第21話
仕事を終えた瑞希が再び病院に戻ったのは、午後三時の少し前だった。
見ると、廊下のソファに可八が一人、荷物を抱えて座っている。
「どうなさったんですか。」
その声が瑞希にしては穏やかだったため、可八は口を開いた。
「面会時間を待っているんです。」
「面会時間・・・?」
「朝来たら、面会時間までは会えないといわれて。」
「ずっと、待っていたんですか。」
「ええ。・・・でも、もうすぐ時間になりますから。」
五時間も、ここで待っていたというのか。
「でも、あなたは橋田さんの近親者でしょう?しかも、入院の荷物を持ってきたんですから面会時間は関係ないと思いますよ。ちゃんと、受付でそう言いましたか。」
すると可八は少し困惑した表情を浮かべた。
「・・・私は、近親者ではありません。ただの同居人です。」
「二十年も一緒に暮らしていれば、他人じゃないですよ。家族と同じです。」
だが、愛姫は首を振った。
「いいえ、私は、他人です。例え五十年一緒にいても、それは変わらないんです。」
兄が言うのとは違い、二人の絆はずっと複雑なのかもしれない。いつまでも心を開けず、真の家族になどなりえないとお互いに思っている。傍から感じる絆を、本人たちは否定している。
「あの、ひとつだけお聞きしてもいいですか。」
遠慮がちな可八に、瑞希は「どうぞ。」と素っ気無く答えた。
「なぜ、瑞希さんが愛姫さんを病院に連れてきてくださったんですか。」
瑞希の態度がいつもより優しかったからか、ついに核心をついてきた。瑞希は、用意した言葉を口にした。
「個人的な相談をするために、事務所へ行ったんです。橋田さんは事務所から出てきたところだったので、少し歩いて話をしていたら、・・・突然、倒れたんです。」
あながち嘘ではない。
「そう・・・、ですか。本当に、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。」
「別に、藤木さんがあやまる必要はありませんよ。あなたが言うように、二人が他人なんだとすれば、なおさらです。」
そのとき、廊下に柔らかなトロイメライのオルゴールが流れた。面会時間を告げる合図だ。 入院病棟がにわかに騒がしくなってきた。
「僕は廊下にいますから、どうぞ先に。」
可八は頭を下げ、病室に入っていった。一人部屋にしたのは、愛姫が他人と一緒にいることをいやがると思ったから。それは、正解だったのだろうか。
十分ほどで、可八はでてきた。
「もう、いいんですか。」
そう訊ねると、可八は小さく苦笑した。
「だって、お話することがないんですもの。事務所との連絡と、洗濯物のことくらいです。あと、おじ様には黙っていることと。」
「おじ様?」
「愛姫さんのお父様のことです。」
父親に、こんな様を見られたくないということか。記事では絶縁状態にあると書かれていた。
「では、私は入院の手続きを済ませて今日は帰ります。・・・失礼します。」
行きずりで病院までつきそった瑞希がなぜ今日も病院に来たのか、ましてや泊まりでつきそっていたのか、疑問に思わないのだろうか。いや、あえて口にしないのか。
明羅に知られるのも時間の問題だろう。今夜はさすがに帰らなければならない。愛姫と話をして、それから。
病室に入ると、愛姫は体をベッドの背に預けて起きていた。
愛姫は、瑞希を見ると軽く視線を落とした。
「起きていて、大丈夫ですか。」
「ええ。」
ベッドの脇に立つ瑞希を見上げ、愛姫は穏やかに言った。
「瑞希さん、もう、忘れてください。今回のこと、すべて。」
「・・・それはできません。」
「私は、もう何も気にしませんから。」
「あなたは、絶対忘れないはずです。・・・朝、あなたが言ったこと、覚えていますか。」
「・・・。」
「正直、あれは堪えました。あなたがご自分を責める以上に、俺自身を責めねばならないと自覚しました。」
「私は、瑞希さんにそんなことを望んではいません。」
瑞希は組んだ指に力を入れた。
「相手の女性を、こんな目にあわせたのは初めてです。まして、橋田さんのような女性をこんな風にしてしまったことを、心から後悔しています。あなたが望むことを、何でもします。例え、死ぬことさえも。」
どきりとしたのは、瑞希の言葉が本心だから。
相手の言葉の真意を疑う余地などない。心が判断している。瑞希の、真剣さを。
「瑞希さんのお気持ちはわかりました。でも、何かしてもらおうなんて考えていません。」
「俺の気持ちは決まっています。一生、あなたの下僕になる覚悟もできています。本当です。今まで、散々女性を弄んできた罰を受けなければならない。あなたが、一生誰とも結婚するなと言うなら、そうします。二度と顔も見たくないというなら、離島へ越したっていいと思っています。」
「やめてください、そんなことをされたら、かえって重荷です。今回のことで、瑞希さんの人生を狂わすことなんてできません。」
「でも、橋田さんは今回のことを忘れないでしょう?一生、背負って生きていこうとか考えているでしょう。」
その通りだ。
どうせ堕ろすつもりだったのに、実際にいなくなってみて感じるこの罪悪感は一生忘れてはならない。
罪を犯した。罪を逃れる例外規定は、二人にはあてはまらない。
「だったら、俺も忘れるわけにはいきません。あなたが罪と感じているなら、俺も同罪です。あなたがご自分に科そうとしている償いがあるのなら、どうかそれ以上のものを俺に求めてください。一生許されないのは覚悟しています。」
本当は。
実のところ、愛姫は瑞希がもっとドライに去っていくと思っていた。入院費は責任持つからと、そのまま終わりにすると思っていた。それでも仕方ないというより、それが当たり前だと思っていた。朝、瑞希がいたのは話をつけるためで当然だと思ったが、今もこうして現れていることが、不思議な気さえする。
愛姫は言った。
「瑞希さん、・・・私は今回のことで瑞希さんを訴えようとか思っていませんから安心してください。」
突然、瑞希の息遣いが変わった。
愛姫がはっとするより早く、瑞希は言った。
「あなたは・・・!あなたは、俺がそんなことを恐れているから、こうして必死になっていると考えているんですか?確かに、俺はいい加減ですよ。女を女と思ったこともないし、愛情のかけらも持ったことがないし、道具のように扱ったことさえありますよ!でも、今は心から、心から・・・・!!」
怒りのあまり、声が続かない瑞希を見て、愛姫はもう疑うまいと思った。ここまで言うのなら、信じるしかない。例え、これが演技だとしても、騙されたとは思わない。
「ごめんなさい。・・・」
「いいえ・・・。俺のほうこそ、すみません。あなたがそう思っても、当たり前なんですが。」
病室の扉がノックされた。
看護師が、食間の薬を運んできたのだ。
「なんだか大きい声がしたようですけど?」
朝のことがあるから、警戒されている。
「絶対安静なんですから、興奮させないで下さいね?」
にらまれた瑞希は、軽く頭を下げた。
「婚約者なんだから、こういうときこそ労わらないと。過労ゆえの流産なんだから、誰のせいでもないのだし。結婚したら、また作ればいいだけの話しだもの。」
二人が婚約していると信じている看護師の好意の言葉が、愛姫と瑞希には痛かった。
もう、「次」はない。たぶん、一生。
気まずい雰囲気を取り繕おうと、瑞希は愛姫に小さな包みを差し出した。
「何がお好きかわからなかったので、適当に選んだんですが。」
愛姫は青白い腕で受け取り、静かに封を開けた。
「・・・フルーツカクテルですわね?私の大好物ですわ。」
「そうですか。では、どうぞ召し上がってください。」
しかし、愛姫は首を振った。
「今は・・食べる気にまだなれません。」
「具合が良くありませんか。」
「それもあります。でも、・・・。」
「子どもを殺しておいて、生きるための食事なんかできないとか言うんですか。」
愛姫は驚いた。
瑞希には、段々自分の思っていることがわかっていってしまっている。
あれだけ吐露していれば当然か。
「今はまだ、時間がそう経っていないし、気持ちが穏やかでないとは思います。でも、ひとつだけ変わらないのは、あなたは生きていくということです。自分から命を絶つことなど、できないはずです。」
「・・・瑞希さん・・・。」
「あなたは、藤木さんの自殺を止めたし、俺にも、『母のようにならないで』と言った。そのあなたが、命を絶つことはないはずなんです。死にたいと思ったとしても、生きていくはずです。ですから、」
「瑞希さん、あなたのおっしゃることは正論だし、私だってわかっています。でも、今は自分を地中深く沈めてしまいたい気分なんです。身の置き所がなくて、雷にでも打たれたい気分なんです。ですから、とても食べられない・・・!」
右肩に顔を埋めた愛姫を、瑞希はただ見ているしかないのだと悟った。何をすればいいかわからない。何もできない。今の愛姫に、一番何かしなければならないのは自分なのに、何ができるというのか。
本当に婚約者だったら。
どんなにか楽だったろう。
優しく労わり、今後に期待し、次の子どもを待てばいい。だが、その未来はない。なぐさめの言葉さえみつからない。なぐさめられるほど愛姫のことを知らない。だいたい、あの夜までに愛姫とどれほどの時間を過ごしたというのだろう。お互いを知る十分な時間などなかった。話といえば、兄と同居人との結婚話のみ。その繋がりでしかなかったというのに。
「じゃあ、あなたが食事をするまで、俺も食事を摂らないことにします。」
「瑞希さんには、関係のないことです。」
「同罪か、それ以上の罪があるのに、関係なくはないでしょう?これだけは覚えていて下さい。俺は、あなたが御自分に科す罰をすべて一緒に味わいます。あなたが何と言おうともです。一生続くのなら、一生、つきあいます。あなたが望もうと望むまいと、関係のないことです。俺が犯した罪を、あなたが考えている方法で、一緒に償うというだけです。どんなに拒絶されても、絶対にやりとおしますから。」
愛姫は、苦笑した。
「あなたは、一生私の下僕になってもいいとおっしゃったでしょ?それは、私の言うことをきくということですよね?なら、私が『忘れて』といったら、そのとおりにしてくださるのではないの?」
瑞希は濃い輪郭の眉に力を込め、愛姫を見た。
「俺は、あなたと問答する気はないですよ。」
「私だって。真剣に言っているのに。」
「罪を、償わせてください。いたたまれないのは、俺も同じです。どうしたらいいか、わからないんです。」
「どうしたらいいんでしょうね?死んでしまった子は、もう二度とヒトにはなれない。産まれてくれば味わえた喜びも、幸せも、すべて幻になってしまった。それを、どうしたら償えるのでしょう?私は弁護士ですから、今まで『犯した罪は、償える』とか言ってたんですよ。でも、そんなの嘘です。償えない罪だってあります。弁護の余地もない過ちは、やっぱりあるんです!」
瑞希にも、答えなどわからない。どうして世の中には、あんなにも堕胎する人間が多いのだろう。子どもができたら、「失敗」などというのだろう。子どもができたことを結婚のきっかけにしたりするのだろう。愛姫が言ったとおり、堕胎の金を払うことも、結婚することも「責任」などではない。責任などという言葉を口にするのなら、子どもができる前に責任を取っておくべきなのだ。それに、男が「責任をとる」というのもおかしい話だ。子どもができたのは、強引でないのなら、双方の責任であり、女も同等の立場にあるはずだ。女が責任を口にしないのは、子どもを宿した時点で、すでに責任から回避できない立場に自動的におかれるからなのか。
数年前、妊娠したからと嘘をついて瑞希に結婚を迫った女がいた。幸い真実がすぐに明るみになったが、以来慎重にならざるを得ないだけの衝撃は受けた。愛姫のときは、本当に理性のかけらもなかった。というより、理性があれば、愛姫を抱きはしなかったはずだ。
やはり、甘えだった。
瑞希は自分の苦しみだけで精一杯で、自分ひとりが犠牲者だと思っていたのだ。
愛情の欠片もない女性に救いを求めたことが、罪だったのだろうか。
喉につかえて呑み込めずにいるのは、後悔より罪悪感なのだろうか。