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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
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第5話

 ここ何日か、雨の日ばかりが続いている。また、その頃愛姫には民事の裁判が重なり、午前様に近い帰宅が続いた。それでも待っている可八に、愛姫は強い口調で言った。

「お願いだから寝てて頂戴。待ってられると思うと安心して残業もできないのよ。帰ったらベッドに直行したいの。可八に気を遣う余裕もないくらい疲れてるんだから。」

 明羅と可八が夕食をともにした一件以来、可八に冷たい。わかっているが、冷静に心を立て直す余裕は、今まったくない。思ったことをそのまま口に出す以上のエネルギーは備えていない。

 黙って自室に引き下がる可八を見ても、同情や優しさは生まれない。そんな鬼のような自分が本能的に悲しい。本心から可八が憎いとか、嫌いだというのではない。ただ、積もった感情を遠慮なくぶつけてしまう。

 ドラマで見た、疲れて帰宅した夫に、妻が日常の愚痴をこぼしても取り合ってもらえないシーンを思い出す。そうだ。外で気を張ってきたのに、家で妻のご機嫌取りまでしたくはない。優しくできるのは、心のゆとりがあってこそだ。今の愛姫に、それはまったくない。

 やがて、愛姫には可八の生活がまったくつかめなくなった。朝食と夕食のコミュニケーションが完全に途絶えたからだ。週末、顔を合わせてもほとんど会話することもなくなった。互いに自室にこもり、共有する時間がなくなった。

 夜遅く、朝早い多忙な生活。愛姫の心はさらに刺々しくなっていく。話しかけに答えることさえ鬱陶しい。

 その日、朝六時に家を出ようとした愛姫に、可八は玄関まで見送りに出た。

「今日も、遅くなりそうですか。」

「わからないわ。」

可八の顔を見ることもなく、そう答える。

「今晩、望月さんがおじ様と家にいらっしゃるそうです。」

愛姫は靴を履き終わり、上体を起こした。

「取材?」

「はい。私とおじ様の関係をお知りになりたいと。」

明羅は、愛姫が父を嫌っていることを知っているから一緒の取材などしないのか。だとしても、またの可八との扱いの違いに、切ない憤慨を感じた。明羅が愛姫と可八の間に違いを持てば持つほど、その違いが可八を優遇している気がするから、辛くなる。

「それで?私にどうしろと。」

「いえ、・・一応お知らせしておこうと思いまして。」

自分にも同席しろということではないのだ。明羅も、それを望んでいるわけではないのだ。

愛姫は僅かに震えた唇を開いた。

「安心して。二人がいる間には帰ってこないから。二人がここに泊まらない限り、会ったりはしないわよ。」

言うや否や、愛姫は扉を閉めた。

 冷たい感情。

 冷酷で、残忍な感情。

 一人の男のことで、こんなにも心が揺れる。

 明羅の真意など知る由もないのに。

 可八の思いなど知る由もないのに。

 一人で勝手によがり、のた打ち回っている。

 こんなに好きになるつもりはなかった。

 こんな気持ちにまでなるとは思わなかった。

 ブレーキをかけていたつもりだった。自分に、美しい爪の価値が存在しないと知ったときから。

 なのに。


 明羅の取材による記事の第一回が掲載された週刊誌は、愛姫と可八の元に別々で郵送されてきた。

 話の始まりは、二十年前の事件の概要とその直後のマスコミの様子のことだった。当時の可八の記憶はほとんどない。愛姫の記憶と、おそらく父の語ったことから構成されている。客観的に、しかし、暗にマスコミを非難して。それは愛姫の感情だ。

 季節は夏の盛り。

 仕事はひと段落したが、愛姫はまだ、可八に優しく振舞うことはできずにいた。

 少し曇りがちな昼下がり。弁護士会館からの帰り道、愛姫は日比谷公園に久しぶりに寄ってみた。台風でも来るのだろうか。風が異様に木々をざわめかせている。

 「やっと、お会いできましたね。」

 明羅の出現で、愛姫の頬は思わず緩んだ。今日は最高にラッキーな日だ。星占いも、干支占いも、何もかもが花盛りではなかったのだろうか。

 白いシャツからやや色づいたひきしまった腕がでている。あんなに搾り出すような切ない日々を、今はとても思い出せない。

「機会があれば公園を通るようにはしていたんです。」

「取材でしたら、お電話くださればよろしいのですよ。」

「ここのところ、相当お忙しいようだと藤木さんから聞いていたので。」

「ええ、まあ。でも、時折なら大丈夫です。」

「ここへお見えになったということは、今は少しお時間があるということですか。」

「そうですね。第一回の記事、読みましたよ。」

「いかがでしたか。」

「実は、掲載前の原稿、私は軽くしか目を通せなくて。でも、心配するようなことはありませんでしたわ。」

「それは良かった。これからもお願いします。」

「私の父とお会いになりましたね。父は、何か言っていましたか。」

「・・・橋田検事が家をお出になった経緯をいろいろと。」

「そうですか。でも、例え正当な理由があったとしても、私や可八の理不尽な生活は実際に起こってしまったわけですから。」

「でも当時、藤木さんは時々橋田検事にお会いしていたようですよ。」

「え・・・?」

 愛姫は驚いて一瞬、言葉を失った。父が、自分の知らないところで可八と会っていたとはどういうことなのだ。そんな話は、今だかつて、可八の口からもでたことがない。

 明羅は、愛姫の表情の強張りように慌てて言葉を繋いだ。

「橋田さんが学校へ行っている間、時々様子を見に来ていたと、おっしゃっていました。」

「それは、・・・事実ですか。」

「藤木さんも肯定してましたから。」

「そんな・・・・。」

では、父は可八のことは気にかけていたというのか。愛姫が一人で誰にも頼れず、母を失い、可八を病気にさせ、半狂乱になりかけたあの時、父は可八には手を差し伸べていたというのか。

「それは、いつくらいのことですか。母が死んだあとですか。可八が精神を患ってからですか。」

「藤木さんがご病気になった後の様です。」

「じゃあ、可八が自閉症になったことも知っていたということですか。」

「橋田さんが学校をお休みしたり、遅刻や早退を繰り返していると学校側から連絡が入り、それでわかったようです。」

「私が家にいるときには一度も来なかったんですよ。」

「橋田さんがいない時に、藤木さんが一人でいるのを心配してきていたようですから。」

 愛姫は首を横に振った。

「そんなの・・・嘘です。父の美談作りの一部です。一度や二度、偶々訪れたのをいいように利用しているだけですわ。」

「それは、違うと思います。現に、藤木さんは橋田検事を慕っていますね。」

「不思議には思っていました。でも・・・信じられません。」

「藤木さんの身の上を、この上なく不憫に思っていらっしゃるようでした。」

愛姫は再び否定した。

「父は偽善者です。ただ、自分の行いを取り繕う術を人並み以上に備えているだけなんです。現実を見ろとおっしゃらないで!前の記者が散々言いました。でも、違うんです。父が昔の記事にあるような人徳者なら、母は自殺なんかしなかったし、可八だって自閉症になるなんてことありえないんです。可八のことは、私にも非があります。でも、でも、あの時の私は、どうにもできなかった。」

「橋田検事も、その責任は感じてらっしゃるようでした。」

「それは上辺だけです。望月さん、父は他にも私たちに沢山の傷跡を残しました。それを・・・お忘れにならないで下さい。私の独りよがりではないと思います。可八の二十年が私の二十年と違うように、父の二十年も違います。望月さんは三者三様の話を聞いていらっしゃるから、その矛盾を感じているとは思います。」

「私はあくまで第三者として、冷静な判断で記事を書きます。そのときは、橋田さんが認められない事実もでてくるかもしれません。」

 今にも降り出しそうな灰色の濃い雲が地上に近づいてきた。高層ビルの間を、千切れ雲が走り出している。盛夏の緑が、一層ざわめきはじめ、愛姫は立ち上がった。

「わかりました。望月さんの記事を信じます。私はこの二十年を冷静に振り返るために取材をお受けしました。・・・見ます。認められないような事実でも。その上で私がどう感じようと、それは私の問題ですから、自分で整理をつけます。」

 明羅の顔が、少し悲痛に見えた。

 愛姫の築き上げてきた歴史を、かき乱すことになったと感じているのだろうか。

 突然ポツリと、冷たい液体の感触が人肌を刺激した。石が水に濡れた、独特の匂いが鼻をつく。

 二人は、思わずいっせいに空を見上げた。細かな雨が、放射状に降り注いでくる。周囲の人々が、あたふたと身支度を整えはじめた。

「お手間とらせました。また、ご連絡いたします。」

「わかりました。お願いします。」

 互いのオフィスに向かって、互いの踵を返した。

 足早にアスファルトを蹴りながら、愛姫は眉をひそめていた。

 もし、こんなとき。

 不意の雨に遭ったとき。可八が相手なら、明羅はお茶に誘うのだろうか。

 今、二人の話はひと段落ついてはいた。

 しかし。

 信号で立ち止まることを強要され、冷たい雨が愛姫の額から滑り落ち始めていた。目の中に雫が入り、僅かな刺激痛を覚える。

 明羅の告白は、確かに衝撃的だった。しかし、それに対し、もっと他の言いようがあったのではないだろうか。あんなに感情をむき出しにすることはなかったのではないか。

 後悔する。

 自分は、明羅に好かれるようなことを何一つできていない。優しさも、賢さも示せてはいない。

 信号が青に変わった。濡れたアスファルトに滑り出したパンプスから、雨の雫が飛び散る。唇が開き、息が切れるように体が走り出す。

 頭の中からかき消してしまいたい。

 明羅への思いを、一掃してしまいたい。そうしたら、こんな気持ちにはならずにすんだ。


 恋をしたいと思っていた。

 長いこと動かなかった心を、かき乱すほどの恋を。

 しかし、結果はいつも辛辣だ。

 雨に打たれて走り抜ける愛姫を、傘の波が冷ややかに見送っていた。


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