第3話
可八の父親は真面目な男だった。可八の母親はそんな男に甘えて、遊び好きで浮気性だった。そんな妻は夫に刺し殺された。可八の父には、実刑で懲役七年という判決が下されたが、次の日には獄中で首を吊って自殺してしまった。人一人殺めたことが、真面目な男には耐えられなかったらしい。だから裁きを受けた後、自分で自分を処罰したと、遺書には書いてあった。残された一人娘の可八を兄夫婦に託すとも遺書には書いてあったが、ことごとく断られた。すべての親戚が事件以後、血縁関係を知られまいと必死だったからだ。母親方は殺人犯の娘など何をするかわからないと、拒否した。愛姫の父がそれを見かねたというのも、あながち嘘ではないかもしれない。だが、それをひけらかしたことが、愛姫には許せないのだ。
愛姫の母親は潔癖で、神経質だった。愛姫には優しい母だったが、時折ヒステリックに叫ぶときがあり、そのときは手がつけられなかった。
殺人犯の娘。なぜ家が引き取らねばならないのかと、母と父はしばらく言い合いを続けていた。それに嫌気がさした父は多忙な折に利用していた都心のマンションに入り浸るようになり、家へは戻ってこなくなった。愛姫もできる限り可八との関わりを避けていた。それでも世話をせねばならない母は孤立した状態になり、段々陰気になり、やがてノイローゼと診断された。
助けを求めても父は多忙で連絡が取れず、病気の母と六歳の幼女を抱えて、中学生になったばかりの愛姫は途方に暮れた。
やがて母は、愛姫が買い物に行った留守にスカーフで首をくくって自殺。愛姫が見つけたとき、可八は冷たくなりつつある母の肩を無言でゆすっていた。異常を感じ、起きて欲しいと懸命に願っているようだった。可八は、人が死ぬ現場を、またしても目の当たりにしてしまったのだ。
父はそれでも戻らず、母が亡くなったことをいいことに、ますます若い秘書に現を抜かすようになっていった。
赤の他人との生活を余儀なくされることを愛姫が受け入れられるとでも思っていたのだろうか。家庭の何もかもを一人で背負えると思ったのだろうか。
「可八との接触をできるだけ避けていた結果・・・可八は、自閉症になってしまったんです。」
明羅の新聞社がある高層ビルの一角は、マジックミラーが施された応接室になっている。極秘の取材もできるように、他者との動線が一切混じることなく、また、防音もしっかりしている。愛姫はその日の午後、少しばかりの有給休暇をとって明羅に会った。
「それで、どうしました。」
明羅のメモ帳に走る速記文字は愛姫にはまったくわからない。同時に音声も録られているが、意識しながらも、ただ、自分は喋るだけだ。
「医者にかかって、診断を聞いたとき私は取り返しのつかないことをしたのではないかと恐怖で目の前が真っ暗になりました。このまま可八を入院させて、放っておこうと本気で思いました。母のことも記憶に新しいのに、もう、自分こそどうにかなってしまいたい、と。」
額を押さえて唇を噛む愛姫に、明羅はいったんペンを置いた。
「でも、あなたはそれを乗り越えたわけですよね。」
「ええ。・・・母の病気のときでさえ拒否をした父には、もう頼れないと思って、私は自分で何とかするしかないと覚悟しました。」
「藤木さんは、小学1年生になっていましたね。学校はどうしましたか。」
「学校では殺人犯の娘としていじめられたらしくて。生徒だけでなく、先生からも。だから、家に居させるしかありません。頼れる大人もいないし、相談する相手もいない。そのときからです。可八を守るのは自分しかいないという・・・使命感のようなものが芽生えたのは。」
愛姫は、そこで慌てて付け加えた。
「でも、それは恐怖から逃れたいという理由から生まれただけの気持ちなんです。やむをえなくて、自分の犯した罪を少しでも何とかしたいと思って、義務のような、いえ、義務以下というか・・・。」
明羅は少し困惑した。
「そんなに、ご自分を卑下なさらなくても。変な美化とかはしませんから。」
愛姫は疲れた表情で首を振った。
「いいえ、卑下ではなく、事実です。私、自分を守るためならどんなことでもする卑怯な性格なんです。今思えば、それこそ父譲りなのかもしれません。」
「本当の卑怯者なら、藤木さんが完治することはなかったと思いますよ。」
「ただ、必死でした。とりあえず私も学校を休んで可八との時間を作りました。絶えず話しかけて、至れり尽くせり世話をして、彼女の信頼を得ることだけを考えました。初めて可八が私の声に反応したとき、どんなに嬉しかったか・・・!」
愛姫の目に、思わず涙があふれた。しかし、それを明羅に感づかれまいと唇の上下を必死にひきしめた。明羅は、涙を見せていい相手ではない。だが、明羅はそれを察知し、そして涙を見られたくないという愛姫の気持ちも汲み取り、
「一休みしましょう。コーヒーでも入れます。」と言い、部屋を出て行った。
愛姫は、自分でも思った以上のことを話してしまっていると冷静に考えた。明羅の聞き方が優しいから、思わず話が次から次へとでてしまう。明羅の同情を欲している自分を押し殺そうと決意した。それを試練としようとした。
だが、それには、どんな意味があるのだろう。
他人に甘えていると痛い目を見ると学んだから。
一人でも生きていける強さが必要だったから。
そして、明羅は記者。互いの関係はあくまでビジネスだから。
「お待たせしました。」
紙コップに入ったブラックコーヒーに、明羅は愛姫の分にだけ砂糖とミルクをつけた。濃いコーヒーが苦手な愛姫は両方とも入れて、口紅の色だけ残った唇をつけて少しすすった。この後どんなに胃が焼けようと、すべて飲み干す。相手が明羅だからでなく、それが礼儀だと思うからだ。
窓からは、周囲のオフィスの窓が見える。カーテンウォールのミラーガラスのため中の様子は伺えないが、あの向こうで無数の人間が働いているのだと思うと、いつまでも見ていたい気持ちになる。
「反対側の部屋の並びなら、日比谷公園の方が見えるんですけどね。」
明羅の言葉に愛姫は軽く頷いた。
「でも、私はオフィスの窓を見るのって好きです。特に窓に明かりが灯った夜景は絶品ですわ。高いところから無数に散らばる光には興味がないんです。」
「めずらしいですね。」
「変わり者なんです。言われなれています。」
カップの温かさを手のひらで感じながら、愛姫はさらに窓の外を眺めた。
以前可八を病院に連れて行って、診察を待つ間、こんな風な景色が見えていた気がする。その景色が見られるから、病院通いを苦に感じなかったのかもしれない。
そんなことを、ふと思い出した。
今回の取材に応じたことは、この二十年を振り返り、ひとつの区切りをつけるためだ。取材が終わったとき、可八との曖昧な関係に何かしらの決着をつけられたらいい・・・、愛姫は、そう感じていた。