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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
25/34

第25話

 「転勤!?」

 それは、突然のことだった。

 可八との式を一カ月後に控えた五月。明羅は瑞希に、離島への転勤を告げた。

「それって、左遷・・?」

「そうじゃない。五年という期限付きだし、戻ってきたらそれなりの地位も与えられる。」

「だけど、島なんて・・・。」

「調度いいじゃないか。瑞希も他に住むところを探さなくていいんだし。」

「そういう問題じゃないよ。理由は?兄貴がどうして今の時期に、異動しなきゃならい?!」

 食いつくような瑞希に、明羅は冷静な目で、それをたしなめた。

「理由なんて関係ない。あるとすれば、俺が取材中に、取材対象に手を出したからだ。とにかく、俺は転勤する。可八を連れて。それだけだ。」

 瑞希は、震える唇を一度ひきしめ、聞きなおした。

「そのこと、藤木さんに言ったのか。」

「・・・言った。」

「・・・橋田さんには?」

「まだだ。だが、挨拶はしなければならないと思っている。可八の保護者代わりの人だからな。」

「藤木さん、島の暮らしをわかっているのか。」

「俺が、不自由な目にはあわせない。」

「・・・まあ、自分のせいだという自覚があれば、文句は言わないだろうけど?」

 その瞬間。

 瑞希の胸倉を明羅の手がつきあげた。

「そのセリフ・・・!可八に言ったら承知しないぞ・・・!」

 兄のこんな目を、初めて見た。それは、兄ではなく、男の目だった。

 瑞希には、わからない。これほどの犠牲を振りまいてまで一緒になる価値が、可八のどこにあるというのか。

 殺人犯の娘だ。

 例え瑞希に罪があっても、可八のそれは変わらない。瑞希は罪を背負おうと懸命だ。

 では、可八は?

 例え本人に直接の責任がなくても、明羅や瑞希、そして愛姫の苦しみをただ傍観していていいというのか?第一、可八は周りの不幸を知っているのか。

 明羅を左遷させ、瑞希の将来を奪い、そして愛姫を苦しませて。愛姫の苦しみは、瑞希自身のせいかもしれない。だが、すべての元凶は可八のはずだ。

 責めずにいられない。

 可八の存在自体がひきおこす不幸を、ただ見ているだけなんて、我慢ができない。

「あの女は、一人だけ、いつも安全な場所にいないか?今までは橋田さんに守られ、次は兄貴に守られ!それで彼女は何をした?何をしてくれているんだよ!周りを不幸にしているだけじゃないか!」

 明羅の手が、瑞希から離れた。

「瑞希のことは、悪いと思っている。」

「兄貴のことは?橋田さんのことは?」

「これ以上苦しめというのか?殺人犯の娘と罵られて生きてきて、ずっと日陰にいて、これ以上何を苦しめというんだ?俺たちは、少なくともそんな目にはあっていない。だったら、自分の苦しみは、自分で背負えばいい。自分で背負えるものは、自分で背負えばいいだろう?」

「不条理だ!何で俺たちまでとばっちりを受けなきゃならない!どうしてそれを、黙って耐えなきゃならない?俺の罪は、俺が償う。でも、他人の犯した罪まで、背負う義務はないはずだ!」

「可八だって、罪など犯していない。だが、ずっと重荷を背負ってきている。」

「殺人犯の娘だ!その血を受け継いでいる。だからその汚れた血を再発させないためにも、苦しんで当たり前だ!」

「いつもそう言う!血?そんなもの、橋田さんに育てられた可八には、もはや問題にならないものだ。」

「兄貴の記事・・・!橋田さんの家庭だって、見事に壊されている。橋田さんの母親なんか気が狂って自殺までしているんだぞ!それが罪ではないのか?関係ない俺だって!それは罪ではないのか?」

「じゃあ、可八にどうしろというんだ?」

「罪を感じているのなら、一人で生きていくべきなんだ。自分の罪で周りを不幸にしないうちに、他人に関わって生きていくことを諦めて一人でいろってことだよ!」

「瑞希!お前にはそんな冷たい心しかないのか?」

「当たり前だろう?仕事は首、婚約は解消、例えその辛さが癒えたって、失ったものは二度ととりかえせないんだからな!」

 マンションから飛び出した。

 少しでも明羅と顔をあわせたくなかった。明羅が一番つらいとわかっていて、言わずにいられなかった。言うまいと思っていたことを、口にしてしまった。

 可八の辛さや悲しみを直接知らないから、我慢ならないことを言ってしまえたのかもしれない。しかし、わかっていたとはいえ、兄までもその火の粉をかぶるとは。

わかっていたこととはいえ、やはり納得などできない。

 時計を見ると、まだ八時すぎだった。

 行く当てもない瑞希は、何となしに地下鉄に乗り、内幸町で降りていた。

 もういるわけがないと思いながら、愛姫の事務所の前まで来ていた。

 瑞希には、友達がいない。

 同僚とも仕事を首になったらそれきりだし、兄がいなければ、話し相手もいない。

 ビルの七階には、まだ明かりがついていた。

 あの光の奥に、愛姫はまだいるのかもしれない。そう思って、電柱に体を預けて、待つことにした。別にいなくてもいい。あの明かりが消えて、それでも愛姫がでてこなければ、それまでのことだ。

 愛姫に会ってどうしようというわけではない。ただ、行くあてが他にないだけ・・。

 愛姫は、まだ働いていた。雑用が積もってどうしようもなくなっていたからだ。他の所員も、ちらほら残っている。

 と、何となしにビルの外を眺めた経理の若い女性が、声をあげた。

「あの人、ずっとこっち見てるわ。」

「え?」

別の女性が同じように外の様子を伺っているようだ。愛姫は、書類をファイルにとじるための穴を空けながら、(変質者か?)と思いながらその会話を聞いていた。

「ね?十五分くらい前もああしていたのよ。」

「うちの事務所に恨みがある人じゃないでしょうね?」

「さあ。・・・でも、すごいハンサムじゃない?」

「・・・本当だ。」

 愛姫は、その声に、自分もデスクから外の様子を見やった。

(瑞希さん・・・!)

 驚いて机のものがいくつか床に散らばった。

「ねえ、あと少ししてまだいるようだったら、一応警察に電話しようか。」

「そうね、職務質問くらいしてもらったほうがいいわよね。」

 その言葉にあわてたのは愛姫だった。瑞希が何のつもりでここに来ているのかは知らない。だが、怪しまれて警察になどつれては行かせられない。

 愛姫はあわてて残りの仕事をかばんに詰め、事務所から駆け出した。

 ビルの狭い自動ドアを抜けると、瑞希の姿が鮮明に見えた。

 瑞希がそれに気付き、頭を下げるやいなや、愛姫はその腕を力いっぱいつかんで、事務所前の通りから瑞希を引っ張り出した。事務所の彼女たちが見たら、完全に怪しまれるだろうが、警察に通報されるより何十倍もましだ。

 大通りに出て、愛姫は初めて瑞希をきちんと見た。

「瑞希さん、あんなところでずっと事務所を見上げていたら、怪しまれます。警察に通報されるところだったんですよ?」

 愛姫の突然の不可解な行動をやっと理解できて、瑞希は苦笑した。

「そうでしたか。確かに怪しいですよね。」

「・・・どう、なさったんです?」

 改めて、瑞希を意識する。そう、思いがけず瑞希に会えた。あんなに会いたかった瑞希に。 瑞希の目が、切なく微笑んだ。

「すみません。兄と、喧嘩をしまして。」

「明羅さんと?原因は、可八のことですね。」

「まあ。」

「すみません。いつまでも、・・・解決はしませんね。」

「橋田さんに謝ってもらおうと思ってきたんじゃないんです。ただ、・・・ほかに、いく当てもなくて。俺、こういうとき頼りにする友人もいないんです。」

 瑞希の悲しい本音に、愛姫は優しく同調した。

「・・私もそうです。でも、私は自分が悪いんです。他人をあざけったり、蔑ろにばかりしてきたから。」

「・・・俺も、そうですよ。学校を卒業して気付きました。本当のつきあいをした友人は、いなかったことに。自分がどんなに身勝手に他人とつきあっていたかどうか。」

「わかります。私も、そうでした。気付いてから、初めて自分から年賀状や手紙を書いてみたりして。」

「そう、そうなんです。」

 瑞希の表情が和らぎ、愛姫はほっとした。瑞希が思いつめた表情でいたのは初めて見たときにわかっている。

「ノンアルコールのカクテルなら、つきあっていただけますか。」

「・・もちろんです。」

 新橋の高級ホテルのバーは、弁護士という肩書きのある愛姫にでさえ敷居が高い。しかし、瑞希という相手がいれば、堂々と入ることができる。

 二歩前を歩くスーツの肩のラインがきれいすぎる。こうして見上げる先があることに、感謝する。

 テーブル席に座り、瑞希はシンデレラを二つ注文した。瑞希は、まだアルコールを絶っているのか。

「別にカフェでもよかったんですけど、・・・今日は、バーの気分だったんです。」

「私も、バーの雰囲気は好きです。初めからアルコールは苦手でしたけど、何度か友人と来たことがありますから。」

「そうでしたか。意外ですね。」

「そうですか?けっこう不良なんですよ。」

「それが本当なら、安心します。橋田さんは、どこか遠い人のような気がするから。」

 フルーツの香りが漂うフルートグラスが二つ、漆塗りのテーブルに置かれた。重いグラスの透明なふちに、唇をつける。

「何ていうのか・・・。天上の人が、地上に降りてきたような。」

 愛姫はクスリと笑った。

「面白いことをおっしゃるのね。」

「でも、ぴったりの表現だと思いますよ。」

「私は、特別なものなど何一つ持っていません。平凡で、色々と中途半端な人間です。」

「それは・・・謙遜ですよ。」

 愛姫は再び首を振り、再びグラスに口をつけた。瑞希は明羅が言ったとおり、アルコールを口にしない。それは、今だけのことでないのだろう。

 と、そのときだった。

「瑞希?」

艶やかな女の声が後ろから聞こえてきた。

 瑞希の視線の先に、黒いサテンのドレスの美女がいた。

 その後ろには若いホストのような軽いみかけの男がいる。

 瑞希の眉間があきらかにゆがんだ。

「久しぶりね。こんなところで会うなんて。」

女は、これ見よがしに愛姫を舐めるように見下ろし、そして鼻の先で笑った。

「ずいぶん素敵な趣味になったものね。」

それが褒め言葉でないことくらい、愛姫にもわかる。瑞希の目が、怖いくらいに釣りあがった。

「そんな下らない男をひきつれてる女に言われたくない。」

「別れた女には非情っていうの、本当なのね。結婚しても女を利用しつくす男だとは思っていたけど。」

「・・・これ以上口を利く気はない。早くどこかへ行けよ。」

 低い、暗い声だった。

 女は再び愛姫を見下し、腕組みをして去っていった。何かきつい香りが残る。これが高級香水というものの匂いなのか。

「すみません・・・。」

瑞希はうつむき加減で宙をにらみつけている。

 愛姫は、瑞希がどんな女性とつきあっていたのかを思い知った。自分にはないものを持っている女性がいる。彩られた爪先や、いろいろなものに縁取られた作られた顔や、一日でつま先がどうにかなりそうな靴。美しい人は確実に存在し、瑞希はそういう女性とばかりつきあってきたのだ。自分のような地味な女など、女のうちに入らないのかもしれない。

 だから、あんなに無防備に自分を抱けたのだ。女じゃないから。平気で。

「本当に、すみません。あんな女とでも付き合えた自分を、今は心のそこから軽蔑しているんです。橋田さんにも、・・・侮辱されても仕方ないと思います。」

「・・そんな風には思いません。とても、綺麗な方でしたわ。こういう場所がよく似合う・・・。同じ人間で生まれてきたのに、こんなにも差があるものなのですね。でも、瑞希さんはああいうゴージャスな女性でも釣り合いがとれますわね。」

「・・・そうですね。俺には、ああいう見てくればかり磨いて満足してる安っぽい女が似合うでしょうね。」

「いえ、そうではなくて、」

 瑞希は、あんな女とつきあっていたことを愛姫に知られたことがたまらなく恥ずかしかった。だが、それを愛姫が知る由も無い。

 過去を思い、後悔するたびに思う。どんなに愛姫に近づきたいと思っているか。どんなに愛姫に相応しくなりたいと思っているか。

 軟派な男だと思われたくない。いい加減な男だと思われたくない。信頼できない男だと思われたくない。

 例え一生報われない想いだとしても。

「瑞希さんなら、どんな女性でも振り向かせられないということはないのでしょうね。それは、とてもうらやましいことです。」

「そうでしょうか。」

「だって、私のように一生一人かもしれないなんてことを恐れて生きてきる人間もいるんですよ?」

 瑞希は唇を噛んだ。

「あなたのような人を選ばない、兄貴のような男こそ愚かだと思いますよ。」

「可八は、私のように人を蔑んだりしませんから。守ってあげたくなるような直向さも持っているし。」

「俺には、そんなものどうでもいいことですけどね。」

「・・・そうですわね。」

 それは、どういう意味なのか。

 利用価値やお金で女を選んでいた瑞希には、やはり性格の是非など関係ないのだろうという意味だったのか。

 瑞希が言いたかったのは、人を蔑まないとか直向さとかそんなものがあろうとなかろうと、愛姫を好きである以上、どうでもいいことだということなのに。

 グラスの中が空になった。

 瑞希は黙って席を立ち、ホテルから外に出た。愛姫が、その後をついてくる。

 気まずい雰囲気だった。

 告げなければこのままだと思った。誤解されたままいたら、これっきりかもしれないと思う。今の愛姫には、瑞希の気持ちなど少しも伝わっていない。

 では、告げればいいのか。

 あんな目にあわせておきながら、図々しくも愛しているなどといえばいいのか。

 「おうちへ、帰れそうですか。」

 そうだ、兄と喧嘩をして飛び出してきたことを忘れていた。時計は十時を回っている。

「もう少し、兄が眠るまでは街を彷徨います。すみませんでした、こんなことで付き合わせてしまって。」

「そんな。バーなんて久しぶりでいい夜をすごさせていただきました。」

「あんな不愉快な思いをさせてしまったんです。そんなふうに言っていただく資格はありません。」

「わたしは、気にしていません。」

 瑞希は愛姫の瞳をのぞきこむように見た。それは、どういう意味なのか。瑞希に興味のない愛姫には、どんな女が現れようと、関係ないということなのか。

 せっかく誘い出したのに、愛姫に好かれるようなことが何一つできなかった。逆に、嫌われるようなことをしたのではないか。

「あの、」

瑞希は、もう少しチャンスが欲しいと思った。この時間を、もう少し引き延ばしたかった。愛姫と、もう少し一緒にいたいと思った。

「もし時間が許すのなら、・・・もう少し、一緒にいていただけませんか。」

 愛姫は、どきりとして、唇を開いた。瑞希がどういうつもりでそんなことを言うのかわからない。しかし、それは嬉しい誘いだ。愛姫のただひとつの切ない願い。それが良い方向へ回りだしていないだろうか。

 二人は、この間の夜と同じように、皇居のお堀沿いの歩道をゆっくりと歩き出した。

 瑞希は、話をきりだした。

「兄が転勤すること、ご存知ですか。」

 愛姫は、驚いて瑞希の横顔を見つめた。

「いいえ。・・・まったく。」

「離島です。藤木さんとの結婚と同時に。」

「では、一ヶ月後に?」

「そうです。」

愛姫は、眉根を寄せた。

「可八の・・・せいですね。左遷ですね。」

「兄は、そのことを藤木さんに知らせたら承知しないとすごまれました。」

「それで・・・喧嘩を?」

「ええ・・・。」

 橋の欄干がどうしてもちょうどいい。歩きながら話せないことがある。

「言うつもりのないことまで、言ってしまったから。」

「可八と結婚する以上、逃れられないとは思っていました。私がそれを申し上げたとき、明羅さんはきっぱりおっしゃった。それは、障害ではないと。」

 欄干に両肘をついた瑞希が、愛姫を見下ろした。

「覚悟を、とっくに決めていらっしゃると思って、もう、何もいえなくなりました。」

「・・・でしょうね。俺も、何度も何度も言いました。でも、それをものともしなかった。」

 水面に街灯の白い光が反射して揺れている。

「俺の罪を思えば、藤木さんには何も言えないと思っていたんです。でも、実際はそうもいかなかった。俺の罪は、俺が背負います。でも、藤木さんのことで、兄が業を背負わねばならないのは許せない。橋田さんが苦しむのも、俺が苦しむのも、許せない。俺には、藤木さんがわからないから、藤木さんが一人、いつも守られているような気しかしない。今まではずっと橋田さんが背負い、そしてこれからは兄が背負う。藤木さんは、何も背負っていないのではないか・・・。そう思うと、言わずにいられなかった。」

「母が死んだとき、私は可八を一生許さないと思いました。可八に罪はないと知りながら、そうせずにはいられなかった。可八を一人の人間と認めるようになったのは、つい最近のことです。理屈では、ないんです。頭でわかっていても、仕方のないことがあります。瑞希さんが悪いことはありません。」

「橋田さんは大人だ。俺のことだって、どうして許してくれるのか、わからない。」

 愛姫は、瑞希を見る目をゆっくりとそらせた。

「私は、ものわかりのいい大人ではないですよ。」

「兄と藤木さんのことだって、・・・どんなに心を痛められたか、想像できます。なのにあなたは、それを許すという。」

「人の感情は、理性でコントロールしきれるものではありません。明羅さんのあれほどの強い思いを、どうして認められないでしょう?私には、入り込む隙などまったくなかったのですから。」

「でも、俺は・・・。」

「瑞希さんは家族ですもの。そうそう認められないのは当たり前です。現に色々火の粉をかぶっていらっしゃるし。私が可八の肉親代わりというのなら、私も瑞希さんに償いをしなければならない立場にあります。」

「俺は、橋田さんに何かしてもらおうなんて、思っていません。第一、俺にそんなこと思う資格はない。」

「瑞希さんなら、また新しい幸せや成功をご自分の手でつかまえられると思っています。でも、可八がその障害になることが、今後またあるかもしれない。そのとき私に何ができるのかといわれれば、・・・ないのかもしれませんが。」

「何もしなくていいんですよ。」

「でも、また大事な縁談を壊してしまうかもしれない。」

「・・・それは、ないですよ。」

「どうして・・・?」

愛姫の大きな瞳が、瑞希の心を飲み込みそうだった。

 告げてしまおうか。

 このまま一生、誓いどおり、一人でいるか。

「結婚は・・・しませんから。」

「そんな寂しいことをおっしゃらないで。私のことは、気になさらないでください。いいんです、瑞希さんは、瑞希さんの幸せをみつけてくだされば。」

「俺の幸せは、叶わないというより、かなえられてはいけないものです。」

「先日も、瑞希さんはそうおっしゃった。そんなに、幸せを捨てねばなりませんか。」

 じれったい。

 愛姫が自分の気持ちを知れば、もう何も言えなくなるだろうか。

 だが、それはどうしようもないほどの禁句ではないか。

 愛姫が言ってくれたら。

 自分を、こんな自分でも、思いをかけてくれると言ってくれたなら。

 多分、もう、迷わない。

 しかし、愛姫が自分を拒絶したら、こんなふうにあうことさえ叶わなくなる。そして、一生後悔を飲み続けることになる。その余波は、愛姫にも及ぶだろう。

 と、アスファルトが水に濡れた独特の匂いが鼻をついた。雨が降るサインだ。

 帰ろうと思うより早く、大粒の雨粒がばらばらと落ちてきた。壕沿いの柳の細い枝では、雨を防げそうに無い。

 瑞希は素早く上着を脱ぐと、愛姫の頭にかぶせた。

「無いよりはましでしょう?さあ!」

 もう額から雨がしたたってきている。

 激しい初夏の雨だ。

 瑞希に腕を引かれ、愛姫はパンプスの中で水音をたてて走った。通り雨ならいいが、こんなに大雨では瑞希のスーツも、シャツも、駄目になってしまう。いつもは空車の光を連ねているタクシーも、こんな時には陰もない。

 お堀沿いの人気の無い整然とした歩道をただひた走る。大通りの向かい側ならオフィスの影に身を寄せることもできるが、次の信号まではだいぶある。道がまっすぐな上、深夜のためか、実際より長い距離に思える。服が肌にはりついてしまっている。大通りを走る車の水飛沫が、時折足元にかかる。とりあえず雨宿りをするために、橋桁の屋根つきの見張り台に身を隠した。

 全身ここまで濡れてしまっては、どうにもならない。瑞希の上着も、水を吸って重くなってしまっている。愛姫の革鞄の中の薄っぺらいハンカチでは、顔を拭うので精一杯だ。

 しかし、ないよりはましと、愛姫は瑞希にそれを差し出した。

「どうぞ、よろしければ、お顔だけでも拭ってください。」

 瑞希は、濡れた前髪を振った。

「いえ、橋田さんがつかってください。」

「私は、瑞希さんのスーツをお借りしたので、大丈夫ですから。お嫌で・・なければ。」

「嫌だなんて、そんな・・・。」

 薄桃色のハンカチを受け取り、瑞希は額と、頬だけを軽く押さえた。

 愛姫のスーツの上着は、原型のハリを失い、体にへばりついている。瑞希は、濡れた髪が化粧の落ちた頬に張り付いている愛姫に、今までに見たことの無い色気を感じた。昼間の雰囲気とはまるで違う、野生的な眼に魅かれる。

 綺麗だと思う。

 誰が何といおうと、愛姫は美人だ。

 こんな姿を見せられては、理性を失いそうになる。このままその濡れた体を思い切り抱きしめたくなる。

 そして、愛姫も。

 髪が濡れたことで瑞希の輪郭がさらに凛々しく際立つ。瑞希の白いシャツからは肌が透けている。どきどきする。月並みな表現だが、どうしても、それがぴったりくる。ひきしまった肩から腕の筋肉に、本能的な魅力を感じずにいられない。

 十一時三十分をすぎている。

 そろそろ駅に向かわないと、電車に乗れなくなる。

 しかし。

 瑞希は、このままでいたいと思った。一晩、こうして雨がやむのを待ってもいい。

 愛姫も、いつまでも瑞希とこうしていてもいいと思った。そろそろ帰らなければとわかっていても、動こうと思えない。

 こうしていたい。一生。

 瑞希といたい。

 愛姫といたい。

 帰ろうと、言い出せない。

 寒くなってきた。だが、この時間が終わってしまうのは惜しくてたまらない。

 愛姫に伝わるだろうか。

 瑞希に伝わるだろうか。

 この思いが。

 と、そのときだった。

 沈黙を破るように、携帯電話の着信音が鳴り響いた。

 それは、瑞希のものだった。

 だが、瑞希はそれをとろうとしない。

 思わず、愛姫は瑞希に言っていた。

「電話・・・、よろしいんですか。」

「・・・ええ。」

「明羅さんからかもしれないから・・ですか。」

「・・・いいえ。」

はっきりいわなければ、一生愛姫にはわからないだろう。わかってはいけないのだと言い聞かせている。だが、このまま一生耐えることなどできるだろうか。それが罪の償いだとしても、・・・いや、それが償いといえるのか。

 よくわからない。

 この状況で、もう、平静を保てなくなっている。理論的になど考えられない。

 長い呼び出し音が消えた。

 瑞希は、愛姫をまっすぐに見つめた。

 愛姫は、その眼差しに心を射られるようで、おもわず目をそらせた。

「あなたと、こうしていたいんです。」

「・・・。」

「一生でも、このままでいたいから。」

 愛姫の身体が、震えた。

 何と返せばいいのだろう。

 瑞希の言葉を、鵜呑みにしてもいいのだろうか。第一、これは、夢ではないのだろうか。

 黙っていたら、拒絶だと思われてしまう。

 そうではない。愛姫も、瑞希と、ずっとこうしていたい。

 だが、声が出ない。無理に息を吐き出しても、奇声しかあがらない気がする。

 瑞希は、後悔した。

 やはり、いうべきではなかった。

 こんなに気まずい雰囲気になるのを、予想できないわけではなかっただろうに。

 しかし、わかって欲しかった。

 他の女と幸せになれなどと、言って欲しくなかった。こんなにも愛姫を思っていることを、わかって欲しかった。

 その甘えが、愛姫を苦しめると知っていたのに。

 瑞希は、唇の端を噛み締めた。

「すみませんでした。答えは、わかっているのでいりません。あなたをあれほどの目にあわせておきながら、図々しいとは思っています。でも、わかって欲しかった。俺は、一生誰とも結婚するともりはないし、そういう幸せを求めるつもりもありません。償いという言葉をあなたが嫌うのなら、その理由は、ただ、俺が好きなのがあなただからです。あなただけは、好きになってはいけないと知りながら・・・ただ・・・。」

 愛姫も自分を思ってくれているかもしれないという奢りがあったから、言ってしまったのだろう。しかし、もう、どうしていいかわからない。

 遠くで、雷が鳴っている。

 雨は、とても止みそうにない。

 愛姫は、ゆっくりと深く息を吸い、瑞希の濡れた上着を握り締め、言った。

「どうして、・・・答えがわかっているなんておっしゃるんですか。」

「俺は、あなたに好かれるようなことを何もできていないから。逆に、嫌われるようなことだけ、している。」

「私だって、瑞希さんに好かれるようなことを何もしていない。でも、私には瑞希さんを嫌う理由はありません。あったら、こうして、一緒にいようなどと思いません。」

「嫌われていないのは、最高の救いです。それで、十分です。」

「どうして、そんなふうに一人で納得してしまうんです?」

 車さえ通らなくなった、何斜線もの大通りぞいの夜のオフィス街には、もう、雨が打つ音しか聞こえない。

「こうしていたいのは、・・・一生、こうしていられたらと思うのは、私も同じなのに・・・!」

 手が震えているのは、寒さからだろうか。それとも、この幸せを全身が感じているからなのだろうか。

 あの夜を、始まりとしてもいいのだろうか。

 亡くした子どもを二人そろって想い生きていってもいいのだろうか。

 雨の音が、熱情を呼び覚ます。

 瑞希のシャツに透けた肌が愛姫の身体の奥を熱くする。

 愛姫の濡れた黒髪が瑞希を駆り立てる。

 禁区を越えてもいい。

 どんな罰を受けてもいい。

 例え今、雷に打たれたとしても、後悔はしない。

 瑞希の腕が愛姫の髪に伸び、愛姫の手が瑞希の引き締まった腕に触れた。

 目を閉じれば、霧に溶けてしまいそうな夜だった。


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