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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
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第4話

 蝉の鳴く声は、何故こうも暑さを助長させるのだろうか。公園がいくら好きでも、クーラーの効きすぎたオフィスから出る気にはなれない。

 だが、その日は法廷があったため、久々に木陰に座ることにした。日本庭園風の池を眺められる小道には木々の葉が心地よい影を落としてくれている。自動販売機で買ったばかりの炭酸飲料を飲み干し、愛姫は一息ついた。

 スラックスをはいた足なら、気兼ねなく組める。

 と、不意に見上げた先に、思いがけない姿を見つけ、愛姫はドキリとした。

 池の奥の淵は土手になり、その上は歩道である。木々が連なっているため全体を鮮明に見ることはできないが、そこには確かに明羅がいた。そして髪の長い、美しい女性と何やら言い争っているように見えた。二人はいったん立ち止まったが、やがて歩き出し、愛姫の視界から消えた。

 愛姫は思わず立ち上がり、二人の消えた方向へと足早に向かっていた。気になった。影からでも、その行方を見届けたいと思った。まず公園から出て、右へ曲がった。鉢合わせはさすがにまずいと思い、注意深く歩道の端を歩いた。

 だが、歩けど歩けど二人の姿を捉えることはできなかった。

 この街は行く先をいくつも持っている。道も四方に伸びているし、見つけることは不可能に近かったのかもしれない。第一、見かけたのが明羅であったという確証はない。

 しかし、愛姫は一つの決定的事実に気づいた。それは、明羅が先ほどの様な美しい女性に囲まれて仕事をしているのだということだ。人違いであったとしても、それは確かなことだろう。頭がいい上に美しいという恵まれた女性は数え切れないほどいる。女性は化粧である程度磨くことができるから、美人はいくらでもいる。美しく整えられた爪でワープロを打つ有能な同僚に囲まれ、明羅は、選り取り見取りなのだろう。そんな明羅が、自分とどうにかなる可能性など無に等しいのだ。なのに、必要以上に自意識過剰になっていた。明羅を意識した。ばかだった。ありえもしないと心の奥底で繰り返しながら、結局夢を見ていた。

 夢を見まいと、あんなにも頑なになっていたのだ。勝手に甘えて、期待を寄せて、裏切られたような気分にならないために、本能が自己防衛していたのだ。

 そして、今までもそうして生きてきた。

 四つ角を結ぶスクランブル交差点の真ん中で、立ち止まる度胸はない。ただ、人の流れに流されるままだ。

 だが、何も塗っていない、やすりで磨いただけの爪に誇りを持っている。不安なのは、その誇りを誰も認めてくれずに終わるのではないかということだ。ほとんどの男は、きれいに整えた色つきの爪に価値を見出すのだろう。その中で、自分は誰の目に留められることなく終わるのではないか。

 家では、やはり色つきの爪に興味を示さない女が待っている。自分の価値が自然と乗り移ってしまったのか。

「お風呂は沸いている?」

「はい。すぐお入りになりますか。」

「そうね。」

可八は、愛姫が風呂から出たらすぐ食事ができるよう、食器を並べる。愛姫は、可八のためにそんなことをしたことはない。少なくとも可八が家事を仕切れるようになってからは、ない。

 「可八は、望月さんに何を話しているの。」

愛姫の問いに、可八は箸を置いて答えた。

「だいたいは、愛姫さんとの生活のことです。」

「私との・・・?」

「あ、でも、愛姫さんが困るようなことは話していませんから。」

「別に、話されて困るようなことはないけど。」

 そうだろうか。自分から話すのは良くても、可八の口から話されたくないことはいくらでもあるのではないか。だが、可八にそういう気の遣われ方をされるのは、何だか癪に障る。

 愛姫のきつい口調に、可八は口を噤んでしまった。こういうことの繰り返しが可八を無意識に威圧していることになるのだろうか。

 明羅のいう「依存」というよりも、「自立を許さない」ような結果をうみだしているのではないだろうか。

 愛姫より六歳も若い可八は、うつむいた頬にも艶がある。たとえ可八が美人でなくても、垢抜けたメイクの仕方を知らなくとも、その若さだけで愛姫よりも十二分に魅力を備えているのではないだろうか。そして、明羅の目を引くに十分な理由になるのではないか。愛姫がそれに勝るには、年齢を重ねたなりの魅力を持つ努力をするしかない。若い頃のような無防備では通用しない。

 次の日。

 夜九時に帰宅した愛姫は、いくらチャイムを押しても可八がでてこないことに驚いた。何かあったのではないかと怖くなる。

 久々に鍵を使って中に入ると、廊下は真っ暗だった。こんなことは今までなかった。会社の同僚と食事をすることもなく、いつも愛姫より先に帰宅していた可八。

 リビングに入り、留守電のランプが点滅していたため、すぐ再生した。

『可八です。望月さんと取材がてら夕食をご馳走になることになりました。愛姫さんの夕食は冷蔵庫にあります。』

 愛姫は、呆然とその場に立ち尽くした。

 可八が明羅と食事をする。

 取材がつこうとつくまいと、その事実だけが問題だ。愛姫は今まで、どんなに取材が食事の時間帯にかかろうと、明羅と食事をするようなことはなかった。なのに、可八は違う。

 胸の奥から出そうになる奇声をこらえようと、口元を手で押さえこんだ。

 ストレートな嫉妬。

 それ以外の何ものでもない。

 得体のない何かを無性に壊したい。だが、それは形のないもので、どうにもならない。

 いつの間に、こんなに明羅に思いをかけていたのだろう。胸の奥を直に刃で刺されたように、心が打ち砕かれている。

 この先、可八に心から優しい言葉をかけることができるだろうか。この世で頼れるのは互いに二人きりだと悟ったあの日から、やっと迎えた穏やかな日々。しかし、いつも立場は対等ではなかった。愛姫は可八を守り、擁護する姉以上に「主人」であった。

(私は、可八に真の自由を与えたことなどなかったのかもしれない。)

 明羅が可八とどうにかなったら。

 見下げていた相手に負けることを正気で耐えられそうにはない。

(でも、・・・まだ、何もはっきりしたわけじゃない。)

平静を保とうとしたそんな言い訳がむなしい。

 明羅が自分のものにならないと予感したのは、可八とのことに繋がっていたのか。

 冷蔵庫など開ける気にはなれなかった。

 夕食を皿ごと投げ捨てたい気分になる。

 当分、可八とは顔を合わせたくなかった。何をしてしまうかわからないからだ。

 愛姫は、ほんの少し華やいだ日常が再びもとに戻ってしまうことを、打ちひしがれた思いで覚悟していた。


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