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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
33/34

第33話

 瑞希から明羅に会ったという報告を受けた愛姫は、それからほどなくして、可八に電話をかけた。瑞希は瑞希なりに、明羅と向かい合ったのだ。それを聞いたとき愛姫は、自分だけが安全な場所で安穏としていてはいけないのだと、自らに鞭打った。

「明羅さんに知られたくないのなら、留守をねらって行くわ。都合のいい時間を教えて。」

 しかし、可八はそれを拒絶した。

『どうしてです?どうして会わなきゃならないんですか。』

「会いたいの。会って、話をしたいのよ。今までのことも含めて。」

『私は愛姫さんに感謝してはいます。でも、それ以上の関わりを金輪際持つつもりはないんです。』

可八の声は冷たく、愛姫の心を凍らせた。

『私はずっと愛姫さんのお荷物でした。その荷物を請け負ってくれる人が現れたんです。それで、よかったはずではありませんか。今更、何をおっしゃりたいんです?子どもを堕ろしたことが、そんなに憐れですか。同情したいですか?』

「違う!・・・そんなんじゃないわ。じゃあ、言い方を変える。会ってください、私と。」

『愛姫さんが私に・・・頼みごとをなさるんですか。』

「そうよ。」

 可八は暫らく黙り込んでいたが、やがて承知した。明羅のいない間に来て、少し話したらすぐに帰る、という約束をして。

 3日後。

 可八に丁寧に教えられた道順で、愛姫はすぐに家を見つけることが出来た。

 「どうぞ。」

 無愛想に愛姫を中に招き、可八はお茶を出した。

 和室で卓袱台をはさみ、二人は正座で向き合った。

 可八は居心地悪そうに、用も無いのに何かを取りにいくそぶりを見せたり、机の縁をなぞったりしていた。

「身体は、・・どう?」

愛姫のいたわりにも、可八はそっけなかった。

「別に・・。普通です。」

「瑞希さんが、来たそうね。それで私も可八に話をしなければと思ったの。」

「お二人とも、私があんなに頼んだのに・・!私の頼みなんか、きく価値なしということですか。」

「いいえ。私も瑞希さんも、あなたの気持ちは痛いほどよくわかった。だから瑞希さんは、明羅さんに会うことを躊躇していたようよ。それでも、やっぱり会わずにはいられなかったのはなぜだと思う?瑞希さんは明羅さんが本当に大事で、私も可八が・・・大事だからよ。」

 可八は小さく嘲笑した。

「素敵な理由ですね。」

「いいえ。この決断は、私も瑞希さんもある経験をして、罪を背負ったからなのよ。そうでなければ、多分、こんなことしなかったわ。」

「・・・罪を背負った?」

可八の瞳の色が、少し変わった。

「ええ。」

 愛姫は、決して口にするつもりはなかった秘密を、今、打ち明けようと思っていた。瑞希が明羅を諭すために告白したように、愛姫もまた、告げることを決意していた。

「可八が子どもを堕ろしたって聞いたとき、私も瑞希さんも、すごく憤ったでしょう?それは、私が瑞希さんの子どもを・・・流産しているからなの。」

「・・・!」

愛姫は背筋を改めて伸ばし、唇を引き締めた。

「私が入院したとき、瑞希さんが付き添っていたのは、それが理由だからよ。」

「・・・あのとき、お二人はもう、付き合ってらしたんですか?」

「いいえ。ただのなりゆきよ。だから私は初めから堕ろそうと思っていたし、身体を痛めつけることを厭わなかった。なのに・・・駄目だった。いざ病院へ行くことができないのよ。ためらって、ためらって・・・結局、身体がもたなかった。」

「瑞希さんは?瑞希さんは、そのことを知って、どうしたんです?」

「知らなかったのよ。知らせるつもりなんてなかったし。でも、可八と明羅さんの電話の内容から、私が妊娠してることに勘付いたらしくて、私を訪ねてきた。そのとき、私・・・街中で倒れてしまったの。救急車で運ばれたときには、母体が危険だから流産させてもいいかって、医者が言ったそうよ。瑞希さんは、それで頷いたの。」

すべて吐露してしまった開放からか、愛姫の口は饒舌になっていた。

「瑞希さんは、一人の命を絶った責任は自分にあるのだと言うの。でも、身体を労わらなかったのは私なのだから、私が・・いけなかったと思っているの。結局私たちは、互いに殺人を犯したために、その償いをしていかねばならないと決めたのよ。」

「殺人・・・?それは、違いますよ。」

「いいえ、違わないわ。『人』として認識されるかどうかで殺人になるかどうかを判断するのは法や医療の便宜上の話よ。問題は『人』かどうかではなく、命が芽生えたかどうかなはず。だから、堕胎罪があるのよ。それがわかっていながら、私は妊娠の事実に怯えて、自分の身をどう守るか、世間からどう隠すかしか考えていなかった。だから、罰が当たったの・・!」

 愛姫は、いつしか下を向いていた。

 両肩に首を埋めるようにして、愛姫は拳を握り締めていた。

「瑞希さんも、私も、可八を殺人犯の娘だといってけなしていた。でも、今の私たちにそんな資格はない。だって、殺人犯そのものなんだもの。」

 だが、可八は首を振った。

「それは、やっぱり違いますよ。愛姫さんや瑞希さんがそういう考えを持つのは立派だと思いますけど、実際に裁かれる罪ではないんですから、誰にも後ろ指さされることはありえない。自分たちの心の中で罪だと思って、償っていって、そんなの、ただの自己満足ですよ。」

 愛姫は一瞬、言葉を失った。その隙をつくように、可八は言い放った。

「だから、私の立場より下になったとか、軽々しく口にしないでください。そんなことが私の慰めになるとでも思ったんですか?それこそ、思い上がりだわ!」

 可八の叫びは、鋭いガラスのようだった。だが、愛姫は続けた。

「それはそうかもしれない。でも、私が可八に言いたかったのは、こんなことじゃない。

私も瑞希さんも願ったのは、私たちの味わったあの苦い思いを、二人に繰り返して欲しくないということなのよ。私は忘れない。私の子どもがいると確信したときの、あの高揚を。身体と精神の変化を。そして、それが無くなったときのせつなさ。自分の一部を無理やり千切られたような、あの感覚を・・!可八だって、そうだったでしょう?だから、私は明羅さんが許せなかった。明羅さんと一緒なら可八が幸せになるはずだって確信していたの。だからずっと、私より幸せな可八を素直に祝福できなかった。でも、今はわからない。明羅さんに可八を託したことが、間違いだったんじゃないかって・・心配になって。」

「・・・余計な心配ですよ。」

 一緒に暮らしていた20年の間には、決して聞くことのなかった冷たいセリフが、次から次へと愛姫を襲う。一緒にいたときは、いつも愛姫の陰で怯えていて、控えめだった可八。その裏で、愛姫をどう思っていたのか。今、ようやく思い知らされた気がした。

「本当は、何もしないで傍観していようと思った。でも、瑞希さんが明羅さんと話をしたって聞いたとき、私の中にも同じように可八を思う気持ちがあることに気付いたの。確かに私たちは他人よ。他人だからと、見て見ぬふりをしていたほうがずっと楽よ。でも、楽でないことをわかっていてでも動かずにいられないこともある。それが、私の中にある、可八への思いなのよ。」

「いまさら、そんなこと!間違っても愛姫さんを家族だなんて思っちゃいけないと自分にいいきかせて生きてきたんですよ?どんなに愛姫さんが優しくても、頼っちゃいけない、甘えちゃいけないって!それでよかったんですよ。だって犯罪者の娘という私が、愛姫さんの家庭を壊したんです。憎まれて当然だし、それが私が継いだむくいなんですから。愛姫さんは、もう私と関わる必要はないんです。いいえ、関わっちゃいけないんです。」

「可八・・・。」

「幸い、この島では、私の正体はばれていません。平和に暮らせているんです。私は、例え愛姫さんのお父様が亡くなっても、お葬式には行きません。」

可八は愛姫の父をずっと「おじ様」と呼んでいた。しかし今は、それさえ、ない。

「その覚悟で、内地を後にしたつもりです。おじ様は、その名を知られた方。少なからず話題になって、20年以上前の私の件も持ち上がるはずです。そのとき、私の苗字が変わっていることが知れたら、今度は明羅さんや瑞希さんが日本中の人から後ろ指さされるんですよ。だから、私は息を潜めて生きていくんです。そうしていくしかないんです。」

 可八の決意は、愛姫や瑞希の「罪」や「償い」とは明らかに違う。これが、自分自身に科すのではなく、社会から裁かれる「罪」の重さなのだろう。

「明羅さんと瑞希さんが兄弟である以上、私は愛姫さんを完全に断絶することはできないでしょう。でも、それは最低限におさめます。私たちは他人です。絶対に、家族とか身内にはなりえないし、なるべき情も捨てなければならない。それが、私の務めですから。でも、」

可八は付け加えるように言った。

「本当に、感謝はしてます。愛姫さんや愛姫さんのお父様の幸せを心から願っています。だからこそ、お別れするんです。」

「・・・それが、答えなのね。」

「はい。」

「私があなたを必要だと言うことも、あなたは、拒絶するのね。」

「そうです。」

 愛姫は、可八をまっすぐに見つめた。

 そこにいるのは、死んだような目をした6歳の少女でもなく、結婚式で手作りのドレスを着て微笑んでいた女性でもなかった。父親の犯した罪を背負って生きていくために、どうすべきかを決意した、殺人者の血を継ぐ娘だった。愛姫との決別は、忌まわしい生い立ちからの脱皮を意味しているのかとも思ったが、決してそうではない。これからの可八は、自分を取り巻く人々が害を被らないように、自分の身分をひた隠し、社会の影で、ひっそりと生きていくのだ。

 愛姫は、他人から責められることがなく、社会から裁かれることもない罪を犯した。だから自分自身で罪を自覚し、償おうと決めた。それが瑞希との共通の思いだった。しかし実際のところ、己の罪を骨の髄に刻み付け、己に鞭打って生きる他、償う術がないことに悩んでいる。可八はそれを自己満足と言った。償ったって、失ったものは戻らない。命はもちろん、心の傷も、平穏な日々も、家庭も、財産でさえも完全に元に戻るなんてことはないだろう。加害者が自分の財産も人生も大事な物も命さえも投げ打ったって、取り戻せるものは殆どない。何年刑務所に入ろうと、死刑になろうと、それが被害者側にとって何になるというのか。慰めにくらいにはなるのか。しかしそれを、「償い」と呼べるのだろうか。

 愛姫は、可八の件では被害者に当たる。母を自殺に追いやったのは可八で、幸せな家庭を奪ったのも可八だと思っている。だから、可八が幸せになることが許せなかったし、一生、すべてに遠慮して生きていくべきだと思っていた。それが「償い」というより、当然だと思っていたのだ。

 だが、実際に苦しい散々な人生を歩んできた可八を見てきた愛姫は、もう、可八を責める気持ちが薄れていることに気付いた。可八が死ねばいいと思ったこともあるし、小さい頃は、本気で街中に置き去りにしかけたこともある。だが、二人きりで生活していく中で、可八は愛姫にとって欠かせない存在になっていた。「もし、母が生きていたら」と、何度も思った。だが、可八がいなくても、父の浮気が母を殺していたかもしれないし、事故で死んでいたかもしれない。やがて、可八の存在と母の寿命は関係がないのではないかと思えるようになった。今は死んだ母より、生きている可八の命を大事に考えねばと思う。

 長い時間をかけて、愛姫の心は少しずつ、少しずつ溶けていった。可八の苦労、行動、世間からの仕打ちなどを目の当たりにしながら、徐々に可八を怨む気持ちが薄れていった。

 それだ。

 年月をかけて被害者に、怒りや怨み、憎しみを少しでもやわらげてもらうこと。

 それが「償い」の持つ意義なのではないか。

 奪ったものを返すことができず、過去を変えられない以上、「償い」は未来の何かを変えることしかできない。その「何か」を、「被害者の心」に求めるしかないことがある。犯罪によって被害に遭ったすべての人・・・被害者やその周囲の人々だけでなく、加害者に関わりのある人々も含めたすべてを「被害者」として考えねばならない。そのすべての人々が「償い」という行為によって心が変わるかどうかはわからない。変わるための時間も様々であろうし、やはり一生変わらない人もいるだろう。それでも、少しでも心が和らぐことを信じて、加害者は償っていくしかないのだ。一生報われないかもしれないと知りながら、ただひたすらに自分のできることを考え、差別に耐え、すべての幸せと決別し、独りで生きながらえていく。償いの相手の心がわからない以上は、やはり自己満足に終わるのかもしれない。だが、加害者にできることが「己の人生すべてを捨てること」しかないのだとしたら、それをひたすら自分に科すしかないのだろう。

 可八は親を失った点では被害者だが、加害者の身内ということで他人に害を与え、加害者になった。その被害者になった愛姫は、可八の償いで心が変わった。完全に、とはいえない。許すことも出来はしない。だが、これ以上可八が苦しむことを、もう、望まない。

 「可八は十分に償っているわ。」

 不意に、そんな言葉が愛姫の口をついて出た。

 可八は、驚いたように愛姫を見た。

「十分よ。もう、十分に可八は苦しんだ。私は、そう思ってる。」

「愛姫さん・・。」

「本当よ。可八は少なくとも私に対しては、十分すぎるほど償ったわ。だからもう、いいのよ。」

 世間は可八が被害者だということなど考えず、加害者の娘としてだけ扱う。そしてそれは、一生、拭い去ることができない。だが、少なくとも愛姫は、これからは可八を被害者として扱おうと思う。

 今回、明羅の行為が可八を被害者にした。そのことも、含めて。

 愛姫は言った。

「あなたは明羅さんが可八に求めた仕打ちを、怨んでいないの?」

 可八は少し口をつぐみ、そして、答えた。

「殺人犯の血は、私で絶たなければ。」

「それも、償いだというの?」

「・・・はい。」

「明羅さんの思惑は、別のところにあっても?」

「ええ。」

 可八が堕胎の事実を口にしたとき、明らかに可八の痛みを感じ取ることができた。可八が何と言おうと、あれは事実だ。だからこそ愛姫も、瑞希も、明羅に対して憤りを感じずにはいられなかったのだ。だが、可八はそれを口にしない。どんな苦しみも、悲しみも、自分が負うべき罪の償いだというのだろう。それが、可八が選んだ生き方なのだ。それが、可八の言う「結婚してこその償い」という意味だったのだ。

 別れ際、愛姫は可八に訊いた。

「私の結婚式には、でてくれる?」

 可八は微笑んだ。

「相手が、瑞希さんなら。だって、そしたら愛姫さんは私の義妹ですもの。でも、」

「わかってる。・・・その日だけで、いいの。」

 愛姫はこのとき初めて、可八と別れることを寂しいと感じた。

 可八の結婚式の日、さめざめと泣いたのは、己の孤独と罪に泣いただけだ。でも、今は違う。愛姫の目尻にうっすらと滲んだ雫が、同じように可八の目にも宿っていた。

 さよならは言わない。

 一度背を向けたら、もう、振り返らない。

 二人はようやく、それぞれの道を歩き出したのだ。

 

 1週間後。

 瑞希の下に、明羅から電話が入った。

『昨日、橋田さんから手紙をもらった。』

「手紙?」

『ああ。参ったよ。瑞希が俺に言ったことと、まったく同じことが書かれていたんだから。』

「・・・そうか。」

『瑞希は、橋田さんと人生を共有していけるよ。価値観を共有し、同じ方向を向いて生きているのだから。』

「でも、それは結婚できるかどうかとは違う。現に、俺は橋田さんの父親から交際を反対されている。」

『でも、あきらめはしないだろう?』

「もちろんだ。・・橋田さんが、別の男と結婚しない限り。」

『それくらいの覚悟がない限り、結婚などと軽々しく口にすべきではない。よかったよ。瑞希が、本当に一緒になるべき人と出会えて。』

「・・・兄貴は、違うのか?」

瑞希は、受話器を握りなおした。

「兄貴にとって、本当に一緒になるべき人は、可八さんだったといえるのか?」

『・・いえるよ。』

「でも、計算ずくの結果だろう?」

『そこまでではないよ。いくらなんでも、全く情の湧かない女と一緒にはいられない。』

「だけど・・。」

『俺にも色々考えがあるから、これ以上は何も言わないでおく。ただ、これだけは本当だ。俺は、可八の罪を共に背負う覚悟を持って、一緒になった。そして、俺はいつだって瑞希を思っている。お前の幸せを、誰よりも願っている。』

 瑞希は、切なく眉根を寄せた。

 兄が何をしようと、やはり気持ちは変わらない。

「わかっているよ。・・わかってる。それは、俺だって同じなんだから。」


 瑞希はその日、明羅の置いていった食器をすべて紙にくるみ、食器棚の奥にしまった。その場所は、死んだ両親の食器がある場所だった。

 いつか兄がこの家に戻るかもしれない、もしくは、この家で4人で暮らす日がくるかも

しれないなどという期待をすべて捨てた。

 兄の人生は、瑞希の知らない世界で動いている。犯罪者の娘と、その夫としての人生を歩みだしている。それを共有できる日を、もう、夢には見ない。この世でたった二人の兄弟。しかし二人の世界の終わりは、もう、とうに訪れていたのだ。

(俺は、俺の道をこの足で生きていく。もう、兄を頼ってはいけない。頼ってはならない。兄が守るべきは可八さんであって、俺ではない。俺は、俺の守るべきものを守っていく。)


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