第30話
愛姫には、自信が芽生えつつあった。一人の男性に愛されているという確たる自信が。
「橋田先生って、最近きれいになりましたよね。」
ランチを事務所の女性たちととっている時のことだった。彼女たちは愛姫より若い。恋愛話や男の話のとき、愛姫はどちらかというと外れ者のような立場だったから、あまりランチを一緒にとることもなかった。そのため、急な言葉に思わず咳き込みそうになった。
「どうしたの、いきなり?」
「やっぱり、恋人のおかげですよね。」
何で知っているのか?誰にも言ってないのに。
「いや、恋人というほどでは・・・ないんだけど。」
「また、そんなことおっしゃって。この間丸ビルを二人で歩いてるの見ちゃいましたもん。何ヶ月か前、事務所の外でずっと立ってた人ですよね。」
「そうそう。橋田先生が腕つかんで一緒に歩いていくの、見ちゃいましたもん。」
「ねぇ」、と言って彼女たちは騒ぎ立てた。
「すっごいハンサムなんですよね。ずうっと橋田先生のこと寒空の中立って待ってたなんて、愛情ですよねぇ。」
愛姫は苦笑してしまった。もしこの先別れるようなことがあったら、申し開きもできずに、今度は嘲笑の的になるだけではないのか。
「あの人は、可八の旦那さんの弟なの。親類っていうの?」
「赤の他人には変わりありませんよ。今度紹介してくださいよ。」
愛姫は曖昧に返事を濁し、仕事に戻った。彼女たちは新鮮な話題を常に探している。どうせ明日には忘れているのだ。
しかし、その四方山話は思わぬところに火をつけてしまった。
事務所の所長は、愛姫の父の友人だ。
所長に悪気はなく、単なる世間話程度だったらしいが、愛姫の父は静かに激怒していた。ある夜、電話で強引に自分のマンションへ愛姫を呼び出した。
父は瑞希との交際を頭ごなしに反対した。
「明羅君と可八との話が出たとき、私は身辺調査をしている。瑞希君のことも調べた。ここに調査結果がある。よく読むことだ。」
テーブルに投げ出された分厚い書類を愛姫は一瞥して、父を睨んだ。
「何を今更父親面しているの?私は、あなたの言うことなんてきくつもりはないわ。」
「お前は橋田家の跡取りだ。それなりの男と結婚してもらわねばならない。第一、瑞希君は一年前に婚約を解消したばかりで、もう次の女を見つけるなどといういい加減な男だ。地位と金と女に貪欲な、とんでもない輩だ。男慣れしていないお前を落とすことなど、朝飯前なんだろう。早めに目を覚ますことだ。」
「・・・私は、男に騙されるほど愚かではないし、いつも冷静よ。瑞希さんの過去も大体察しはついているし、本人の口からも聞いているわ。」
それを聞いた父の目が嘲笑した。
「可八と二人だけの世界で生きてきたお前らしい甘いセリフだな。瑞希君がお前を選ぶのは、その地位と金が目当てだ。それ以外の何者でもない。ああいう色男は女なんて意のままにしてきたのだろうから、女自身に興味なんてないものだ。」
瑞希自身が、そう語っていた。父の言うとおりだ。だから、父の言うことを正しくないとは思っていない。ただ、一番大事なときに子育てを放棄した父に、父親面してとやかく言われることが許せないだけだ。
「結婚など、絶対に許さないからな。」
瑞希のほうが傷が癒えずにいるのに、結婚など、遠すぎて見えない未来だ。
「あなたの言うとおりにはならない。それだけは絶対よ。私は橋田という家をどうとも思っていない。お望みなら、すぐ母方の籍にしたっていいのよ。」
「私がお前に相応しい男を紹介する。」
「そんな親の息がかかったような男なんてお断りよ。それこそ「法曹界の橋田」の権威狙いのとんでもない男なんじゃないの?」
愛姫は父の出した書類をつかみ、踵を返した。
「私の人生は私の思ったとおりにする。あなたを父とは思っていない以上、どんな言葉も聞くつもりは無い。でも、逆らうわけではないから。私だって、そう簡単に瑞希さんと結婚できるとは思っていないし、私のほうから手を離すかもしれない。私には分別がある。それは自負しているの。絶対の自信があるわ。私は、私を信じているのよ。だからこの書類もちゃんと見るわ。現実を放棄して、夢を見ているわけではないからよ。」
偉そうな口をきいているとわかっている。でも、本当のことだ。
風を切って歩く自分の目が、どんなにまっすぐ前を向いているが知っている。
父の言うことなど、今更取るに足らない。
しかし。
突如、愛姫の上腕に鳥肌が走った。
父が瑞希の身辺調査をしたのは、愛姫が瑞希と知り合う前後だろう。だが、今、また再び調べ直さないとも限らない。愛姫の手にある書類は瑞希の過去だ。
だが、愛姫と知り合ってからのことを調べ始めたら?
探偵が病院へ行ったら?
病院の守秘義務はどこまで信頼できるものなのか?
知られたくない。
知られたら絶対に結婚を許されないだろう。だが、それとは別に、親に知られたくない。
妊娠し、流産したことを。
絶対に。
絶対に!
瑞希が愛姫を想うたびに罪の意識に苛まれるように、愛姫の心から罪が消えることは無いのだ。そしてそれが二人を結びつけ、愛ではなく、呪縛として縛り付ける。
祈るしかない。
父が調査のし直しなどしないように。医師たちが秘密を守ってくれるように。
自分を信じている。
分別があると思っている。
瑞希との夜を、後悔はしていない。だが、父には絶対に知られたくないし、言えもしない。 それが後ろめたい秘密というのだ。
愛姫の父は、瑞希のマンションに直接乗り込んだ。それは12月。クリスマスイルミネーションと馴染みのメロディが耳から離れなくなった頃のことだった。
兄がらみでしか会ったことのない初老の男を、ただただ驚きの眼差しで見ることしかできない。しかし、自己紹介など必要がない間柄であることは確かだ。
「愛姫とつきあっているというのは本当かね?」
玄関先で突然言われ、瑞希は何と返事をしようか戸惑った。
「黙っているということは、本当なんだな。言いたいことはただひとつ。すぐ、別れてくれ。」
「え・・・?」
「君の過去は調べ済みだ。いい加減な男に、愛姫を任せることはできない。愛姫は何と言おうと、私の一人娘で、橋田家の跡取りであることは変わりない。君とは結婚させられない。つきあうことも、認められない。」
瑞希は唇をキッとひきしめ、そして言った。
「お断りします。」
「何?」
「確かに私はいい加減でした。兄と違って、誰にでも胸を張れるような生き方をしてきてはいませんでした。でも、今は違います。愛姫さんに少しでも相応しくなろうと、」
「笑わせるな、いい年をして!君がどうなろうと、私は君を認められないのだよ。法曹界の人間でなければ、結婚を認める気はない。愛姫が何を言おうと、それを真に受けるな。いいか、大事な愛姫に手を出したら許さない。それを覚えておくことだ。」
冷たい戒めを残し、愛姫の父は去っていった。
玄関から足が離れない。
どれほど時間が経ったろう。頭が冷えていくにつれ、瑞希は今の自分が、かつての可八と同じだということに気付いた。
絶対的な力で別れを強いられる。愛姫の父は、まさにかつての自分だ。
あの頃の瑞希は、兄に言ってることは絶対正しいと思っていた。兄を、いつかは目覚めさせられると思っていた。
愛姫の父の言ってることが間違っているとは思わない。だが、その理屈を覆すほどの強い気持ちがある。感情論、と鼻先であしらわれそうだ。だが、愛姫が自分を拒絶しない限りは、諦めることなどできない。いや、思いは一生変わらない。別れるときは、身を引くという形でしかありえない。
首を締め付ける濃紺のネクタイをゆるめると、ソファに身体を投げ出し、腰を埋めた。
愛姫との関係を、そうそう簡単に認めてもらえるなんて思ってはいなかったはずだ。しかし、こうして現実をつきつけられると絶望する。
愛姫は、知っているだろうか。自分の父が、このいい加減な過去を持つ男を決して結婚相手として認めることがないということを。
愛姫との夜についてはまだ知られていないようだ。知っていたら、「手を出したら許さない」などと言わず、有無をいわさず殴られていただろう。
こんな、額の前髪だけでなく、脳みそごとかきむしりたくなるような夜を、もう、幾度経験しただろう。兄の結婚話のころから、それは繰り返された。あれから、平穏な日などなかった。兄が結婚してからも、愛姫への罪で毎日苦しむ。
愛姫の父が、自分を許すときなどくるのか。
許してくれなかったら?
愛姫が、無理やり別の男と結婚することになっても、ただ、見ているのか?
できるわけがない。
愛姫が心からの幸せを感じているのなら、諦めはする。しかし、やりきれないだろう。
どんなに過去を後悔しても、やりなおせない。
償い、とは何か。
償える罪など、あるのか。
過去に遡ることが不可能なのに、犯してしまった過ちを繕うことなど可能なのか。
可八の父は獄中で自殺した。でも、死んだ妻は絶対に帰らない。
反省しようと、後悔しようと、死ぬほどの苦しみを味わおうと、起こってしまった過去を取り消せることなど絶対にできないのに、「償い」とは何か?
昔、偉い人が言ったらしい。罪を犯した人に、「ならば償えばいい」と。
それで被害者が救われれば、いいかもしれない。だが救われなければ、どんな苦行も「償い」とはいえないのではないか。
もし、愛姫が瑞希を強姦の罪で訴えていたとして、懲役刑になったって、愛姫の身体は元には戻らないし、傷ついた心だって癒えるかわからない。
瑞希は、愛姫との連絡を絶った。
すべての自信を失くしていた。
償う術を見失ったのに、愛姫を幸せになどできるわけがない。
そんな気持ちのまま会うことは、許されない気がしていた。