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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
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第32話

 愛姫は家に戻り、明羅へ抗議の電話をかけようと思ったが、躊躇して、結局やめてしまった。可八が「明羅に知られたら嫌われてしまう」と言っていたのも気になったが、最大の理由は、明羅と大喧嘩をするだけのエネルギーがないということだった。

 相手のためを思って、また、何かの意思を貫くために戦うには、相当のエネルギーが必要だ。その原動力となるのは情熱や愛情といったものだが、愛姫は可八に対して、その原動力となりうる愛情をもっていなかった。特に人との関わりを不得手としてきた愛姫に、仕事以外のことで他人と争った経験などなかった。それだけに、いざとなると尻込みしたのである。

 外気を吸い込んだように冷たい窓ガラスに額を押し付けた。

 沈んだ心で窓から眺める景色は、いつも明けることを知らないような、深い宇宙の色をしている。

 真面目に生きていれば、どんなに苦しくてもいつかいいことがある。

 母の口癖だった。

 それが真実かどうか、未だによくわからない。ただ、真面目に生きていない人間にも幸運も快楽も訪れるのだということは知った。それ以上の不幸も訪れているのかもしれないが、それは傍からはわからない。

 母は真面目に生きていた。なのに、結局精神を病み、自殺してしまった。

 父は真面目ではない。しかし、仕事で成功し、愛人まで囲い、贅沢な暮らしをしている。

(どう生きても、所詮、結果は同じなのではないのだろうか。)

 瑞希との恋に浮かれていた日々の後の、この仕打ち。

 気分が浮かれれば、次に待っているのは深い落胆だ。

 いつも、そうだ。

 そう思うと自然の摂理を実感する。景気の波も、人生も、自然にも、必ず浮き沈みがある。

 だが、どうしても、今は信じられない摂理がある。

 嵐の夜の後は、必ず青い朝になるということ。

 わからない。

 いつ出られるかわからない真っ暗なトンネルに足を踏み入れているようだ。

 これが愛姫に定められた業なのだといわれれば、そうなのかもしれない。

(私はこの先、どうすればいいのだろう。)

 可八のこと。瑞希のこと。明羅のこと。そして、父のこと。

 今まで考えなくてもよかったことが、時間に加速度のごとく比例してのしかかってきた。

 

 瑞希が明羅に会うために飛行機に乗ったのは、明後日のことだった。

 新学期を迎え、講師としての仕事が始まる前に、話を済ませたかった。

 視界をさえぎる高い建物の代わりに、目に染みるほどの濃い緑が広がる地に、兄はいた。だが、その日の空は灰色に染められ、風は強く、瑞希の頬を突き刺した。

 住所だけを頼りに町を歩きまわり、1時間後に平屋建ての家を探し当てた。

 昼過ぎの静かな時間。町自体が休息しているかのようだ。

 瑞希を出迎えた可八は驚いて目を見開き、息を呑んだ。

「なぜ・・。」

「兄に、会いに来たんです。いますか?」

可八は唇を震わせ、首を振った。

「何を、お話なさるつもりなんです?」

声を抑えているのは、明羅の存在を気にしているからに違いない。

「俺たち兄弟の問題です。」

「・・・おっしゃらないで、下さいますよね?」

可八の目は涙で潤んでいる。懇願の表情に、瑞希は一瞬躊躇したが、結局言った。

「あなたを責めに来たわけではありません。ですから、兄に会わせてください。」

と、そのとき。

「−瑞希?」

玄関の奥の部屋から、明羅が現れた。

「どうしたんだ、突然。」

可八は観念したように首を垂れ、しかし、身体を固くしていた。

 瑞希は、可八に小さく言った。

「心配しないでください。」

 そして、明羅の方を向いた。

「ちょっと、話がしたくて。二人だけで。」

「・・・わかった。」

 明羅は可八に何やら囁き、やがて可八は家を出て行った。

「可八さんは、どこへ?」

「近所の公民館だよ。年始めの集まりがあるんだ。2時間は帰ってこない。」

 6畳ほどの茶の間。中央に置かれた卓袱台のまわりに配された真新しい座布団に、瑞希は座った。ほどなく、コーヒーの沸く良い香りが鼻をくすぐり始めた。畳の青い匂いと交じり合い、不思議な感じがする。

 白い小さめのカップに注がれたブラックコーヒーに口をつけ、瑞希は少し息をついた。これから切り出す話のことを思えば、落ち着くわけもない。

「話って、何だ。」

明羅の低い声に、瑞希は言った。

「・・うん・・。」

「可八が、お前に何か話したのか。」

「・・正確には、橋田さんに話していたのを俺が聞いてしまった。でも、絶対に兄貴には言わないでくれって、頼まれてた。・・さっきもだ。可八さんは怖れているんだよ、兄貴に嫌われることを。」

明羅は視線を落とし、カップの取っ手をつかむ指に力を入れた。

「そうか。」

「俺には、理解できないよ。この世の未練って、一体何なんだよ。可八さんは、兄貴にとって一体何なんだよ。」

「・・その話は、この間、済んだはずだ。」

「済んだ?兄貴が逃げただけだろうが!大体、なんでわざわざ内地で手術を受けさせた?病院なら、この島にだってあるだろう。」

「この小さな島では、すぐに噂になる。俺たちが醜聞にさらされないためだ。」

 次の瞬間。

 瑞希の拳は、明羅の頬をまっすぐに貫いた。

 明羅は少しよろめき、うつむいた。乱れた前髪で、明羅の表情は見えない。

 瑞希だって、ここまでするつもりはなかった。だが、思うより身体が先に動いていた。

「信じられないよ!妊娠初期で飛行機だの船に乗ることがどんなに身体に負担をかけるか、知らないわけじゃないだろう?それとも、途中で流産してしまったほうが都合がいいとでも思ったのかよ!?」

明羅は視線を落としたまま、言った。

「どうして、今、瑞希がそんなことを言う?あんなに結婚するなと言っていたのはお前だ。殺人犯の血が受け継がれることを嫌悪していたのは、お前だ。そうだろう?」

「俺は、兄貴が本当に好きな人と、本当に幸せになれるのならと思って、許したんだ。」

すると、明羅はクスリと笑った。

「瑞希は、俺よりずっと純粋なんだな。」

「・・えっ?」

「俺は、恋だの愛だのいうものを信じていない。そんなものは、幻想だ。学生の頃にはそれを悟った。だから、俺の心はどんな女にも動かない。どんなに愛し合って盛り上がって結婚したとしても、やがては冷める。そのとき、後の果てしなく長い人生を一緒に過ごすためには、感情以外の確かな理由が必要なんだ。その条件を満たしていたのが、可八なんだ。可八は橋田さんとは違って芯から強かだ。俺が内乱の激しい地へ赴いても、死んでも、生きていける。」

「可八さんは、兄貴を心から思っている。その心を、利用していることになるんだぞ?」

「面白いことを言うんだな?女を散々利用しつくしてきたお前が。」

「・・・俺が・・!そりゃあ、俺は兄貴みたいに品行方正じゃあなかったさ。だけど、今、俺がここまで来ずにはいられないほど許せなかったのは、子どもを堕ろさせたことだ!人の命を、何だと思っているんだよ?可八さんの気持ちを考えたか?身勝手な『未練』とやらのために、大事なものを犠牲にしているとは考えないのか!?」

 明羅の薄い唇が、固く引き締められた。

 だが、瑞希の口は堰を切ったように止まることはなかった。

「一人残された可八さんが、平気で大丈夫なんて、兄貴の思い上がりだ。兄貴を失って悲しい思いをさせるために、結婚したようなものじゃないか?可八さんは強かかもしれないけど、それは強かでなければ生きてこられなかったからだ。そうだろう?父親が母親を殺す現場を目撃して、橋田さんの母親が首をくくる現場に居合わせて、その記憶を未だ封印して生きている人だぞ!その人が、死について過敏にならないわけがない!兄貴がいなくなったあと、子どもがいれば救われるのかもしれないのに、それさえも奪ってしまうのか?自分がこの世に未練を残したくないがために!自分の心だろ、そんなものこそ、犠牲にしろよ!」

明羅の黒い瞳が、少し開いた。

「正直、お前ならわかってくれると思っていた。」

「わからないよ。1年前の俺なら・・理解していたのかもしれないけど。」

「瑞希を変えたのは、橋田さんなんだろうな。」

「・・・そうだよ。」

「それを聞いて、安心した。」

優しい目の明羅の表情が、切なく見える。

「俺の未練は瑞希だけだ。瑞希の幸せが確信できれば、それでいいんだ。」

「・・・俺だって同じだ。兄貴に幸せになってほしいし、危険な取材地になんか行ってほしくない。ずっとずっと、長生きして欲しいし、ずっと・・!」

喉が締め付けられる。だが、瑞希は言葉を呑み込むことはできなかった。

「兄貴は、俺の憧れだった。尊敬の的だった。ずっと、兄貴みたいになりたかった。その兄貴が俺を失望させるような真似をしたことが、許せない。人として、やっていいことと悪いことがある。兄貴は、罪を・・・犯したんだ。わかっているのか?」

「瑞希は、ないのか?」

「・・・流産させてしまったことは・・あるよ。」

「相手は、橋田さんなんだろう?」

「・・!」

息が止まるかと思った。いや、実際、数秒止まった。呼吸を忘れた。

 だが、沈黙は肯定の証だ。

「橋田さんの入院に、瑞希が一晩ついていて、しかも病院で婚約者などと語っていたというから、ただ事ではないと思っていた。酒もやめ、食べることを楽しまず、自分を痛めつけだしたのもその頃からだったし・・。その理由が、やっとわかった。そして、俺の行為を責める、瑞希の気持ちも。」

「・・・。」

「瑞希は、俺の何倍も誠実で純粋だ。俺は、法に触れなければ罪だとは思っていない。」

「それは違う!堕胎は法に抵触する!それを逃れる例外事項を無責任な人間が都合のいいように解釈して利用しているだけだ!兄貴は経済的に苦しいか!可八さんは子どもを埋めないほど病弱か!可八さんは誰かに強姦されて孕んだか!違うだろう!?俺は、可八さんを責められない。彼女は殺人犯の娘だ。でも俺は、殺人そのものを犯した。直接手を下してはいなくても、全ての引き金をひいたのが俺だからだ。橋田さんが罪を背負って生きていくと言っているし、俺もその半分を背負って生きていく。それが、俺の償いだからだ。可八さんは、自分の存在が兄貴のプラスになるのなら、兄貴の人生の下敷きになってもいいと言った。それによって生きてきた意味があるのなら、償いの一端にでもなるのなら、構わないのだと言った。それなのに、兄貴は、何もしないでいられるのか?消えていった命を、まるで不要なものを捨てたときと同じような感覚で、生きていかれるのか?」

二人の視線が複雑に絡み合った。

「同じ過ちは二度と犯さない。それだけだ。」

「どうして!?男と女は違うんだ!兄貴には何もなくても、女の身体には傷が残るんだ!心にもだ!」

「結婚した以上、可八を大切にはする。それが俺の義務だからだ。」

「それで可八さんを幸せにしているとは言えないだろう?」

「わからないな。どうしてそんなに可八に肩入れする?少し前までは可八に肩入れする俺と衝突していたのに、今度は間逆だ。橋田さんとのことが、そこまでお前の価値観を変えてしまったのか?」

「・・・そうかもしれない。でも、やっぱり子どもを堕ろさせたことが、可八さんに肩入れせざるを得ない理由なのかもしれない。兄貴がどう思おうと、俺は、自らが犯罪者である以上に、犯罪者の弟になったんだ。だから、その分の償いもしていく。」

「やめてくれ!俺のことで、お前を苦しめるつもりはなかった!」

「それぐらいのことを兄貴はしたんだよ!それを認識してくれよ!兄貴の人生は、兄貴だけのものじゃないんだ。俺のものでもあるし、可八さんのものなんだよ!それが血の繋がりであり、家族であるということなんだろうが!」

瑞希は興奮で震えだした唇を必死に噛み締めた。しかし、奥歯が音を立てるほどに止まらない。

 だが、言うしかない。

「橋田さんは、可八さんに、離婚すべきだと言っていた。俺もそう思った。でも、可八さんは拒否した。堕胎の事実を口にしたことを兄貴に知られることを怖れて、・・兄貴に嫌われることだけを、怖れていた。兄貴は、可八さんの人生を何だと思っているんだ?殺人犯の娘だから、どんな人生になろうとかまわないとでも思っているのか!」

「そうだ。・・・お前の言うとおりだ。」

 明羅は低い声でそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。

「わかったら、もう行け。5時半の飛行機がある。これを逃すと明日まで帰れないぞ。」

「・・泊まっていけ、とは言ってくれないんだな。」

「一晩一緒にいてどうなる?理解し合えない。俺の本性と、お前の本性は違う。俺から言わせれば瑞希はロマンチストにすぎない。お前は、初めての恋愛に溺れている。多分、橋田さんもそうだろう。そんな盲目の状態のお前達には、俺と可八のことなどわからない。」

「関係ないよ。事実はただ一つ。兄貴は、殺人者で、俺はその弟でやっぱり殺人者だ。法が裁かなくとも、それは、変わらない。可八さんを殺人犯の娘だと蔑む資格などない。」

「違う。俺は可八とは・・違う。」

「そうだ、違う。彼女は殺人者の娘だが、兄貴は殺人者そのものだ。」

 明羅は下唇を噛み、瑞希はそんな兄から視線をはずした。

「帰るよ。・・・俺は、兄貴が大事だ。だから、許せないんだ。」

別れの挨拶をせずに、瑞希は玄関を後にした。

 明羅の姿は、少し前の瑞希そのものだった。

 血は争えない。自分達の両親も、こんな風だったのだろうか。

 (そうだ。俺だって、橋田さんとのことがなければ、ずっと、あんな風だったのだから。)

 犯罪を許さない正義が、犯罪者の差別に繋がる。だが、正義を振り翳す以上、自らが清廉潔白である必要があるはずだ。しかし、大抵の人間は皆自分は正しいと思っている。己の罪を罪ではないと思ったり、罪に気付いていないこともある。

 

 一日終わるごとに、また、死ぬ日が一日近づいたことになる。

 それを教えてくれた教師のようになりたくて、その道に進んだ。

 自分の学んだことを伝承し、自分と同じ過ちを犯して欲しくなくて、教壇に立った。

 己の罪に気付かぬことこそ、真の罪であると、今は伝えたい。

 当たり前すぎることだからこそ、人は気付かない。

 それを、伝えたい。

 今は若すぎて理解できないかもしれない。だが、それでいい。ただ、彼らの心の片隅に住み着いて、いつの日にか、その言葉の意味を噛み締める日がくれば、それでいい。

 愛姫との仲を認めてもらうために、弁護士を志そうかとも考えはした。しかし、瑞希の目指すものは、そこにはない。大体、そんなことをして愛姫が喜ぶわけがないし、愛姫の父が快く思うとも思えない。


 夜を迎え始めた空港には、光の滑走路が現れる。

 それは、空への道しるべだ。

 飛行機が加速し、地から車輪が離れた瞬間、瑞希は覚醒したように目を見開いた。

 紺碧の空に一粒輝く星をめがけて飛び立った先に、何かが待っている気がする。

 その星は、先の見えない闇夜に光る一つの希望のように思えた。


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