第26話
わずかな雨の途切れをつかまえ、駅まで走って家へ帰った。
地下鉄の窓に映る自分の顔を見れない。瑞希は、時間が経てば絶つほど後悔しそうで怖かった。初めて女を愛し、それが成就したというのに、この切なさはどうだ。いっそ嫌われたほうがどれほど楽だったろう。心が熱くなるのと比例して、苦さが増していく。
瑞希は、愛姫の唇の手前でその手を引いた。
自分の誓いを忘れたのかと、叱責する声がどこかで聞こえたからだ。
愛姫だけは好きになってはならないと、知っていたはずではないのか。
だが、愛姫が自分を同じくらい思っていてくれるのなら、事情は違ってこないだろうか。
どれほど、抱きしめたいと思ったか。
あのまま一晩雨宿りをしていたら、絶対に二度目の過ちを犯してしまうと思った。
だから、後ろ髪引かれる思いで、その手を振り払ったのだ。
ずぶ濡れの状態でマンションに戻ると、玄関先には明羅が立っていた。
「こんな遅くまで、どこへ行っていた?」
疲れた声だ。可八との結婚が一筋縄にはいかないことでダメージを受けているのだろう。
「・・・兄貴が心配するようなことはしていないよ。」
明羅は瑞希の脇に立ち、少し口を閉じた。
「酒・・・飲んでいたわけではないんだな。」
「・・・。」
「そこまでする理由は何だ?」
明羅の目が鋭く光った。
「女の影がないのは、婚約を解消したからだとしても、食べるのも、眠るのも、今までと違うのはなぜだ?何がある?」
「別に。・・・兄貴は、自分のことだけ考えていろよ。島の暮らしは考えているほど甘くないぜ。十分な注意をしておいたほうがいい。明日下見だろ?早く寝ろよ。」
瑞希の肩を、明羅がつかんだ。
「自分を痛めつけなければならないことがあったのか?」
噛んだ唇が冷たい。額にへばりついた前髪が目に入りそうだったが、瑞希はそのまま明羅を凝視した。
例え兄が何といおうと、愛姫とのことを話せはしない。
甘い夢のような夜に熱くなった心を後悔せねばならない理由は、誰に話すわけにもいかない。
愛姫が、堕胎の事実を絶対に誰にも話さないように。
無言で明羅を振り払い、そのままシャワーをあびに浴室に入った。
熱く激しい水飛沫を全身に打ちつけ、瑞希は目を閉じた。
愛姫の指先を思い出す。
自分の腕に触れた部分が、まだその感触を覚えている。
初めて知った。触れたい女に触れたときの心の動きを。胸の奥からつきあげるこの感情を、表現する言葉など存在しない。
次の日の昼。島へ行く身支度がほぼ終わった可八のところへ明羅から電話がかかってきた。 リビングでぼんやりとジュースを飲んでいた愛姫は、可八の話をそばで聞きかじり、何となくその内容を察した。
「そういうことなら、仕方ありませんから、どうぞ、瑞希さんを・・・。」
そんな会話中の可八の肩をたたき、愛姫は軽く頷いた。可八は保留のボタンを押し、言った。
「瑞希さんがひどい熱で、自宅で絶対安静と診断されたそうです。叔母様にあたる方は海外に出張中で他に看病する人がいないので、今回の下見は延期しようと・・・。」
「でも、引越しの荷物は明日届くのでしょう?契約とかも済ますって言ってたわよね。」
「ええ、でも私だけでは多分話にならないし、契約はできませんから。」
「それで何とかなるものなの?」
「・・・。」
愛姫は軽く唇を噛み、少し躊躇はしたが、思い切って受話器を取った。
「橋田です。可八から事情は聞きました。私でよろしければ、瑞希さんの看病をさせてください。それで、明羅さんは可八と下見へ行ってください。」
『いや、それは・・・。』
「私では、駄目ですか。」
『とんでもない、そうではなく、こんなことを頼むなんて申し訳なくてできません。』
「なぜです?」
『橋田さんにお願いする義理がありません。』
「私が可八の身内同然とおっしゃるなら、明羅さんも瑞希さんも、私の親戚になるのではありませんか。叔母様がいらっしゃらないのでしたら、次は私の番です。」
まったく下心がないといえば、嘘になる。瑞希に会いたい。瑞希の苦しみを、少しでも癒したい。その思いが醜いといわれても、愛姫はそれを貫くつもりだ。
夕方。可八を迎えに来た明羅から、マンションの鍵を受け取った。
「ひとつ、伺いたいことがあります。」
明羅はそう言い、可八を部屋に残して愛姫を外のカフェに誘った。可八のいないところで話をしたいという。
注文したコーヒーが来るのを待たずに、明羅は話をきりだした。
「瑞希には、橋田さんが看病してくださることを話しておきました。でも・・・それを拒絶しました。」
胸の奥がちくりとした。瑞希の思惑がどんなものであろうと、拒絶という一言が痛い。
「ゆうべ、瑞希はかなり遅く、びしょ濡れで帰ってきました。しかも上着を着ずに。」
それはそうだ。上着は愛姫が持っている。
「可八と少し話をしました。橋田さんも、夕べ遅く、雨に打たれてお帰りになったそうですね。」
「・・・。」
「失礼を承知で伺いますが、もしかして、夕べ瑞希と一緒・・・でしたか。」
頷くべきか、笑い飛ばすべきか。脳裏では物凄い速さで思惑が計算される。だが、この僅かな沈黙はすでに肯定の証だ。
「兄としてお恥ずかしいことですが、瑞希は橋田さんのような女性にはとても薦められる男ではありません。」
「・・・私と瑞希さんは、そういう間柄ではありません。」
冷静な嘘が、口をついて出た。いや、夕べのことがまだ夢としか思えないからか。
「そう・・・ですか。」
明羅の戸惑いが感じられる。
「迷う時間はないはずです。どうぞ、お任せください。誰も頼れないのならともかく、今は私という親類がいるのですから。」
「もちろん、橋田さんが看病してくださるのは願ってもないことです。・・・お願いします。」
瑞希とは決定的に違う明羅の切れ長の目を正視しても、今は動揺しない。
まっすぐ向かったマンションは、考古学者だった両親の遺産というだけあって大したものだ。来るのは・・・二度目になる。
最新のシリンダーキーを差込んで、胸の奥が少し痛んだ。この家に初めてきた夜を、どうしても思い出すからだ。しかも、二度とも明羅のいないときに。
(でも、今日は看病なんだから、事情が事情なんだから。)
そう言い聞かせて、扉をあけた。
「・・・!」
瞬間、目にしたのは廊下に崩れるようにうずくまる瑞希の姿だった。瑞希の腫れた目が愛姫をとらえ、そして言った。
「このまま、・・・帰ってください。」
「・・・・・どうして・・。」
ゆっくり壁につかまって立ち上がった瑞希の腕が、愛姫の腕をつかんだ。
「この家に、あなたを入れられない。」
「でも、」
「俺は一人で大丈夫です。だから、」
そこまで言って激しく咳き込んだ隙に、愛姫は瑞希の肩を支えた。ヒーターのように熱い。手のひらが汗をかきそうだ。
「ベッドへ戻ってください。絶対安静は、一人では叶いませんよ。」
「駄目です。・・・何のためにここで待っていたと思う?あなたに、この廊下を踏ませたくないからだ。」
近くで見上げた瑞希の青い顔を見て、愛姫は瑞希が何を気にしているかわかった気がした。 瑞希が「犯した」と思っているその現場に愛姫を立たせたくないということだろう。明羅がいった「拒絶」は、そのための発言だったのだろうか。病人とは思えない力で、瑞希は愛姫を玄関に向かって押しやった。
「俺は、苦しくていい。このくらいで、何の償いにもならないだろうが、これでいい。一人でいいんですよ。」
「何かあったら私はどうすればいいんです?あなたが一人で倒れて、動けなくなっていたりしたら、」
「いいんですよ、それで。」
軽く咳き込んで、瑞希は愛姫に背を向けた。
「鍵を閉めたいので、早く帰ってください。」
瑞希の強い拒絶が愛姫の足をそれ以上進ませなかった。
仕方の無いことだろうか。だが、この非常時にそんなことで帰ってしまっていいのだろうか。だが、瑞希は問答することさえ辛いはずだ。それに、これ以上さからっても、決着はつかないだろう。
「・・・わかりました。帰ります。」
振り向かない瑞希の背が、力ない。
愛姫は目を伏せ、玄関を後にした。
扉の閉まる音を聞いた途端、突然涙がこぼれた。
瑞希が好きだ。
瑞希がどんな思いであれ、拒絶されたことが切ない。
自分の思いをきちんと伝えられなかったことが情けない。いつもそうだ。好かれようと思うほど、表現がうまくいかずに失敗する。
もし。
もし今再び扉が開かれたなら、瑞希の病気を忘れて抱きついてしまうかもしれない。
瑞希の思いを、一生自分がもらえるとは思っていない。ただ、瑞希が自分に負い目を感じている間は、意のままになるのだろう。
しかし、そんなことに何の価値もない。ただ、瑞希を苦しめるだけだ。
自分の欲望だけが満たされるという片天秤は、必ずいつか破壊する。