第27話
愛姫に看病してもらえるという贅沢な幸せを振り払うことは、今の瑞希にできる精一杯の意地だった。何も考えたくない重い頭を枕に埋め、瑞希は固く目を閉じた。
愛姫に風邪がうつってなどいないだろうか。
愛姫に苦しんで欲しくない。
(言うべきではなかった。どうあっても、やっぱり告げてはいけなかった。)
― ずっと一緒にいたいと思うのは、私も同じなのに ―
どう表現していいかわからないくらい嬉しかった。何の障害もなければ、そのままハッピーエンドだというのに、あまりの隔たりに未来を描くことさえできない。
罪を犯したために、一生「償い」は消えない。一生を愛姫に身も心も捧げる覚悟でありながら、「結婚」という選択肢はない。
ベッドに体を投げ出し、激しい呼吸に喘いだ。
愛している。
理由などない。愛姫の存在そのものに惹かれて、存在そのものを愛している。
ずっとそばにいて欲しい。だが、愛しているからこそさせられないこともある。
愛する資格などないのに、心を告げてしまったから罰があたったのではないか。
今、愛姫がどんなに悲しんでいるか、瑞希には想像できてはいない。二度と悲しませまいと誓いながら、その行動は愛姫を苦しめている。愛姫が瑞希を愛してしまった以上、瑞希の苦しみが愛姫の苦しみにもなることを理解さえしていない。瑞希は、いつか愛姫が心変わりをして、もっと誠実な男と結ばれると思っている。そのとき感じる苦しみこそ、自分が受けるべき罰だと思っている。それが、今まで真剣に女とつきあったことのない瑞希の考えの限界だった。
可八と明羅の結婚式を一週間後に控え、互いの家族同士による会食が開かれた。新宿のホテルのレストランの一室を借り切っている。
明羅と瑞希の叔母、美紗緒に初めて会った愛姫は、その上品さと若々しさに目を奪われた。独身貴族の精神科医と聞いていたが、なるほど、隙が無い大人の風格がある。
「可八さんからかねがねお噂は伺っていました。お会いできるのを楽しみにしていましたのよ。」
瑞希の叔母であるということが、愛姫を緊張させた。
「こちらこそ。お会いできて嬉しく思います。」
「二人の結婚のことでは、瑞希君があなたに随分ご無理を申し上げたとか。私からもお詫びしますわ。」
「いいえ、瑞希さんのおっしゃることは、よくわかりますから。私は気にしておりません。」
「・・・そう。」
どんなに盲目な恋をしても、相手によってはそれを引く冷静さ、冷酷さを持っている。
惹かれていても、その未来がないことを悟れば、自ずと見つめる先が違ってくるはずだ。
ずっと、そう思っていた。
だが、今の愛姫にそれを言いきる自信がない。
瑞希は、障害のない男ではない。
瑞希の過去を初めから知っていながら惹かれた。瑞希と過ちを犯しながら、惹かれた。思ってはいけない相手と言い聞かせていたのに、止まらなくなった。
もし、瑞希が殺人犯の息子なら、どうだろう。忘れられるか。これほどの思いを押し殺して生きていけるか。瑞希のどんな求めをも拒絶することができるか。
できるとは、言えない。
可八や明羅の気持ちが、瑞希との恋愛の中で、初めて実感できた。
ほどなくして、明羅と瑞希が一緒に部屋に入って来た。そして、最後が愛姫の父だった。
円卓のテーブルには明羅と可八が並び、その脇に親族が並んで座った。愛姫の父と美紗緒が並び、愛姫は瑞希と最も離れた位置に着いた。瑞希の視線は暗く、落としがちだ。
シャンパンの乾杯で始まった食事会は、式の話から世間話まで色々だったが、瑞希と愛姫が口を開くことは殆どなかった。促されて、返事をするぐらいだ。父は美紗緒が知的で美しいのが嬉しいように見え、それが愛姫の機嫌を損ねてもいた。
何を食べたのか覚えていない。
ただ、向かいの瑞希が相変わらず機械的な食べ方だったのが、切なかった。
食後のコーヒーが終わると、瑞希は意を決したように可八のところへ歩み寄った。
「少し、話がしたいんです。つきあっていただけませんか。」
突然の申し出に、可八は驚きのあまり声がでないようだった。隣の明羅を見て、瑞希は「兄貴が心配するようなことは絶対ないから。」と言った。
ホテルの一階にはカジュアルなカフェがある。瑞希は可八をつれて、そこへ入り、明羅と愛姫はロビーで二人を待つことになった。
明羅を想っていた頃はなかなか二人きりになれなかったのに、それを超えてからはこうしてたびたび機会がある。運命とは、こういうものだ。
「先日、弟は結局看病を断ったそうですね。」
「ええ。お役に立てなくて申し訳ありませんでした。」
「こちらこそ、大変失礼なことをして、すまないと思っています。すごくプライドが高い男なので、臥せっているところを他人に見られるのが嫌だったのではないかと思います。本当に、申し訳ありませんでした。」
同じようなことを、電話ではすでに話している。明羅の困惑が痛々しかったが、本当の理由は、瑞希も愛姫も口にはできない。
その頃、瑞希はティーラウンジで可八とテーブルを挟み、手をついていた。
「兄との結婚に先立ち、やはり、今までのことを謝らなければと思いました。」
そして、瑞希が頭を下げようとしたのを、可八は制した。
「瑞希さんが、謝る必要などありません。いいんです。どうぞ、私を憎んでください。大切なお兄様を奪ったふしだらな女だと思っていてください。」
「俺が、あなたを厳しく攻め立てたために、自殺しようとしたともきいています。そんな俺が許されるとは思っていません。」
「私が死のうと思ったのは一度きりではありませんし、ましてや瑞希さんのせいでは決してありません。私自身の問題です。それに、瑞希さんのおっしゃったことは正しいです。殺人犯の娘は、それらしく生きていかなければならない。罪を犯したなら、それを償う生き方を選ばなければならないんです。」
「しかし、あなた自身は罪を犯していない。」
「その血が問題だとおっしゃったのは瑞希さんです。私も、そう思っています。父の犯した業を、父亡き今は、私が背負うしかないんです。」
「お父様は、罪を悔いて・・・命を絶ったそうですね。」
「ええ。でも、それは罪の償いにはなりません。命が無くなったときが罪の終わりではないからです。」
「ご両親を失って一番被害を受けたのは藤木さん自身です。それを、」
「その償いを、誰もしてはくれません。父が私にすべきだったのかもしれませんが、生きていること自体が私の人生の障害になると思って死んでしまったのでしょうね。でも、それこそが父なりの私への償いだったのだと思います。ただ、償いとは被害者だけに行えばいいとは思わないんです。人としての罪だから、人として・・何というか、この世のすべてに、償うべきではないかと。」
「人としての、償い・・・?」
「偉そうな言い方ですけど、そんな風に思うようになりました。本当はずっと、被害者意識ばかり持っていたんです。でも、私を育ててくださった愛姫さんの方が、ずっと被害者です。私のせいで愛姫さんのお母さんは自殺してしまった。父の殺人がきっかけで、何の関係も無い方達まで不幸にしてしまった。罪深いことです。十分に、罪を償う立場にあります。」
瑞希は、可八の言葉で自分の罪を改めて思い返した。
罪のない子を殺してしまう引き金を引いた。一人の女性を傷つけてしまった。可八の言うとおり、愛姫だけでなく、人としての償いが科せられるだろう。
テーブルのコーヒーがゆっくりと冷めてゆく。だが、可八は伏せ目がちにソーサーの縁を指先でなぞるだけだった。
「こんな業を背負った私と結婚する人は、多かれ少なかれその影響を受けずにはいられません。だから、結婚なんてとんでもないと思っていました。幸せになんてなってはいけない、私の人生の重荷で相手に迷惑をかけてはいけないと。」
瑞希は息を詰め可八の言葉の続きを待った。今、自分が直面している問題を、可八はどう結論付けたのか。
「明羅さんが、一緒に罪を償っていこうとおっしゃって下さっても、それを受け入れることができないでいました。でも、自分を不幸せにすることが償いなのかと考えたとき、そうではない、と思ったんです。」
「・・・それで?」
「明羅さんと結婚することで、明羅さんが受けるダメージを凌ぐ幸せを私が作り出すことができたら・・・。つまり、明羅さんを私が命がけで幸せにすることができたら、何もしないより、ずっと償いといえるのではないかと。」
可八の瞳には、愛姫と同じ意思が宿っている。
「私は、どんなことをしてでも明羅さんを幸せにします。それができなかったら、私は死にます。」
「そんな!」
「それぐらいの覚悟を持っているということです。離婚なんていう傷を、明羅さんにつけたくありませんし。」
「・・・その覚悟、兄に言いましたか。」
「そんなこと・・・、言えません。重荷にしかならないですもの。ただ、瑞希さんにだけは言っておかないと。瑞希さんを、私は不幸にしてしまったのですから。それを、許されるとは思っていません。」
「それは、もう、いいですよ。」
「そうは行きません。私の父の罪、愛姫さんへの罪、そのお母様への罪、瑞希さんへの罪、私は生涯背負っていきます。それは、私の義務というより、私の生まれながらの人生そのものだからです。私は罪を償い、明羅さんを幸せにするために生まれてきたんです。私は幸せになるために生まれたのではありません。なのに、もう十分すぎるほどの幸せをもらってしまいました。愛姫さんに会えて、・・明羅さんと結婚できるなんて。」
「結婚してこその償い・・・。」
「ずるい言い方ですね。でも、愛姫さんを早く私から自由にしてあげたくもあって。本当は、もっと早く独り立ちすべきでした。でも愛姫さんと離れがたくて。本当に、感謝してもしきれないぐらい。ただ、愛姫さんは私では幸せになれないのです。愛姫さんが求めているのが、すべてを大きく受け止めてくれる男性だと、気付いたからです。」
瑞希は、息を呑んだ。
「私を求めてなどいないからです。それが、明羅さんとの、ちがいです。」
「例え罪を償う立場にあっても、求められればそれに応じてもいいということですか。」
「いいかどうかはわかりません。ただ、私は・・・そういう結論を出したというだけです。」
可八には、瑞希がなぜそんな質問をしたのかはわからないだろう。逆に、攻められているのではないかと思うかもしれない。
可八の言葉が、瑞希の心の霧を晴らすだけの説得力を持っているとはいえなかった。ただ、一抹の光を見たとは思った。
愛姫を幸せにしたいという気持ち。
可八の決意。相手に人生の半分を背負わせることの重さを乗り越えようという意思。それが容易でないことへの覚悟。
可八は切なく微笑んだ。
「瑞希さんには、恨んでいて欲しいんです。私が私の罪を忘れないように。いつも心にナイフを突きつけていられるように。明羅さんのそばにいられる幸せで、私の業を忘れないように。」
それは、瑞希も同じだ。
亡くした子をいつも心に留めておき、愛姫を貶めた自分を叱責するように、いつも見張っていて欲しい。
カフェを出ると、明羅と愛姫がロビーに立って迎えた。明羅は、可八ともう少し話をするからと言って、二人で去っていった。
気まずく残され、しかし、瑞希は言った。
「先日は、すみませんでした。」
「・・いえ・・・。」
看病を断って以来、今まで話をしていなかった。愛姫が唇を引き締めると、瑞希は頭を下げた。
「では、今日はこれで失礼します。」
愛姫の顔を見ることができなかった。
愛姫も、言葉が出なかった。
瑞希は、可八の言葉を何度も反芻しながら、地下鉄のホームへ向かった。
愛姫と生きていけるか。
可八ほどの覚悟をもてるか。
可八が瑞希を監視役とするなら、瑞希の監視は愛姫自身だ。その監視役と一生、生きていけるか。見つめるほどに思い出す罪に、自分を責め続けながら生きていけるか。
償いの相手と、本当にわだかまりなく生きていけるか。
それは、愛しているかという問いでは決して解決するものではない。もし愛姫が将来、そのことで自分を強く責める日が来ても、それを受け止めて尚共に生きていけるのか。
問題あるごとに思い出し、責めて、責められて、それでも共に生きていけるか。
地下鉄を降り、地上へ向かう階段の頂上から、夏の風が吹き下りた。前髪から頬へと拭われ、瑞希はその目を見開いた。
いける。
生きてゆく。
愛姫と。
苦しむだろう。
苦しませることもあるだろう。
だが、それを乗り越えたい。
愛姫と生きていくことで、より自分に厳しく、真剣に生きてゆける。
そう決意したとき、瑞希の足は自然と駆け出していた。弾む気持ちを、心の中に押し込めておくことができない。
兄の婚約者の保護者代わりという立場のままでしか愛姫と接していなかったら、こんな気持ちにはならなかった。
感謝している。
愛姫との出会いに。
不謹慎な言い方かもしれないが、流産した子どもこそが二人の仲人とも思える。
だが、人一人を犠牲にして結ばれることに価値があるのか?
それより、そんなことが許されるものなのか?
それは、罪ではないのか?
瑞希の足取りが、横断歩道の途中で緩んだ。
上を向いた気持ちが、また、下を向く。
愛し合ってさえいればいいなんて、子どもの言い訳だと怒鳴ったのは、自分ではなかったか。
兄の気持ちが、可八の気持ちが、今さら骨に染みる。
信号が変わり、車のクラクションが瑞希を急き立てた。
(彼女への気持ちは変わらない。でも、)
引き返すことはできない。ただ、前へ進むしかない。動き出す車に急き立てられるように、瑞希は再び走り出した。