第31話
年が明け、何日か経った頃。買い物から帰った瑞希は、玄関の外の人影に驚いた。
それは、白いコートを着た可八だった。
可八は瑞希を見ると、深く頭を下げた。
「明羅さんから頼まれたものを取りに来ました。」
「だいぶ、待ちましたか?寒かったでしょう。」
「いえ。大丈夫です。」
リビングのガスストーブを点け、お湯をわかす。可八は手土産に、東京駅構内で売られている有名店の洋菓子を用意していた。
紅茶を入れると、可八はだまって頭を下げ、すぐにカップに口をつけた。
「いつ、東京に着いたんです?」
「おととい・・・です。」
「じゃあ、昨日は橋田さんのところへ?」
「・・・ええ、まあ。」
この曖昧な返事は何だろう。即答でないところが、怪しい。
「兄から頼まれたものって何ですか。俺、部屋に行って取ってきますよ。」
「・・・あ、じゃあ、これを。」
可八は小さな紙切れのメモを瑞希に手渡した。
明羅の字だ。
喧嘩をしたまま、顔も見ずに帰ってしまった兄。あんなに、大好きだったのに。
明羅の部屋は、時折掃除機をかける程度で、あとは手付かずのままだ。カーテンの色でさえ、変わらない。
瑞希は頼まれた品を紙袋に入れ、リビングに戻った。
が、そこでは可八が蒼い顔でソファに頬をうずめていた。
「・・・可八さん!?」
可八は、瑞希を見ると体勢をゆっくりと立て直した。
「すみません。・・ちょっと。」
「具合、悪いんですか。」
「いえ、もう大丈夫です。」
「橋田さんに迎えに来てもらいましょうか?」
「いいえ。愛姫さんは、今、事務所の方たちと旅行に行ってるんです。」
「・・・でも、昨日は橋田さんと一緒だったんでしょう?」
可八の口が閉ざされた。瑞希は、可八が嘘をついていることを悟った。
「昨日、本当はどちらに?」
「・・・。」
可八の唇は白くなるくらい固く結ばれた。
一体、何を隠しているのだろう?
「・・・まさか、兄を裏切るようなことを・・・?」
「そんな!・・・違います。」
可八の苦しそうな表情は、具合の悪さだけではないだろう。
瑞希は、ふと愛姫を思い出した。妊娠して体調を崩していながら、大丈夫だと言い張っていた愛姫。なぜか、今の可八と重なる。
瑞希は可八を放っておけず、明羅の部屋から薄い掛け布団を運んできた。
「ソファに横になってください。少し休んで、それでも駄目なら、今日は兄の部屋に泊まればいい。」
「そんなご迷惑はかけられません。私、今晩の船に乗ります。」
「船って、体力いるんですよ。もう切符を買っていたとしても、やめたほうがいい。」
「でも・・・。」
「あなたは兄の妻で、俺の義姉にあたるんですから、遠慮は無用です。」
可八にとって瑞希は、あまり好ましい人間ではないだろう。いくら瑞希が謝っても、それまでの冷たい態度が帳消しになったとは思えない。
だが、可八は柔らかな布団に身体を埋め、やがて目を閉じた。
リビングの暖房に気を遣いながらも、可八の眠りを妨げないよう、瑞希は自室へ戻った。
何でこんなに可八にやさしくできるのか、わからない。可八は愛姫に深く関わりのある人だ。だから愛姫同様、大切にしなければと思うのかもしれない。
しかし、可八はどうしたのだろう。愛姫が旅行中と知りながら明羅が可八を東京へやったのだとすれば、どういうつもりなのか。いくら明羅でも、必要なものを取りにいかせるためだけに可八を送り込むだろうか?そんなこと、瑞希に直接宅配便を頼めばいいことだ。それとも、この間の言い合いが原因で、瑞希を避けているのか・・・?
様々な思惑が頭に浮かんでは消える。が、わからない。
日も暮れ、瑞希がリビングへ行ってみると、可八はまだ眠ったままだった。額が青白い。やはり、具合が悪いのだ。
瑞希は、明羅のところへ電話をかけた。リビングの電話だと可八を起こしてしまうかもしれないため、自室から携帯電話を使った。
「すごく具合が悪そうだから、兄貴の部屋に泊まらせようと思う。」
『わかった。・・・頼むよ。』
「大体、なんで彼女は東京に来たんだよ?橋田さんは旅行中でいないんだろ?まさか、兄貴のものを取りにわざわざ来たわけじゃないだろうが。」
『病院へ、行かせるためだ。』
「・・・病院?やっぱり、どっか悪いのか。」
『そういうわけではないが。』
「じゃあ、何だよ。」
『・・・瑞希は、知らなくていい。』
「なんだよ、それ。こうして関わった以上、教えてくれたっていいだろう?」
『とにかく、病気ではないから。心配しなくていい。可八を、頼む。』
明羅はそう言い、一方的に電話を切ってしまった。
(何だってんだよ、わけわかんねぇ。)
台所に立ち、なるべく音を立てないように食事の支度を始めた。
鳥と野菜のスープが煮立った頃、可八が目を覚ました。
「おかゆくらいなら、食べられますか。」
瑞希が温かいお手拭を渡しながらたずねると、可八は疲れた顔で微笑んだ。
「ありがとうございます。いただきます。」
白粥をすする可八を眺めながら、瑞希は明羅の言葉を思い出していた。病院へ行ったという。でも、病気ではないという・・・。
(・・・ああ、そういうことか。)
瑞希は、スープの皿を可八に渡し、言った。
「もしかして、妊娠してますか。」
可八の表情は強張った。しかし、すぐに首をふった。
「いいえ、してません。」
「さっき、兄に電話したんですよ。そしたら、病院へ行くために東京に来たとか。」
「・・・そうですけど。」
「でも、病気ではないって、兄が・・・。」
すると可八はうつむき、そして言った。
「明羅さんが瑞希さんに言わない限り、私の口からは言えません。」
「だって、病院へいく必要があったのは、あなたでしょう?」
「そうですけれど・・。」
夫婦の間には、たとえ実の弟だろうと、義理の弟だろうと、知られたくないことがあるのだろうか。
次の朝、瑞希は愛姫の携帯に電話をしてみた。
愛姫の父に交際を反対されて以来のことだ。
愛姫は夕べ遅くに旅行から帰宅していて、家にいた。
可八のことを知ると、すぐ、瑞希の家にやってきた。
可八はリビングで愛姫に再会した途端、立ち上がった。
「私、帰ります。」
「可八?」
「もう、ここに用はないからです。」
可八は、瑞希の方を向いた。
「お世話になりました。いろいろ、ご迷惑おかけしてすみません。」
強い意志の色が、可八の瞳に宿っている。
愛姫は息を呑んだ。一体、何があったというのか。
愛姫の困惑の色を読み取った瑞希はその場から離れ、しばらく二人きりにすることにした。 可八に何かがあったことは確かだ。兄の態度といい、夫婦関係にヒビでも入ってしまったのか。
リビングから出たものの、瑞希はどうしても気になって仕方がなかった。他人事ではない、自分の兄が関係しているに違いないからだ。
瑞希は廊下から中の様子を伺うように、扉にぴったりと身体をつけ、聞き耳を立てた。
暫らくは沈黙だけが続いていたが、やがて、ぼそぼそと会話らしき息遣いが聞こえてきた。 だが、もどかしいほど何も聞き取れない。
瑞希は、ほんの少し扉を開けて、中を覗いた。
と、そのときだった。
「何ですって?」
愛姫の声が鋭く響いた。
「一体、どういうことなの!?子どもを堕ろしたって・・!」
「!!」
瑞希の呼吸が止まった。
可八が何かを言っているが、聞き取れない。
じれったいと思うより早く、瑞希の身体は動いていた。
「可八さん・・!」
瑞希の声に、驚いた愛姫が振り返る。
「瑞希さん?」
「どういうことですか。子ども・・・堕ろしたって・・・!」
この話題に過敏になるのは、瑞希も愛姫も同じだ。
瑞希は、ふと、明羅が言っていたことを思い出した。
― いつどうなってもいいように、この世に未練なんて持ちたくはない ―
(まさか・・・。)
だが、可八の答えは瑞希の予想通りだった。
愛姫の額が青ざめていくのがわかる。
可八は言った。
「私が、ちゃんと薬を飲んでいなかったのが悪かったんです。子どもはいらないって、初めから言われてたのに。」
「そんな・・!子どもがいらないなんていうのは明羅さんの勝手な都合じゃないの?だったら、気をつけるべきは明羅さんの方でしょう!」
「いいえ。それは、違います。」
瑞希は下唇を噛み締めた。
愛姫は子どもを堕ろしたわけではない。人工流産だった。だが、どちらにしろ生を受けられない子どもを宿したことを一生の罪として償っていこうとしている自分達の目の前で、自ら、しかも、何の障害があるわけではない健全なはずの夫婦が進んで堕胎するということが信じられない。しかも、それが自分の尊敬して止まなかった実の兄だということが、瑞希には受け入れられない。
「橋田さん。俺、兄に会いに行きます。」
「瑞希さん・・?」
「今からなら、午後の飛行機に間に合う。」
すると、可八の身体が弾かれたように瑞希の足にしがみついた。
「やめてください!」
「・・可八さん?」
「やめてください。こんな話、瑞希さんにも愛姫さんにもするつもりはなかったんです。話したことがばれたら、私、明羅さんに嫌われてしまう!」
愛姫は、可八の背を支えた。
「いいえ、可八。明羅さんは一体可八を何だと思っているの?この世に未練を持ちたくないのなら、初めから結婚なんてすべきではない人なのよ。可八の人生を何だと思っているの?結婚したのよ、子供ができて当たり前でしょう!」
「いいんです。私は、瑞希さんや愛姫さんがずっと言っていたように、業を背負って生きていくべき人間なんです。私と結婚して、明羅さんの何かがプラスになるのなら、それでいいんです。私は、明羅さんの人生の下敷きでいいんです。私は、明羅さんが好きなんです。好きな人のそばにいられれば、後は、何が起ころうと、かまわないんです。これ以上望むなんて、殺人犯の娘には贅沢なんですから!」
そうだ。
瑞希は可八に、殺人犯の娘らしくあれと言った。
愛姫は可八を、犯罪者の娘の分際で、と何度も罵った。
今、自分達は可八に同情して明羅を責めているが、かつての自分達と明羅とに、どれほどの差があるというのだろう。
「でも、俺・・。兄を許せない。」
「いいえ。私の血が後世に受け継がれるべきではないとおっしゃったのは瑞希さんです。
よかったではありませんか?ご兄弟の意見がぴったり合って。」
可八の言葉には嘲笑が含まれていて、瑞希は何も言えなくなった。
散々、可八を罵ってきたのだ。罪を背負って不幸に生きろと言い続けてきたのだ。それが現実になったところで、憐れむ資格などない。
可八は荷をまとめた。
「この話は、忘れてください。本当に、言うつもりはなかったんです。愛姫さんにも、会うつもりはありませんでした。だって、会う理由がありませんから。・・瑞希さん、お世話かけてすみませんでした。失礼します。」
「可八!」
玄関先で、愛姫は可八を呼び止めた。
「今日は、私のところに泊まっていきなさい。まだ、身体がつらいはずよ。」
しかし、可八は振り向かずに言い放った。
「私は、愛姫さんにとって他人ですよ。そんなこと、していただく理由がありません。」
「何を言っているの?そんなこと、」
「愛姫さんが言ったんですよ!他人だ、って!どうして御自分が言ったことを私が言うと否定するんですか!?」
足早に去っていく可八を、瑞希も、愛姫も、止めることができなかった。
可八の言葉がガラスの破片のように二人の心につきささっていた。
可八を虐げていたことを、こんな形で返されるとは。
暫らくの沈黙の後、愛姫は言った。
「明羅さんにとって本当に大事なのは、瑞希さんだけなんですね・・。」
「え・・・。」
「この世に未練を持ちたくないから、瑞希さんから離れたんですよ。それで、未練に繋がらない女を、傍に置いたんですよ。」
「兄は・・可八さんを好きだと言いました。」
「でも、未練になるほどではないのでしょう。」
そうだ。明羅は、そう言った。
愛姫はため息をついたが、その目には涙が滲んでいた。
「可八は・・・やっと、幸せになったと思っていたのに。でも、私、その幸せを素直に祝福できなかった。殺人犯の娘が私より幸せになることが許せなかった。それが現実になったらなったで、こんな感情になる・・。」
「俺も、同じ思いです。同じ・・。」
今、瑞希と愛姫の感情はシンクロしていた。
同じ思いで、二人して泣きたいと思った。
だが、それは許されない、とも思っていた。
力なく玄関に降り立った愛姫は、瑞希に頭を下げた。
「可八がお世話になったこと、・・ありがとうございました。」
「いいえ。・・俺の、義姉ですから。」
瑞希の頬は、知り合ったときよりずっと細くなった気がする。愛姫はこれ以上口を開いたら、本当に泣いてしまいそうで、そのまま背を向けた。
「失礼します。」
冷たい音をたてて、重いドアが閉まった。
瑞希には、このまま愛姫との関係が終わりそうな気がした。
こんなに同じ感情を共有できるのに、互いを慰めあうこともできない。その空しさを抱えて、あと、どれくらいたてば愛姫と手を取り合うことができるというのか。
「両思い」は、この世で一番奇跡に近い偶然だと思っていた。
なのに、明羅と可八の関係は、奇跡ではなかった。半ば、明羅の陰謀だった。
そして、瑞希と愛姫の関係は、先行きの見えない暗闇に入り込んでいる。
明羅の本音を知り、愛姫は、傷ついたに違いない。かつて愛していた男の裏の心を見抜けなかった己を、責めているかもしれない。そして、弟である瑞希のことも、もはや信じられなくなっているかもしれない。
色々考えながら、暖かなリビングに戻ってきた。
テーブルに残されたカップのうち、愛姫に出した紅茶は、少しだけ減っていた。
それは、あんな状況下でも瑞希に対しての礼を尽くした結果なのだろう。
そのカップの淵を、瑞希はそっと指先でなぞった。
胸の奥がこんなにも締め付けられる。
だが、それ以上に明羅と可八の一件が脳裏をめぐり、心を掻き乱す。
可八という他人が関わったことで、明羅と瑞希の作り上げてきた「家庭」は崩された。今は、明羅自らが瑞希との関係を壊そうとしている。
明羅は、瑞希なら理解するとでも思っているのか?
明羅は、瑞希が可八に同情するはずなどないとでも思っているのか?
−兄に会わねばならない−
瑞希はその夜、決意した。