第29話
望月瑞希は教員採用試験に当たり前のように合格した。だが、瑞希もそれなりに努力したし、この三ヵ月は愛姫とも会っていなかった。
瑞希は、まず定職に就かねば愛姫とつきあう資格などないと思っていたからだ。
10月。合格のお祝いが二人の再会だった。
しかし、相変わらず瑞希は酒を口にしない。そして、食事を楽しむこともない。それが愛姫を自責の念へと追い込む。瑞希と結婚し、瑞希が一生こういう食事をする限り、愛姫は毎日罪の意識から逃れられないだろう。瑞希の償いは、愛姫自身の償いにもなるのだ。
食後の紅茶を口にしながら、愛姫はふとつぶやいた。
「考えてみると、私は瑞希さんのことあまりよく知らない気がする。」
「・・答えて済むことなら、なんでも聞いてください。」
「じゃあ、たとえば趣味とか、夢とか。」
「趣味は夜の街をドライブすること、夢は橋田さんと結婚することです。」
思わず呼吸が止まった。
瑞希が、趣味を語るのと同じ口調でさらりと結婚を口にしたのが気にかかった。
「どうかしましたか。」
「いえ、・・・本気なのかと・・。」
「愛姫さんは、本気ではないんですか。」
瑞希の声が穏やかでない。怒っている。当たり前だ。
「本気です。でも、」
瑞希の顔が下を向いた。
「お茶を飲んでしまってください。続きはここでは話せないですから。」
愛姫は紅茶を残し、水で口を濯いだ。
丸の内は、都市開発ですっかり変わった。休日はゴーストタウンと化すエグゼクティブの街だったのに、今では子どもやティーンまでごったがえす。平日の夜でさえそうだ。
二人は東京駅から離れ、和田倉噴水公園まで歩いてきた。ただ、そこまで瑞希は口を利かず、そして早足だった。
高いヒールの愛姫の足裏は一日の疲れで悲鳴をあげている。が、瑞希にそれはわからない。瑞希は、女性はハイヒールを当たり前に履きこなせるものだと思っているのだろう。
橋の欄干にひじをつき、上体をかがめた瑞希のシルエットは月明かりに映える。その向こうにはパレスホテルの看板だけが浮かび上がる。大通りの向かいには明治時代の面影を残す石造りの建物が、スチールとガラスのビルの谷間でひっそりと息づいている。
「俺はいい加減な生き方をしてきたから、そうそう簡単にあなたに信じてもらえるとは思っていません。でも、本気ですから。本当に。」
見つめた先にまっすぐな瑞希の瞳がある。
欠点だらけの自分の顔をまじまじと見られたくなくて、いつも視線を逸らしてきた。しかし、今は違う。
指の先が震えても、視線だけは逸らさない。
瑞希の表情は真剣すぎるほどで痛い。
男の人の表情をこんなに色々と見たことなど今までにあっただろうか。同僚や友人が決して見せることのなかった感情の起伏を、瑞希から教えられる。
すべてを失って絶望したときの顔。
無理やり病院を出ようとした愛姫を必死で諌めようとする顔。
ずっとこのままでいたいと言った雨に濡れた顔。
そして今。
真剣すぎる眼差しで愛姫を見つめる顔。
自分もこんなにも本気だとわかってくれているだろうか。今の自分の表情は、瑞希をこんなにも強く思っていると、ちゃんと伝えてくれているだろうか。
本当ならこんな沈黙の後には唇を重ねるのだろうが、瑞希はそれをしなかった。
愛姫に指一本触れずに、瑞希は離れた。決意と失意が交差する。愛姫といるときも、いないときも。
時間が解決などしない。時間に解決などさせてはいけない。瑞希が償わねばならない罪。
瑞希の躊躇が愛姫には歯がゆい。
「瑞希さんの態度は、・・・わたしと結婚しようと思っているとはとても思えないんです。」
言っている唇が震えている。
瑞希が肩越しに振り返る。長い前髪で、表情が読めない。
「・・・態度?」
瑞希の頬に陰が見える。
愛姫は思わず唇を引き締める。握った拳がつらい。
「どういう態度なら、結婚しようと思っていることの証明になるんですか。」
瑞希の瞳に滲む悲しみの色が、愛姫を恐怖に貶める。
瑞希がどんな思いで愛姫に触れないか愛姫なりに考えてはいる。では、愛姫は?愛姫だって瑞希に触れていない。でも、瑞希にわかって欲しいと思っている。この、強い思いを。だから、一方的に瑞希のことを責めるのはおかしい。
突如、瑞希は愛姫の腕をつかみ、足早に歩き出した。足がもつれても止まれない、脅迫めいた強さがある。
さっきまで噴水の向こうに見えていたパレスホテルの看板が、今は近すぎて見えなくなっている。
ドキリとするよりも早く、体中の血が脳天に向かって流れ出すのがわかった。その後、瑞希がどうしたのか、どういう道を辿って部屋に着いたのかまったく覚えていない。
部屋の扉が閉められると、瑞希の手は愛姫のバッグを奪い取り、そのまま身体を抱き上げた。
ベッドに投げ出された衝撃で目をつむる。次に開いた瞬間に見たのは、瑞希の間近の顔だった。
正視できない。こんな男の顔が、何を考えているのかわからない。
思わず顔をそらせて、目をぎゅっとつむり、身体を硬くした。
すると、ずっと上のほうで、静かなため息が聞こえた。
「俺を、受け入れられないでしょう?」
目を、見開く。
「あなたが、そう簡単に俺を許せるとは思っていない。あなたがどう言おうと、今の反応でよくわかったでしょう。」
乱れた髪を額にへばりつかせたまま、愛姫は上半身を肘でもちあげた。
「そんな・・・。今のはただ、驚いたからだけで・・。突然で、どうしていいかわからなくて。普通、誰だってああいう反応になると思います。」
「そうですか。俺がつきあってきた女達は、あなたがいう『普通』とは違うでしょうからね。」
どうしてこんなことになったのかわからない。だが、頭に上った血が、だんだん冷めていくのだけはわかる。
ベッドから降り立つが、足に力が入らない。放り出されたパンプスが、背を向けた瑞希の傍に転がっている。
「私が瑞希さんを受け入れられないことを私に実感させるために、そのためだけに、部屋をとったんですか。」
「・・・・そうです。」
「では、もし私が拒まなかったら、どうするつもりだったんです?」
「・・・拒まないはずがない。」
「そんなこと・・!」
「俺が怖くないはずはない。あなたがどうして俺と一緒にいたいなんて言ってくれるのかいまだにわからない。あんな目にあわせた男を、そう簡単に受け入れられるわけがないんだ。」
「私は、そんなに純心ではありません。私だって瑞希さんがどうして私を選んでくださったのかわからない。だから、その理由が知りたい。あなたの気持ちがどれほどのものなのか知りたいんです。」
「・・・あなたといるときも、離れているときも、あなたを好きだとずっと思っていますよ。もちろん、今も。言葉にしなければだめですか。態度で示さないとだめですか。」
「人の気持ちなんて、思っているだけでは通じないと言われてきました。私だって、いつもいつも瑞希さんを思っています。でも、それが瑞希さんにちゃんと伝わっているか不安です。わかって欲しい場合、どうすればいいですか。」
瑞希が再び近づいてくる。
「言葉にしたら陳腐になる。だからといって抱かなければ通じないなんて、違う、と思う。どんなに贈り物をしても、心の代わりにはならない。ただひとつ言えるなら、俺は、結婚できるまで絶対にあなたに手を出さない。それが既に過ちを犯してしまった俺のけじめです。あなたに本気だからこそ、それを守ります。それで、少しは伝わりますか。」
「わかります・・・本当は、そんなこと十分わかっているんです。瑞希さんがどういう気持ちでいるか。でも、私は自信が欲しいんです。そうでないと、不安で・・・。」
こんな台詞が言える女だったと驚いたのは愛姫自身だ。だいたいにおいて、瑞希に愛されているとわかっていなければこんな台詞、滑稽すぎて言えるわけがないのに。
次の瞬間、瑞希の手が愛姫の腕を引き寄せ、二人は限りなく近くで見つめあった。
「覚えておいてください。俺は、あなたを抱いていいのなら、例え死ぬ間際でも抱ける。あなたが俺より先に死んでしまったら、毎晩あなたの墓で眠る。古い詩のように。」
愛姫は瑞希の白いシャツに、わずかに触れる程度に頬を寄せた。目を閉じると、ダージリンの香りが鼻をくすぐる。
「ごめんなさい・・。」
他人から見れば、ままごとの様な恋愛ごっこなのかもしれない。しかし、恋愛初体験の愛姫には、これが精一杯だった。
消えない罪を二人で分かち合う限り、おそらく何度も傷つけあう。それは覚悟せねばならない。
11時過ぎにマンションに着いた瑞希は、玄関を開けるなり、リビングに明かりがついていることに驚いた。
だが、すぐにその正体が明かされ、思わず微笑んでいた。
「兄貴・・・!」
明羅が出張ついでに寄ったという。そう、鍵は渡したままでいた。
「遅かったな。まさか、仕事ではあるまい?」
「兄貴こそ。新婚のくせに、泊りがけ出張なんて。」
「仕方ないだろう?日帰りはちょっときついからな。それに可八は強い。俺がいなくても、一人でやっていける。」
瑞希は、コーヒーを注いだマグカップを宙に浮かせたまま立ち止まった。
「意外だな。兄貴は俺にこう言ったはずだぜ。可八には支えてやる存在が必要だ、みたいなことを。」
ソファに身体を投げ出し、明羅は鼻先で笑った。
「そういうこともあったな。でも、ジャーナリストの妻なんて、強くなければ困る。いつどういう目に遭うかわからないんだからな。」
瑞希は少し口元をすぼめて明羅の向かいに座った。
「結構そっけないセリフだな。」
「本当のことだ。俺だって、いつどうなってもいいように、この世に未練なんて持ちたくはないし。」
「・・・どういう意味?」
「そのままだよ。この世に未練があったら、最前線に取材になんて行けなくなる。それでは困る。だから仲間には独り身の奴は多い。でもそれでは出世はできない。」
瑞希は目の前が歪むのを感じた。兄は何を言っているのだ。弟を犠牲にしてまで純愛を貫いたはずの男の台詞とは思えない。まるで計算づくで結婚したかのようだ。
「それは、可八さんを好きで結婚したわけじゃないってこと?」
「・・・好きだよ。ただ、強い未練を感じてしまうほどでは・・・ない。」
思わず、全身が痙攣のように震えた。瑞希は怒鳴った。
「なんだよ、それ!?兄貴たちの結婚の裏では、俺も橋田さんもすごい苦しんだんだぞ。それを何だよ、いい加減だったみたいなこと言って!」
「いい加減なわけではない。色々考えた末の結果だし、これで良かったと思っている。瑞希の結婚が駄目になるのも覚悟していたことだ。瑞希にあんな骨肉の争いがある家門の渦中に身を置いて欲しくなかった。お前のような善人には耐えられるわけがない世界だし、そのせいで変わって欲しくなかった。」
「じゃあ、わざとだったというのか?俺の結婚を壊すためにあの女と一緒になったというのか?」
「そうではない。結果としてそうなるだろうとは思っていただけだ。」
「何だよ、それ?今更、わけわかんねぇこと言うなよ!橋田さんだって、兄貴のことずっと好きだったのに可八さんにとられて、苦しんでいたんだぞ?そういう気持ち、なんだと思っているんだよ!?」
明羅の表情は変わらず、瑞希を凝視する。
「だから、橋田さんを選ばなかっただろう?ああいう人は未練になる。ああいう深い心の人を悲しませるわけにはいかない。」
瞬きを忘れた瑞希の目は、乾いて痛くなる。
「それって、本当は橋田さんのほうが好きだけど、だからこそ大して好きではない藤木さんのほうを選んだってことかよ?」
「いや、橋田さんみたいな人は初めから本能が除外している。好きにはならない。」
今まで感じたことのないような怒りや憎しみが、瑞希の全身をかけぬけた。さっきまで愛姫と甘い夜をすごしてきたのに、すべてが闇夜で凍りつく。
明羅はたたみかけるように言った。
「俺は、瑞希が言うような『胸を張って生きていける』種の男ではないんだよ。瑞希のほうこそ、ずっと傷つきやすくて良心を持っている。橋田さんもそうだ。橋田さんは可八を守ってやらねばならい存在だと思っていたようだが、本当は違う。可八はずっと強かで、己を大事にしている。心配などいらない。」
今まで、兄を尊敬してやまなかった。妬ましいほどその生き方を羨んでいた。それが、今はとてつもなく嫌らしい男に見える。だが、兄の本性を信じたくない気持ちが、ストレートな嫌悪をけん制している。
「何で今更そんな話をするんだよ。そんな、誰もいい気持ちのしないような裏話、ずっと黙っていればいいじゃないか。」
にらみつけたフローリングの色が滲む。
「・・・そうだな。」
「大体、可八さんはそういう兄貴の気持ちを知っているのか?」
「・・・多分な。」
「そんなんでうまくいくのかよ?」
「面白いこと言うな。壊したがっていたのはお前なのに。」
「・・・真相がどうであろうと、二人の結婚の裏で起こった真実は変わらないんだ。その犠牲を無駄にしないためにも絶対に別れて欲しくない。」
明羅はそんな瑞希の複雑な表情から目をそらした。
「・・・じゃあ、出て行くよ。」
「えっ?」
「俺とは一緒にいたくないだろう。」
「何言ってんだよ、自分の家だろ。無駄遣いすんなよ。・・・兄貴は、兄貴だ。それは一生変わらない。」
明羅の目が、昔の眼差しに、一瞬、戻った気がした。
瑞希にとって明羅は憧れで、尊敬の的だった。なのに、なぜ今頃になってあんなことを言うのだ。本当は、あそこまで純愛を貫いた兄を羨ましくさえ思っていたのに。愛姫の愛した明羅のまっすぐな生き様を見習い、まじめに生きていこうと努力している最中だというのに。
甘い夜の余韻に酔っていたかった。しかし、いつも突き落とされる。浮いた心は、必ず奈落を見る。
兄を、もう今までのような目で見ることは決してできないだろう。
芝居であってくれないか。
夢であってくれないか。
いや。
これが兄なのだ。ダークな部分を持つ、自分の兄なのだ。
次の朝起きたとき、明羅はもういなかった。
― ありがとう。世話になった。―
小さな紙切れに走り書きのメモを残して。
噛んだ唇は、肉の味がする。
(黙っていなくなることないじゃないか。)
お互いに気まずい思いをするなら、あんなことを言わなければよかったのだ。だが、言わずにはいられなかった。可八との結婚生活で抱えている重荷を吐き出さずにいられなかったのだ。
(もっと、優しくしてやればよかった。)
兄は兄だと言いながら、邪険にしてしまった。しかし、どうしようもない嫌悪感を抑え切れなかったのだ。
兄のいた形跡が一つもない。
兄は兄なのに。
ただ一人の、この間まで自分を育ててくれた兄なのに。