第23話
瑞希は、愛姫を毎日見舞った。
愛姫の顔色は段々良くなっていくが、表情はどうしても暗いままだった。無論、何もかも忘れたような顔をされたら逆に拍子抜けしてしまうが、罪を心に刻みつけようとしているのが感じられて、切ない。
愛姫は、瑞希が毎日来てくれることがこんなにも心を救ってくれるとは思っていなかった。正直、ここまでしてくれるとは思わなかった。例え入院している間だけのことでも、一人の男が自分に気を遣ってくれていることが嬉しかった。
妊娠したことも、流産したことも、瑞希の責任とは思っていない。だから、ここまでしてくれて当たり前だとは思っていない。無論、瑞希がどう思っているかはわからないが。
退院すれば、もう、会う理由はない。
可八と明羅が結婚すれば、瑞希と一生会わなくなるということはなくなるが、普段から顔を合わせることは確実になくなる。
退院の日。
仕事がある瑞希や可八が来られるはずもなく、愛姫は一人、病室をあとにした。
誰もいないマンションにつくと、一気に現実に引き戻された感じがして、力が抜けた。ここには、瑞希のいる生活はない。やがて可八が結婚していなくなり、今度こそ本当に独りになるだけだ。
一人でも平気だと思っていた。孤独が自分を強くすると思っていた。しかし、もし入院先で毎日一人だったら、どうなっていただろう。可八が着替えを届けに毎日来てくれても、気持ちは深みにはまったままだったのではないか。
瑞希だから。
瑞希がいたから、今の自分はこんなに立ち直っているのだ。
瑞希がどう感じているかはわからないが、確かに瑞希は自分の苦しみを半分以上、背負ってくれたことになるのかもしれない。
と、そのとき。突然玄関のチャイムが鳴り響いた。
「お届けものです。」
渡されたのは、ピンクがかった肌色の花びらを持つ薔薇の花束だった。薔薇なのに、優雅で豊かな紅茶の香りがする。
驚く愛姫に、配達人は小さなカードをわたし、去っていった。
カードにメッセージはなく、瑞希の名前だけが記されていた。
思った以上に達筆で、堂々として、しっかりとした文字を書く。
眼を閉じると、涙がこぼれた。
嬉しさより、胸を締め付ける切なさが溢れてくる。
どうして瑞希は、自分の一番好きなものを贈ってくれるのだろう。
見舞いの品も、自分の好みなど知るはずがないのに、いつも好物ばかり持ってきてくれていた。
開いた目の先に、滲んだ花びらが揺れ、薔薇の香りが鼻をくすぐった。
目頭にあてたカードからは、冷たいダージリンの香りが漂う。
瑞希の香り。
愛姫が一番好きな香りを、瑞希は持っている。
瑞希がどんなに女性からもてるか聞いている。聞かなくても、わかる。どうすれば女性を喜ばせることができるか、知り尽くしているのかもしれない。愛姫も、そんな女性の一人だから、それに乗っかってしまっているのかもしれない。
でも、いい。
男性から初めて花束をもらった。退院のお祝いであろうと、そんなことはどうでもいい。
だが、これが本当に最後だろう。瑞希の心をもらえるのは。
愛姫は、溢れ出そうな気持ちを抑えようと胸を押さえた。
瑞希にだけは、惹かれてはいけない。
何も叶わないことがわかっているから。
想った時点で失恋になるから。
瑞希の優しさは、償いとか同情とかそういうもので、それ以上では決してない。
わかっているのに。
(弱気になっているから、優しさにすがりつきたいだけ。それだけよ・・。)
声を押し殺してしか泣けないようになっていた。大声を出して泣けたらもっと楽なのかもしれないと思っても、声は出ない。
本当は、瑞希といたい。瑞希のやさしさを、ずっとずっともらっていたい。あの腕に、すがっていたい。
でも、それは決してかなわない。
引く手数多の瑞希が、自分を選ぶはずなど無い。
そう言い聞かせねば、夢を見てしまう。覚めたときに、一番つらい夢を。
明羅の最後の取材は、春の訪れを告げるような陽光のさす日に行われた。
おなじみの取材室も、もうこれきりになる。だが、明羅とは最後にならない。可八がいる限り、一生、縁は切れない。
明羅への思いは、もう完全に断ち切れていた。近くで見つめても、心は穏やか過ぎるほどだ。
「最後の締めくくりは、橋田さんと、藤木さんの関係で閉めたいんです。橋田さんにとって、藤木さんは、一体どういう存在か。取材の当初は『他人だ』と言い切っていましたが、今は、どうでしょうか。」
この半年で、色々なものが変わってしまった。その変化をも踏まえての答えを知りたいというのか。
「難しいですわね。」
「以前と変わりませんか。」
「いいえ。もっと、複雑になりましたわ。可八が、わたしの人生になくてはならないってことは、わかりました。可八が結婚したら、完全に本当に独りになると実感して、寂しい気持ちになりましたから。でも・・・だからといって、どう表現したらいいかわかりません。」
明羅はメモ用紙から視線を上げ、話題を変えた。
「ご病気は、すっかり良くなったんですか。」
その話題は、嫌でも瑞希を思い出させる。
「・・ええ、おかげさまで。」
「瑞希は、あまり話してくれなくて。」
「過労だなんて、情けないことで。でも、瑞希さんには本当にお世話になりました。」
明羅は、瑞希が毎日見舞っていたことを知らない。ただ、病院へ運んで、次の日も病院にいたことを、可八から聞いただけだ。
「瑞希は、何か、ご迷惑をおかけしたのではありませんか。」
愛姫は思わず、ドキリとした。流産のことを、知っているのか?
いや、そんなはずはない。
瑞希は、絶対にしゃべらないし、気取られるようなこともしないはずだ。
「いいえ、・・・何も。」
固唾を飲み込む。
「病院の人たちに、あなたの婚約者・・とか、勝手に名乗ったようですね。」
明羅は、これを言いたかったのか。ほっとする。
「別に、かまいません。あんなハンサムな婚約者と、うらやましがられましたわ。」
「・・・なら、いいんですが。」
あれから、瑞希とは会っていない。花束のお礼は、手紙で済ませた。瑞希からの返事はない。
「橋田さんは・・・ご存知だったんですか。瑞希が、仕事を首になったり、婚約を解消したことを。」
何と答えればいいだろう。どこまで嘘をつき、どこまで話してもいいだろう。
「可八のことで、話をしたことがあるので、なりゆきで、・・聞きました。」
「酷な役目を、押し付けてしまいましたね。」
「いいえ。でも、今は瑞希さんのお気持ち、少し変わったのではありませんか。」
「別れるなと、言われました。今更別れられたら、自分の犠牲が意味なくなるからと。」
「・・・。」
「弟より、恋人をとったのだからと、冷たく言われました。」
苦笑する明羅に、愛姫は首をふった。
「比べることはできないと、あなたはおっしゃっていましたよね。」
「いつかはわかってくれる、なんて甘えた考えをやっと捨てました。瑞希にとったら、一生を壊されたことに他ならないのですから。」
「瑞希さんは上昇志向の強い方です。きっと、別の成功を見つけられるのではありませんか。」
「そうかもしれません。でも、それと僕の結婚のこととは、やはり別でしょう。」
「どうすれば瑞希さんの心が緩むのかはわかりません。でも、それは少なくとも明羅さんと可八が不幸せになることではないはずです。瑞希さんは、本当にお兄様が大切なんです。だから、結婚もあれほどに反対されたんだと思っています。その瑞希さんが、明羅さんの不幸せだけは、決して望まないはずです。」
明羅は頷いた。
「瑞希が、仕事を首になった直後に私を責めなかったことが、一番切ないんです。ずっと、一人で耐えていたのかと思うと、・・・いたたまれない。」
その時期の瑞希を見てしまった愛姫には何と答えていいかわからなかった。明羅は続けた。
「どうやって立ち直ったのかはわかりません。いや、苦難の時期に気付かなかった愚かな兄には、今立ち直ったかどうかも定かにわかるわけではないんです。ただ、少し、落ち着いたように見えるだけで。」
「でも、お互いを思いやっていることには変わりがないのですから、きっと、いつかは・・。」
思えば、瑞希とは半端に別れてしまった気がする。大事なことを途中で放ってきていないだろうか。
子どもはいなくなった。
明羅と可八は結婚する。
瑞希は新しい道を歩いていく。
なのに、半端な気がするのはなぜか。
二人には何も始まっていないのだから、終わりもない。だから、半端なこともないはずなのに。
瑞希にこだわりたいのは、心があるから。消えない炎が揺らいでいるから。叶うわけがないと思いながら、どこかで淡い期待を抱いているから。
あの瑞希と一夜だけでも共にしたとは。その上、瑞希の子を妊娠していたとは。
こめかみを押さえ、愛姫は自分の考えを打ち消すように唇を噛んだ。
しばらくの沈黙の後、明羅は腕時計を眺め、
「ずいぶん遅くなってしまいましたね。もしよろしければ、夕食をご馳走させていただけませんか。」
「え・・・?」
思わず見上げた先の明羅は、もう取材器具を片付け始めていた。
「一応、最後の取材が終わったわけですから。ささやかですが、お礼をさせてください。」
「・・・でも、」
「最後の原稿を書き上げるまでに、またいくつか電話で質問させてはいただきますが、けじめとして。駄目ですか。」
ずっと欲しかった誘いが、今更来るとは。
半年前、欲しくて欲しくて、どれほど可八に嫉妬したことか。
しかし今は、冷静にその誘いを受けられる。
「では、ありがたくご一緒させていただきます。」
「よかった。じゃあ、帰る準備をしてきますから、先にロビーで待っていてください。」
可八に電話をした。後ろめたい気持ちはない。明羅の心はどんなことをしても、可八にしかないし、愛姫自身にも明羅に対する思いはないからだ。
「ごめんね、準備していたでしょう?」
「いいえ、日持ちするものですから、大丈夫ですよ。」
可八には、自信があるのだろうか。明羅の思いが、自分から決して動かないということ
を。もしなかったとしたら、愛姫が諭してしまう。明羅がどんなに可八だけを見ているかを。
案内されたのは、銀座の裏通りにあるフレンチレストランだった。ほの暗い地下へ続く石の階段を下りていくと、その先には思いがけず広々とした明るい空間が広がっている。
「お連れ様が先にお待ちです。」
そう言われて一瞬首をかしげたが、案内された座席に近づいた愛姫は、足を止めてしまいそうなほど、驚いた。