犠牲者なんだから。」

父は何も答えず、背を向けた。

「望月さんが、どう記事にするかはわからないけど、お父さんへの賛美には絶対にさせない。可八の事実がどうであろうと、私の事実は変わらない。それだけ、言いたかったの。」

 かばんを持ち、玄関へと向かった。

「愛姫、どうやって帰る気だ。」

「タクシーを拾うわ。」

「お前の家まではけっこうかかるだろう。」

「だから?別にお金に困ってはいないわ。」

「可八はどうだ。結婚資金ぐらい蓄えているのだろうな。」

愛姫は苦笑した。

「可八のことなら心配要らないわ。」

「そうか。可八はどうやらお前より先に嫁に行くようだな。」

「え・・・?」

 驚いて振り向いた愛姫に、父は間髪いれずに言い放った。

「知らないのか?あの望月君と、つきあってるらしいじゃないか。」


 その夜は、まんじりともできなかった。

 可八が、明羅とつきあっている。

 信じたくない想像が、現実になってしまった。臓の奥が深々と冷えてゆく。すぐに息が上がり、唇が開く。口中が乾き、喉がひっつくようだ。

 朝、気だるい体をひきずる様にしてキッチンで冷たいジュースを飲み干した。それでも胸につかえてしまう。

 可八に会いたくはない。

 家に着いたのは夜中の一時に近かったが、朝六時には家を出た。これ以上遅くなると可八が起きだしてしまう。

 重い頭も、辛い現実の前では震える。

 間もなく九月になる。

 暑く、焼け付くような季節。

 肌にまとわりつく重苦しい空気が大嫌いだ。

 今は、何もかもが大嫌いだ。


 そんな中、事態は思わぬ展開を迎えた。

 可八に明羅とのことを確かめることもできずにいた。そこへ、一本の電話が入った。経理の女性から繋いでもらうと、相手はこう名乗った。

「突然お電話して申し訳ありません。私は望月瑞希といいます。週間トピックスの記者の望月明羅の弟です。」

 愛姫は、耳を疑った。明羅の弟が何の用だというのだろう。

「実は、取り急ぎお話したいことがございまして、無礼とは承知しながら、お電話させていただきました。」

 不審に思う。何かのいたずらではとも思う。見知らぬ他人と関わらねばならない重荷が疲れえた心にのしかかる。

 だが無碍に断ることもできず、その日の六時に、瑞希が愛姫の事務所に来ることになった。

 仕事の合間に頬杖をつき、何度も考え込んでしまう。明羅の弟が自分に話さなければならないこととは何か。しかも、火急という。

 六時少し前に、愛姫は事務所から出た。小さな雑居ビルのため、エレベーターはひとつしかない。狭い廊下並みのエレベーターホールにいれば、絶対に会える。職場の人より前に会いたかったし、できれば職場の人に見られたくなかった。余計な詮索をされるのではないかと杞憂するからだ。

 瑞希などという人間はもしかしたら現れないのでは、という不安がよぎる前に、昇りのエレベーターが開いた。

 そこから出てきた男が二歩目を踏み出す隙間もなく、愛姫が鉢合わせた。

 男はダークブラウンのスーツを着ていた。それが瑞希だということは、疑う余地がなかった。兄と同じ目の形。彫が深すぎない頬。明羅よりもやや優しい印象の顔立ちだ。が、瞳に宿る光は鋭く、冷たい。

「橋田愛姫さんですね。はじめまして、望月瑞希です。お忙しいところすみません。」

 イントネーションが明羅と同じだ。だが、これからどんな話があるのだろうと思うと緊張が解けない。

 二人は新橋方面に歩いていく途中の喫茶店に入った。地下の薄暗い落ち着いた雰囲気の穴場だ。

 瑞希は上着を脱ぎ、アイスのアールグレイを注文した。喫茶店でコーヒーでなく紅茶を注文する男性は初めてだ。 

 愛姫はメニューを見ず、同じものを注文した。何が来ようとかまわない。

 瑞希は、名刺を愛姫に渡した。  

 誰もが知っている超名門の私立学校で教師をしているという。明羅の年齢から考えて、愛姫より年下だろう。

「撫しつけついでにお聞きします。私の兄が、藤木可八さんと婚約したのをご存知ですか。」

「婚約?」

 まさかそこまで話が進んでいるとは思わなかった。次の言葉が出ずうろたえていると、瑞希は付け足すように言った。

「まだ正式のものではないようですが。」

 愛姫は目の前のグラスの中の氷を凝視した。頭の中が動かない。

 考えられない。何も。

 目が、瞬きを忘れて固まっている。だが、瑞希の話は続いた。

「実は、私には年明けに結婚する予定があります。勤務する学校の理事長の娘です。しかし兄の婚約者が殺人犯の娘ということが知られれば、おそらく破談になると思うんです。」

 だから何だというのか。

「初対面で、失礼なことは重々承知しています。ですが、あなたにしか頼めないのです。どうか、藤木さんに結婚を諦めるよう、説得していただけませんか。」

「え・・・。」

瑞希の細い眉が目に入った。まっすぐにこちらを見て、手を突いている。

 何をどう答えればいいのか。

 明羅と可八が婚約したなどという衝撃的な告白のあとに、今度はそれを壊せと言われて、何と答えればいいというのだろう。

 間を繋ぐように、グラスに手をかけた。氷が溶けてグラスの周りが水滴だらけになっている。アールグレイの香りなど、もはや感じられない。味も、しない。

「兄の手帳を勝手に見て、あなたの勤務先を知りました。以前からあなたのことは聞いてましたし、記事も読んでいます。橋田さんしかいないと思いました。あなたが、藤木さんに最も近いからです。お願いする筋合いなどないでしょう。でも、ほんの少しでも可能性があるのならそれにすがるしかなくて。」

必死なのだろう。言ってることが要領を得ていない。しかし、それだけに気持ちが段々と理解できてくる。

 もし自分に姉妹がいて、殺人犯の子と結婚するなどと言ったら、愛姫だって反対するだろう。もっと考えろと、諭すだろう。

「この一週間、兄とは喧嘩しっぱなしです。どんなに言ってもだめなんです。藤木さんに夢中で、僕の言うことなど聞く耳ももたない。」

 そんなに。

 そんなにまで好きなのか。

 自分にはなく、可八にだけあった明羅の誘い。それは伊達ではなかったということか。

 愛姫は、瞳を伏せた。

「望月さん。あなたのお気持ちはよくわかります。多分あなたの立場なら、私も同じことをしたでしょう。でも、私は可八に何か言える立場ではありません。昔ならいざ知らず、今は、私たちは自立した他人同士です。」

「他人とはいえないでしょう。血は繋がっていなくとも、肉親以上に家族です。藤木さんと橋田さんが二十年もの間、どうやって生きてきたか聞いています。実は、僕の両親は考古学者でしたが、海外の赴任先で流行病で早くに死にました。僕たちも、兄弟二人きりの生活が長いんです。だからお二人の境遇がわかります。僕たちも、ずっとお互いを支えて生きてきました。兄のいない人生はありえなかったし、もう、自分の一部のような感じさえするほどです。その兄が、僕の言うことにまったく耳を貸さないのは初めてです。恋人が家族に勝るのはわかっています。ただ、その相手が問題なんです。」

 瑞希のグラスから、溶けた氷の上水が溢れそうになっている。

「私に・・・殺人犯の娘だから身を引けとは言えません。」

「直接的でなくてもいいんです。あきらめてさえ下されば。」

「私には反対する資格がないと思います。」

 愛姫が明羅を思っていることは、反対する理由にはならない。明羅のような性格の男は、例え無理矢理可八と別れても、他の女を好きにはならない。そんな気がする。

 やはり明羅には、愛姫の手は届かない。

「本人の責任でないことを、責めるわけにはいきません。」

「藤木さん自身に非が無いことは重々承知しています。問題は、その血です。」

「・・・血?」

「そうです。殺人を犯した人の血が流れているんですよ、彼女の中には。」

「でも、その血がまた殺人を犯すわけではありません。」

「例えば、あなたはどんなに人を憎んだり、恨んだりしたとしても、殺そうという気にはならないでしょう?大半の人はそうなんです。例え思っても、実行に至らず終わるんです。人を殺すということを本能的に押さえ込む性を持っているんです。逆にそれを持てない人もいる。それは、育ちが問題ではなく、生まれ持った素質によるものだと思います。」

「可八に、結婚は一生あきらめろと、言えというのですか。」

「いいえ。藤木さんの出生を問題にしない家もあるでしょう。でも、望月家は違います。そして、僕の婚約者の家も。」

「もし可八が身を引くと言っても望月・・明羅さんが承知しなかったら?」

「藤木さんさえその気になって下さったら、あとは僕が自分で何とかします。」

 愛姫は下唇を噛んだ。

「明羅さんが、不幸になりませんか。」

「兄ほどの男なら、相手はいくらでもいます。好き好んで、殺人犯の娘と一緒になることはないんです。結婚したら、どんなに隠しても絶対に人の口に上ります。兄が気にしないといったって、やはり良くない目で見られるんです。藤木さんだって辛い思いをするでしょう。それがわかっているから、反対するんです。愛し合ってさえいれば結婚できるなんて、子供か無頓着な人の考えです。家と家の繋がりを約束する以上、家族すべてを巻き込むことを考えれば、自分の意思だけで結婚を決められるものではないと思います。」

 瑞希の言い分はわかる。愛姫だって同じ考えだからだ。しかし、弱者側に立つと、一概にそうとは言えない。可八が悪いならいざ知らず、可八に非がないからだ。

「もし、私がお断りしたらどうしますか。」

瑞希の眉が軽く中央に寄り、が、またしっかりと前を見据えた。

「最後の手段に出ます。」

「・・・それは・・・?」

「藤木さんに直接言います、僕が。」

愛姫はゆっくり冠りを振った。

「それは・・・やめてください。あなたに言われたら、可八は傷つきます。」

「じゃあ、橋田さんが実行してくださいますか。答えは二つに一つだけです。本当に、待てないんです。結納は三週間後です。相手の家は資産家で、それなりの家柄なため今までも探偵に身辺調査をさせていました。おそらく、今でも続いています。ばれるのは時間の問題だと思っています。待てないんです。一日も早く、解決したいんです。」

 例えばれずに結婚しても、ばれたが最後、離婚となってしまうと言う。

 何という酷な選択。

 明羅が好きだ。可八と別れてくれたらどんなに気持ちが楽になるだろう。しかし、それが明羅の意思でなければ何の意味も無い。ましてや自分が間に立って破談にしたとなれば、後悔と自責の念に押しつぶされるだろう。

 下心のあるまま可八に別れを迫れない。瑞希の申し出だからという盾を傘に、自分のために別れさせるようなことになるからだ。自分勝手な都合で瑞希の願いを撥ねるのもおかしなことだが、やはり、色々苦労してきた可哀想な可八に、せっかくの幸せを諦めろとは言えそうにない。

 黙りこんだ愛姫に、さすがの瑞希も攻めあぐねたようだった。強い口調を和らげ、穏やかに言った。

「すみません。初対面で無理を申し上げた上、攻めるような真似までしてしまって。」

「いえ・・・。」

「ですが、本当に、引き下がれません。両親をなくしてから、伯母がいたとはいえ色々と虐げられてきました。それがやっとつかんだ幸せなんです。どうしても、壊したくない。」

「明羅さんも・・・瑞希さんと同じ思いかもしれませんよ。」

「今は、周りが見えてないだけなんです。冷静になれば、僕の言うことが正しかったと気づくはずです。」

 なぜか、母の死に顔を思い出した。

 殺人犯の娘と暮らすことをどうしても受け入れられなかった母。努力しても駄目なことで、更に自分を追い詰めてしまった母。

 だが、それは可八のせいではない。そう思うまでに十年以上はかかった。瑞希だって同じなのかもしれない。

 いや。

 無理やり納得しただけなのかもしれない。

 どうせ可八は他人だ。いつかは別れる。どちらかが結婚すれば、それで終わる。 

 友達でも、家族でもない。一生つきあっていく理由がない。だから、受け入れることにしただけなのかもしれない。

「私は、・・・可八から明羅さんとの話を聞いたこともないので、とにかく一度話をしたいと思います。その上で、考えさせてくださいませんか。」

「わかりました。ただ、あまり待てません。」

「ええ。」

 瑞希と視線が重なっても、いつものように逸らせたりはしなかった。瑞希の顔は、非の打ち所がなかった。明羅をこんなに観察したことはなかったが、きっと同じだろう。瑞希の自信は、この容姿に裏打ちされているような気さえする。

 別れ際、瑞希は付け足すように言った。

「あなたなら、良かったのに。」

「え?」

「兄が選んだのが橋田さんだったら、僕は反対などしませんでした。」

 夜のオフィス街に一人取り残された愛姫は、そのまま地下鉄の入り口に立ちすくんだ。

 本当に、明羅が自分を選んでくれたら。

 なんて甘い幻想。

 なんて滑稽な夢。

 蛍光灯の白い窓がいくつも層になる、この大好きな景色の中に溶け込んでしまいたい。

 明羅は自分を選ばない。この先も、決して。

 きっと今日も、瑞希と争うのだろう。

 そして、自分も可八と争わなければならない。

 やがて、晩夏の嵐が吹き荒れる。


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