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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
24/34

第24話

 それは、瑞希も同じだった。何故三人分のセッティングがされているのかと思ったが、どうせ可八が来るのだろうと思って、沈んだ気分で待っていたのだ。

 ところが。

「初めての顔合わせだろう?橋田さんを、きちんと引き合わせたことがなかったものな。」

 愛姫の体は硬直した。どう座っても丸テーブルでは瑞希の隣になる。どう挨拶したらいいのか。薔薇のことを、明羅は知るまい・・。

「お体の方は、もうよろしいのですか。」

 そう声をかけてきた左隣の瑞希を、正視できない。こんなに突然に、会いたい人に会わされても、どうしていいかわからない。こんな服で良かったか、アクセサリーはこれでよかったのか、口紅はとれていないか、そんなことばかり気になる。化粧をとった入院姿を、すでに見られているのだから、今更という感じもする。第一、変だ。あんなに好きだった明羅といる間には、こんなに見てくれを意識していなかったというのに。

「もう、大丈夫です。その節は、・・・お世話になりました。」

 瑞希には、愛姫が自分を避けているようにしか思えなかった。愛姫に対し、自分はひどいことしかしていない。たかだか一週間お見舞いにいったくらいで許されるものではないし、一生、背負うべき罪を忘れてはいない。

 愛姫は、そっと瑞希を見つめた。

 横顔のラインが、切ないくらい整っている。

「少し、お痩せになったのではありませんか。」

愛姫の言葉に反応したのは明羅だった。

「そうなんです。瑞希は、あまり食べなくなったんですよ。お酒もやめてしまったし。」

愛姫ははっとした。だが、瑞希は軽く笑って見せた。

「俺も年だから。少し好みが変わっただけだよ。」

「そうなのか?精神的な問題とかでは・・?」

「俺はそんなデリケートな柄じゃないよ。気にしないでくれ。」

 愛姫は、入院中に瑞希が繰り返し言った言葉を思い出した。

― 一生、罪を背負って生きていきます。できる限りの節制をし、少しでも償えるように生きていきます ―

(それを・・・。)

 努めて明るく振舞う瑞希の様子が、怪しいと思った。愛姫は、自分が毎日思い出すことが、子どものことより瑞希自身のことだったと思うと、身を摘まされるような心持がした。

自分を責める気持ちを、失っている。瑞希の存在があまりにも自分の重荷を軽くしてくれたから、それで楽になりすぎているのだろう。

 明羅は軽い気持ちで二人を会わせたのかもしれない。だが、愛姫にとってはあまりに重い再会だった。瑞希に対して、申し訳ない気持ちが募る。

 明羅のリードで会話は続く。しかし、どんなに時間が経っても、瞳で少し微笑むのが精一杯だ。そして、瑞希を少しずつしか見ることができない。まともに目を合わせることは到底できそうもない。せっかくのフルコースの味も、全然わからない。

 メインが終わりに近づく頃、突然明羅がテーブルの下に目をやった。

 瑞希との空白をグラスの水を口に含み、ごまかす。が、明羅はそのまま席をたってしまった。

「すみません、橋田さん。すぐ社へ戻らなければならなくなりました。こちらからお誘いしておいて申し訳ないのですが、これで失礼させていただきます。」

 突然のことで何とも言えずにいると、明羅は瑞希に二、三耳打ちして足早に去っていった。

 瑞希と二人きりでは困惑する。どきどきする。何を話せばいいのか。話したいことはある。だが、この場で話すようなことではない。

「橋田さん。」

はっと顔をあげると、目の前にはいつの間にかデザートの皿がきている。

「兄の分、召し上がりませんか。」

愛姫は軽く首を振った。

「私はもう、十分ですから。瑞希さん、どうぞ。」

「いえ、俺は・・・。」

「ずっと、そうしていらしたんですか。」

愛姫の目が、明羅の前では見せなかった陰りをみせた。瑞希は、唇をひきしめた。

「私は、普通でした。不謹慎なほど、普通に生活してしまっていました。今日瑞希さんにお会いして、それを痛感しました。」

「普通でいいんですよ。あなたがこれ以上苦しむことはない。俺は苦しまねばならない。そのためには、自分で傷を刻み付けるしかないんです。」

「私は、瑞希さんが毎日お見舞いにいらしてくださって、自分でも不思議なくらい気持ちが楽になっていました。それは、瑞希さんが必要以上に苦しんでくださったからだと思っています。ですから、もう、ご自分を痛めつけないで下さい。」

「そんなことはできません。橋田さんは、今普通でも、たびたび思い出して苦い汁を飲むはずです。その限りは、俺も、忘れない。」

「ご自分の幸せを、すべて捨てるなんてことはありませんね?」

「捨てていますよ。捨てます。」

愛姫は眉をひそめた。

「一生、ですか。」

「もちろんです。」

「そんなこと、やめてください。お願いですから、やめて。」

「俺自身の問題ですから。俺の今までを反省するためにも、やめられません。」

 瑞希はそう言ってデザートのシャンパンゼリーを無造作に口に入れた。機械的な動作が、食事を無機質なものにしている。

 ずっと、そうだったのか。

 ずっと。

 苦しむために生きているのか。

 苦しむための肉体をつくるために、食事をするのか。

 瑞希は、自分がこれからどういう人生を歩むべきかと考えたとき、絶対に愛姫を好きになることだけはできないことだと確信していた。何があろうと、好きになる資格がないどころか、許されないことだと思う。愛姫を前にしてこんなに緊張するのは、意識しているからだ。だが、その「意識」の向いている先に気付きたくない。

 もう、こんなにも愛してしまっているなどと、気付いてはならない。

 店を出ると、春らしい暖かな風が頬を通り過ぎた。有楽町まで、無言で歩き出す。瑞希の少し後ろを、愛姫は付かず離れずついていく。九時すぎの銀座は、もう落ち着いている。駅が近づき、居酒屋周辺のにぎやかな通りにさしかかった。そこで愛姫は、瑞希に言った。普段なら言えないことだったが、今は別だ。

「瑞希さん。」

振り向いた瑞希を、見上げる。

「もう少し、お付き合いいただけませんか。」

「・・・いいですよ。」

皇居のお堀沿いの大通りは人通りがほとんどない。二人はゆっくりと東京駅方面へ歩き出した。水面に揺れる街灯の明かりと車のライト、そして信号の緑がこんなに鮮やかに闇夜に映える。

「さっきの、続きですか。」

瑞希の言葉に、頷く。

「私、今日瑞希さんをみて、自分を恥ずかしく思いました。平気な顔して生きていた自分を、許せなくなりました。」

「でも、あなたの心が癒えたとは思えませんよ。」

「いいえ。私、自分が思っていた以上にいい加減な人間だったんです。図太い神経でいたんです。瑞希さんを巻き込んで、大騒ぎするほどのことなんてなかったんです。」

 時折、皇居へ向かう橋がある。その一つにさしかかり、瑞希は欄干にひじをかけた。

「俺は、もしあの時あなたが冷静で、堕ろして当たり前のような顔をしていたら、とっくに見放していましたよ。見舞いなんて一度きりだっただろうし、自分を苦しめようなんて思わなかったはずです。」

「だったら、そうしていればよかった。やっぱり、あなたに気付かれないうちに堕ろしていればよかった。そうすれば、瑞希さんをいたずらに苦しめることなんてなかったんですから!」

 瑞希は、静かに愛姫を見下ろした。

「ためらい・・・ましたか。」

「・・・いいえ、怖かっただけだと思います。色々思うところはありました。妊娠なんて、私の人生で今限りだと思いました。他人に知られるのを恐れて・・・。ただの一度きりです。入院して目が覚めたとき。もし、まだ子どもが生きていたら、もう、殺せないと思った・・・その、一度だけです、産もうと思ったのは。結局、自分が可愛かっただけです。こんな女ですから、・・・見捨ててください。」

「本当の『こんな女』は、そういうこと言わないですよ。」

「嫌なんです、瑞希さんが不幸になるのなんて。せっかく生きているのに、進んで不幸になるなんて。」

「俺の罪は深い。あなたが知らないこともある。その付けを、全部あなたに負わせてしまったことが許せない。」

「私は、もう立ち直っています。それは、瑞希さんのおかげです。瑞希さんが、一杯背負ってくださったから。」

「俺は、何もしてあげられていませんよ。」

「毎日、病院にいらしてくださった。私、本当に嬉しかったんです。一人部屋にしてくださったのも、毎日買ってきてくださるお菓子も、薔薇の花束も、・・・瑞希さんは、私が欲しいものばかり下さった。どうして私が欲しいものばかりくれるのかって思うくらい。」

「・・・そんなことぐらいで、いいわけがない。」

「そんなことぐらいではありません。あの夜でさえ、私がずっと欲しかったものですもの!」

「そんなふうに、」

「そう思っています!だから、瑞希さんは私の望みをかなえただけですから。だから、また、幸せを見つけてください。そのために私ができることがあれば、何でもします。」

 瑞希は、車のテールランプに照らされた愛姫の頬が濡れているのに気付いた。

「あなたを痛めつけた俺が、どうして幸せになれますか?」

「私は幸せです。だから、瑞希さんも幸せになってもいいでしょう?そんな痩せた姿になるほど苦しんでるなんて、悲しすぎる。私なんかが何を言っても駄目でしょうけど、私では何の役にもたたないでしょうけど、そんなに、ご自分を痛めつけないで・・・!」

崩れるようにうなだれた愛姫に、何と言えばいいのかわからず、瑞希は唇を噛んだ。これ以上は、ただの堂々巡りになるのがわかる。

 こんな形で愛姫を苦しめる気はなかった。これでは愛姫が入院していたときと立場が逆だ。愛姫のことを想うと、食事をする気になれなかった。愛姫が入院していたときは愛姫を元気付けることで一生懸命になっていたが、それが過ぎて、初めて自分を見つめなおすことになった。

 今までの自分の人生が、胸を張れないようなものだと痛感した。愛姫が兄を好きだということを思い出すと、その差を歴然と見せ付けられた気さえする。そのいい加減な自分を、労わるようなせりふを言わないで欲しい。愛姫は、自分のことを知らなさすぎる。だから、やさしいことを言えるのだ。

「俺は、橋田さんにそんな風に言ってもらう資格、ないですよ。」

「資格があるないの問題ではありません。」

「橋田さんが軽蔑してやまない種類の男です。女を出世の道具としか思っていないし、平気で捨てるし、平気で抱いてた。女なんて、物さえ与えておけばいくらでも言いなりになると思って馬鹿にしていた。結婚だって、ステイタスの一部くらいにしか考えていなかった。それを壊されたからといって、本当は兄を責めることなんて、初めからできなかったんですよ。ただ、変な意味では努力していたから、それを台無しにされたことが悔しかっただけだったんです。それこそ、あなたに慰めてもらうほどの痛みなんて感じちゃいけないようなもんだったんです。」

「でも、瑞希さんが明羅さんを思いやって一人で苦しんでいたことは・・・真実です。男の方があんなに切ない表情をしていたのを初めて見ました。その痛みだけで、十分です。」

 水面から冷たい風が上がってきた。

 何か愛姫が傷つくようなセリフで、この場を閉めてしまえばいいだろうか。だが、これ以上愛姫を傷つけまいと誓った限りそれはできない。

「橋田さんが・・・幸せになったら、少し考えます。それで、いいですか。」

「私はもう、幸せです。私が欲しいものを、瑞希さんがみんな下さったから。」

「それで癒えましたか?あなたの傷が、すべて!癒えるわけがない。」

「瑞希さんの人生は、私の人生に左右されていいものではありません。そうでなくても、瑞希さんは今までの人生で築きあけたものをすべて失ってしまったではありませんか?もし過去に後悔があるのでしたら、またすべてを一から積み上げていかなければならない今なら、すべて清算することができるでしょう?」

「汚い過去ですよ。あなたのような人に、とても言えないような。」

「だって瑞希さんは全部失ってしまったんですよ?婚約者も、仕事も。それで十分報いを受けています。」

「あなたへの罪は?俺、全然報いを受けていない。」

「私と一緒に苦しんで下さった。はじめ、瑞希さんはもっと冷酷に私をつきはなすと思っていました。そうしたら、私はきっと瑞希さんの幸せを願うなんて心の広いことができなかったと思います。でも、今は心から。私の幸せよりも、ずっと、あなたの幸せを・・・。」

 思わず出た本音に、愛姫は思わず言葉をつまらせた。そして、瑞希もそれを感じて、戸惑った。愛姫から、そんな言葉をもらえるとは思っていなかった。だからその分、脈が高鳴った。 今まで、決して感じたことのない思いが全身をかけぬける。

「今の俺にとって、幸せは、ただひとつしかありません。でも、それは決してかなわない。」

「なぜ・・・。」

 言ってしまおうかと思った。

 こんなシチュエーションで、あんなセリフを奏でられたら、堪えられるものも堪えきれなくなる。

「可八のことがあるからですか。可八が・・・瑞希さんの幸せの障害になってしまうからですか。」

「・・・いえ、違います。」

「では、なぜ・・。瑞希さんなら、かなわないことはないと思います。」

「そんなふうに言わないで下さい。俺には、この世でひとつだけ、どうしても願ってはいけないことがあるんです。」

 それは、愛姫も考えていたことだ。この世で唯一つ、願ってはいけないこと。決してかなえられないこと・・・。

 愛姫の瞳が、明るく見える。

 瑞希は、視線をゆっくりとそらし、欄干から離れた。

「そろそろ行きましょう。もう、遅いですから。」

 東京駅までの静かな道が、瑞希の悲しい沈黙を増徴しているようで、切ない。

 愛姫にはわからない。瑞希が、何をそんなに禁じえているのか。

 瑞希にとって、この世でひとつだけ、願ってはいけないこととは・・・?

 瑞希の思いを、愛姫には想像できない。想像したら、自分の都合のいい方向にしか動けなくなる。

「寒くありませんか。」

 少し振り向いた瑞希に、愛姫は

「大丈夫です。」

と答えた。風に乗って、かすかにダージリンの香りがした。

 瑞希は、愛姫の好きなものばかり持っている。それは、偶然なのだろうか。それとも、運命なのだろうか。

 瑞希が自分のものになるとは思っていない。

 そして瑞希も、愛姫が自分のものになるとは思っていない。

 広い広い通りのつきあたりに、東京駅の時計が薄緑にぼんやりと浮かんでいる。

「では、俺は大手町から地下鉄に乗りますので。」

「はい。・・・明羅さんに、ご馳走様と伝えてください。」

「わかりました。」

 次に会うのはいつなのか。

 こんなふうに二人で話す機会など、もう、皆無なのか。その行方は二人しだいなのに、積極的に動くことを、二人ともができないでいる。

 あの夜があるから。

 今の感情は、あの夜があるから。

 でも、近づけないのもあの夜があるから。

「おやすみなさい。」

 小走りに去る背に、紺色のスーツが翻った。

(なぜ・・・。)

 どうして、好きになってしまっただろう。

 明羅の後姿を、こんなふうに見送った日を覚えてる。だが、その弟をまた、違った思いで見つめている。

 片思いを、いつも呑み込んできた。だから、愛姫はそれ以外の方法をしらない。恋とか愛とかいう甘い言葉は、飾り物のお菓子でしかない。本当の思いは、言葉になどならない。どんなに難しい漢字を用いても、表現などできない。好きなほど避けようとする本能を、破くこともできない。もっと無防備な少女の頃に経験しておくべきことをしなかったから、愛姫の恋愛観は中学生にも劣るほどなのかもしれない。

 可八と離れ、本当に独りになったとき、自分の本当の人生が始まる。

 そのとき、どうすればいいだろう。何を、望むだろう。可八なしの人生とは、いったい何なのだろう。煩わしくて疎ましかった存在がいなくなることを本当に望んでなどいただろうか。いて当たり前の存在を、いなくなったときのことなど、本気で考えてなどいただろうか。

 瑞希は、どうするだろう。

 可八と同居せずにあの家を出るなら、長年誰よりも強い絆で結ばれてきた兄と離れるとき、何を思うのだろう。

 見上げた空は、満月だった。

(満月の夜は、願い事をするんだっけ・・。)

 占いの雑誌をむさぼるように読んだ頃を懐かしく思う。

(私は年を経るごとに、失ってばかりいるのではないだろうか・・?)

 今、欲しいものはない。

 だが、もし叶うなら。

 もし、この一生涯でただひとつ、願いをかなえてもらえるのだとしたら。

 願いごとを、迷わない。

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