第22話
瑞希が家に戻ったのは、夜の7時をまわったばかりだったが、めずらしく明羅が家にいた。
午後、出張が早めに切りあがったという明羅の顔は、強張って見えた。
どうしたのかと問うと、
「さっきまで、お客様がいた。」
「誰?」
「瑞希のよく知っている人だ。話は全部聞いた。」
明羅の深刻な表情に、瑞希は、はっとなった。
かつての婚約者、沙織なのか。
何となく、香水の甘ったるい匂いが残っている。
兄の悲痛な表情も、それを物語っている。
「沙織さん、謝りに来たらしい。俺にも、頭を下げていた。」
ソファで頭を垂れた兄を、瑞希は向かい側で見ていた。何と言えばいいのか。「今更知ったのか、遅すぎる」とでも言えばいいのか。だが、そんなのは虚しいだけだ。
「仕事・・・どうしてるんだ?」
瑞希は、平然とした口調で答えた。
「講師のかけもちしてる。来年、国公立の試験を受けなおそうかと思う。」
「諦められるのか?」
「何を?俺の夢を?沙織を?」
瑞希はいたたまれずに立ち上がり、背を向けた。
「諦められなくたって、もう手遅れじゃないか。今更兄貴が藤木可八と別れたって、取り返しなんかつかない。くだらないこと聞くなよ。」
兄がどんな表情をしているかわかるから、振り返れない。だが、言わずにはいられない。
「俺は、散々言った。兄貴にも、藤木さんにも。あげく、橋田さんにも・・・頼みに行った。だけど、兄貴は拒絶したんだ。それは、俺の望む未来を拒絶したのと同じだったんだよ。こうなるのは、わかってた。兄貴にだって、そう言ったじゃないか。だけど、兄貴は藤木さんと別れなかった。俺より、彼女を選んだんだ。それを・・・!今更、どうしようもないことを言うなよ!」
明羅には、愛姫がかつて言った言葉の真の意味が、今になって理解できた。
― その幸せが、独りよがりにならないことを祈ります ―
あの時。
愛姫は瑞希のことを知っていたのだろうか。だから、あんなことを言ったのだろうか。
「・・・すまない。」
「別に。もう、どうでもいいよ。どうせ絶対に取り返しがつかないんだ。例え、地球が崩壊しても。」
そこまで言って、瑞希は今自分の置かれている状況をまざまざと思い出し、口を噤んだ。
今の自分に、兄を責める資格などあるのか。
謝っても、地球が崩壊しても、とりかえしのつかないことをしたのは自分ではないのか。子どもを殺しただけでなく、一人の女の心まで深く傷つけてしまった。癒す手段など思いもつかない。
瑞希は部屋に戻り、柔らかな羽枕をフローリングに叩きつけた。手ごたえのなさが一層苛立ちを逆なでする。
(畜生・・・!)
いっそ、愛姫を冷酷に突き放してしまえたら。
世間の男女のように、あと腐れなく金でかたをつけられたら。
できない。
他の女ならできたかもしれないが、相手が愛姫だからそんなことはできない。
いまどき、こんな女がまだ存在するのかと思った。世間の流行りや生き方に左右されず、自分の道を確立し、まっすぐに生きている。自分に厳しく、罪を一つ一つ噛み締めずにはいられない。
瑞希は、己の生き方を悔いていた。
もっと、胸を張れる生き方をどうしてしてこなかったのだろう。だから、愛姫を傷つけてしまったのだ。だが、今さらどうにもならない。
こんな思いになるなんて、瑞希自身が一番戸惑っていた。女との間のことなら、どんなことでも冷静に対処できるという自負があった。一人の女のことで、こんなに気持ちを引きずられるとは、予想だにしていなかった。女が子どもを堕ろすことに、こんなにうろたえ、罪の意識を感じるとは思っていなかった。なのに、この重苦しい、地の底へ突き落とされたような感覚。子どもの頃、悪いことをして、それが親にばれないかと冷や冷やしていたあの感覚が、何十倍もになって襲い掛かってくるようだ。
だが、愛姫との問題に解決策などあるのだろうか。
償いとは、何か。そんなものが、存在するのか。
次の日の午後。
面会時間を少し回って愛姫の部屋を尋ねると、そこはもぬけの空だった。
全身の脈が一気に波打った。
いったい、どこへ行ってしまったのか。いや、立ってどこかへ行けるくらい元気になったということなのか。
通りがかりの看護師に声をかける。
「橋田さんなら、さっき屋上へ上がっていきましたよ。」
瑞希は、礼もそこそこに走り出した。
屋上へ、何をしにいったというのか。
大体、看護師はそれを止めないのか?
二月の寒空は、もうラベンダーに染まっている。冷たい刺すような空気が、染みだらけのコンクリートの上を覆いつくしている。そんな中、手すりのそば一つの黒い影に気付いた。
と、その影のかかとがふわりと宙に舞った、気がした。
「橋田さん!!」
思わず叫んで走り出していた。
愛姫が驚いて振り向くより早く、瑞希は背中から抱きついていた。
「馬鹿なことを!」
「瑞希さん・・・?」
愛姫は、瑞希が突然現れたことより、この行動のほうが不可解だった。しかし、すぐに瑞希の杞憂を察した。瑞希の腕がゆるむと、愛姫は言った。
「私が自殺しようとしていると思いました?」
「・・・。」
瑞希の頬はまだ上気している。
「まぎらわしかったのは謝ります。ただ、景色をよく見たかっただけなんです。」
「・・・そうでしたか。」
「ごめんなさい。余計な心配をさせてしまいましたね。」
「いえ、俺のほうこそ早とちりをして・・。」
「死んでもどうにもならないとおっしゃったのは瑞希さんでしょう?」
「それは、そうですが。」
「もし私が自殺なんてしたら、それこそ瑞希さんの一生に消せない影を作ってしまいますものね。・・・それは、さすがにできません。」
点滴の管をつけたままの愛姫をベンチに座らせ、瑞希はその前に立った。
愛姫が瑞希を見上げると、その向こう側に霞ヶ関の街が広がっている。
「瑞希さん。ひとつだけ、お願いをしてもいいですか。」
「何ですか。」
「明羅さんと可八のこと、認めてください。」
愛姫の唇が青茶色にかさついている。熱がある証拠だ。瑞希は自分のトレンチコートを愛姫にかけてやった。
人の温もりは時として心地悪さを感じるものだが、瑞希のそれは、素直に愛姫の身体に染みた。
瑞希は遠い目で語った。
「認めるも何も、すべてが終わった今は、何か言う気力はなくなりました。兄に、殺人犯の娘などと結婚して欲しくないのは今でも同じです。藤木さんを義姉と呼ぶことは憚られます。でも、今の俺には、二人の結婚を反対する資格がなくなってしまっているんです。」
愛姫の瞳が、姿を現したばかりの月の色を映し出している。
「それは、・・・・」
命をひとつ、消してしまったから。
殺人を犯してしまったから。
殺人犯の娘より、ずっと下の立場になったから。いや、自らは何の罪を犯していない可八とは、比べるすべもない。もう、可八を嘲る資格など、あるわけがない。
瑞希の言いたいことが解り、愛姫は口を閉ざした。わかっていることを、わざわざ言わせる必要などない。
今、愛姫の中にある感情と、瑞希の持つ感情は、重なっている。罪の共有というより、悲しみや後悔や色々と混ざり合った言い表せない感情そのものを共有している。
「戻りましょう。・・・ここは寒い。風邪をひいたら大変ですから。」
促されて立ち上がろうとした愛姫に、瑞希は手を差し出そうとした。が、瞬間躊躇し、結局手を引っ込めた。
触れてはいけない気がした。
それは、一生。
愛姫を病室へ送った後、瑞希はあてもなく街をさまよった。
家へ戻ろうという気にならない。
家庭のぬくもりを、今は欲していない。
この気持ちはどうしても拭い去れないし、簡単に拭い去ってはならない。
苦しめばいい。
罪の意識を抱いて、抱いて、一生苦しめばいい。
死んでしまった者に対して、そんなことで償いになるとは思えないが、忘れないことは必要だと思う。
もし何年かして、愛姫が誰か他の男と幸せをつかもうとしていたら、力一杯の祝福をする。だが、自分は誰とも一緒にはならない。愛姫の気持ちが癒えたとしても、それで全ては終わらない。 もう、誰との間にも子どもはもうけない。臥薪嘗胆という言葉のとおり、一生薪の上で寝、肝を嘗めて罪を思い出し、思い出し、生きていく。どんなに優しい人が温かな手を差し出してくれても、それに背を向けようと思う。
(そんなことで、何も、許されないが・・・。)
愛姫に言ったとおりの自己満足なのかもしれない。だが、そうせずにはいられない。
家に戻ると、明羅がコーヒーを入れてくれた。それによって、ささくれた心少し癒える気がて、胸に染み入った。
「ひとつ、聞いてもいいか。」
「・・何。」
「橋田さんが入院した病院で、お前、橋田さんの婚約者ってことになっているらしいな。」
いつかは聞かれると思っていた。
「・・口が軽いね、兄貴の婚約者は。」
「聞かれたんだよ、『知っているか。』とね。」
「婚約者なんてでたらめだよ。ただ、病院に運んだとき色々説明するのが面倒だったから、でまかせを言っただけだ。」
「そんな・・!橋田さんの立場を考えたか?他に好きな人がいて、その人の耳にでも入ったら上手くいくものも壊れるだろう!」
そんなふうに考えてはいなかった。第一、愛姫の想い人は明羅だ。とっくに失恋してしまっている。何も知らない兄は気楽だと思い、腹立たしかった。長年苦労して世話をしてきた年下の女に想い人をとられてしまうなんて、愛姫はどれほどのショックだったろう。プライドをことごとく崩されたに違いない。その思いを同居人に決して気取られないように耐えた強さを、誰も知らない。
「そんなこと・・・兄貴が心配することじゃないよ。兄貴は俺より大事な婚約者の心配だけしていろよ。」
そういい残し、席を立った。せっかくのコーヒーを半分残して。
兄を不憫に思ったが、戻る気にはなれなかった。
愛姫の熱い想いをまったく感じていなかった兄が恨めしかった。少しでも察していたなら、可八とどうにかなる時だって、少しは気遣いがあってもよかったのではないか。
愛姫は想いをひた隠しにしていたのかもしれない。感情を押し殺すタイプなのかもしれない。それで、何度も泣いてきたのかもしれない。ずっと一人かもしれないと言っていた。いくらしっかりしていても、恋愛にはひどく奥手なのかもしれない。
(でも、ずっと一人だなんて言わないで欲しい。)
誰かに思い切り愛されて、幸せになったっていいと思う。世間の不道徳な女がいくらでも結婚しているのだから、愛姫がその幸せを味わえないなど、不条理だ。
いつか、誰かの隣で微笑む愛姫には、白いドレスが似合うだろう。普段はダークカラーばかり着ていて、黒が最も愛姫の顔を美しく見せるのを知っているが、明るい色の服も、別の魅力を見せるに違いない。
そこまで考えて、瑞希は思わず口元を手で押さえた。
自分でもわからない感情が、脳裏をフッとかすめたからだ。
しかし、それを認識すると何かいけないような気がして、瑞希は固く瞳を閉じ、それを押さえこんだ。