第20話
病院の処置室に愛姫が運ばれてからほどなく、一人の医師が出てきた。
「患者のお身内の方にお話をしたいのですが。」
瑞希は一瞬言いよどんだが、ここへ他の人間を呼ぶわけにはいかない。愛姫は妊娠の事実を誰かに知られるのを嫌がるだろう。妊娠に関わった自分以外、ここには呼べない。
「私は、・・・彼女の婚約者ですが。」
医者の表情が少し緊迫した。
「では、患者が妊娠していることは・・・?」
「無論、知っています。私の子です。」
「衰弱が激しく、このままでは母子ともに危険です。残念ながら、流産せざるを得ません。」
「今後に、影響はありませんか。」
「ないように、全力を尽くします。」
「・・・では、お願いします。」
「しばらく、入院が必要ですから、そのつもりでいてください。」
医師が処置室に戻り、瑞希は廊下の待合いすに崩れるように腰を下ろした。
これから、どうすべきか。
まず、可八には知らせねばならない。入院の準備をお願いしなければならない。可八に言うということは、自然と兄にも知られることだ。
言い訳を考えねばならならい。
愛姫は、「過労」。
自分が一緒にいるのは、・・・。
思考が止まる。恐ろしく冷静な自分の奥底に、激しい動揺が見え隠れする。前髪を掻き毟り、それでも尚襲う冷たい現実が、唇を震わす。
愛姫に罪はない。
罪は、自分にある。
なのに、苦しんでいるのは愛姫だ。
愛姫は、産むつもりだったのか。いや、ならばもっと健康に気をつかうはずだ。いつ死んでもいいような投げやりな生活を送るはずがない。そう、まるで自然に流産するのを待っているかのような凄惨さ。
瑞希自身、愛姫から打ち明けられたとしても、堕ろす方向の話をしたはずだ。どちらにせよ、この世に生をうけられなかった子。なのに、この罪悪感。地の底へ叩きつけられたような絶望感。
愛姫のバッグから財布をとりだし、免許証を見て電話をかけた。
瑞希の声を聞いた可八は、ひどく怯えていたが、愛姫の入院のことを耳にした途端、口調がしっかりとした。
「どこが、悪いのでしょうか。」
「医者は過労だと言っています。一週間は入院して欲しいとのことです。」
「わかりました、すぐ準備して伺います。」
「いえ、今日はもう遅いですから、明日の朝来てください。」
「でも、つきそいとか・・・。」
「完全看護だそうですから、大丈夫ですよ。」
明羅の書いた記事を読む限り、可八は、愛姫の影にいるという印象が強かった。だが、そうでもない。子が、親と対等になる日が来るように、可八は円熟している。
瑞希は、その後明羅に電話をした。
今晩は帰らない。完全看護だろうと、看護師に何と言われようと、帰らない。愛姫が目覚めたとき、一番初めに会わねばならない。会って、話をしなければならない。愛姫にどんなに罵倒されようと、叩かれようと、すべて受けなければならない。
― そんなの、責任じゃないわ! ―
鋭い眼差し。
紺碧に染まった街の中の黒いコートが、脳裏で翻る。
明羅には、詳しいことは何も言わなかった。ただ、今夜は帰らないとだけ、告げた。今までにも、こういうことがなかったわけではない。しかし、次の日の明羅はいつも冷たかった。外泊などということを許せない、潔癖な兄は、瑞希の行動を叱責してきた。
そう、兄の言うことは正しかった。
結果的に、そういうことの積み重ねが、愛姫をこんな目にあわせてしまったのだから。
廊下の待合椅子に体を横たえた。
愛姫の審判は、明日下る。
愛姫が目覚めたのは、まだ日の昇らない早朝だった。
見知らぬ天井に、一瞬戸惑ったが、やがて瑞希と会ったことを思い出し、それからの記憶がないことに気付いた。
病院の検査着のような寝巻きが心地悪い。見ると、腕にはチューブが繋がれている。
(子ども、・・・どうなったろうか。)
まだ生きているとしたら、よほど運の強い子なのだ。
(そうしたら、もう・・・殺せないね。)
ここまでして自分にしがみついているものを、もはや邪険になどできない。それは、いくら冷たくしても寄ってきた可八と同じだ。
と、そのとき。
突然、病室の扉が開いた。ブラインドの向こうの青い朝が白けてきて、その姿を映し出した。
「瑞希さん・・・。」
瑞希も、愛姫がすでに起きていたことに驚いた。一応、様子を見ておこうと思っていただけで、まだ話をする心の準備はできていない。
愛姫も、何と切り出していいのか、わからない。だが、瑞希はもうすべてを知っているだろう。このまま黙っていても仕方が無い。
愛姫は上体を起こし、大きな枕に背を埋めた。瑞希がそれを手伝い、ベッドの脇に腰を下ろした。
「病院に、一晩中いらしたんですか?」
「ええ。あなたと、誰よりも早く、話をしなければならないと思って。」
「話・・・。」
「そうです。その、・・・子どものことを、」
愛姫は息を呑んだ。
「あなたの体が衰弱していて、やむなく、流産させました。」
愛姫は瑞希の表情が無いのを確認した。多分、自分も同じようなのだろう。
「安心なさったでしょう。」
瑞希は、眉を吊り上げた。
「そういう言い方を、・・・・されたくないんです。もちろん、悪いのは俺なんですが。でも、・・・安心したわけではありません。」
「どちらにせよ、この世に生を受けられない子だったわけですわね。私は遅かれ早かれ堕ろすつもりでした。瑞希さんだって、例え知っても、産めとはおっしゃらないでしょう。」
「・・・橋田さんの、気持ちしだいではわからなかったと思います。」
「それは、私と結婚してもよかったということですか。それとも私生児を認知してもよかったということですか。」
愛姫の表情が恐ろしく変わった。言葉が棘のように瑞希を貫く。
「・・・それは、」
「おっしゃらなくていいわ。子どもができたから結婚なんていうカップルを、私が何度嘲笑ってきたかを考えれば、私は決して結婚などしませんし、私生児を産んだりもしませんから。」
さっき。
もし、まだ子どもが生きていたなら産もうと思ったことなど、愛姫はもう忘れていた。瑞希の前で、頑なになる心を声にすることしか頭に無い。
瑞希は、椅子から立ち上がると、灰色のビニル床にひざまずいた。そして、手をついた。
「何と言われても、かまいません。謝ります。本当に、申し訳ありませんでした。」
瑞希の白いシャツの背しか見えない。
愛姫はそれが瑞希の「手」で、こういうときの常套手段なのかとも思った。
だが、例えそうでも、こんなことを望んではいない。瑞希を責める気はない。ただ、子どもができたから結婚してもいいなどという陳腐な台詞に、腹が立つだけだ。
「どうか、・・・頭を上げてください。そんなことなさらないで。瑞希さんが謝るいわれなどないんですから。」
「いいえ、俺が悪いんです。橋田さんに甘えたのが、悪かったんです。」
「もし私に少しでもその気がなかったなら、どんなことをしてでも拒絶していました。それをしなかったのは、多分私にも必要だったんです。・・・だから、瑞希さんが謝ることはないんです。」
愛姫は、ベッドからそっと降り、瑞希の体を起こした。点滴の針が抜け、痛みが走ったが、それもいいと思った。
真摯な表情の瑞希は一層男前だった。顔のいい人間は、やはり得だ。こんな表情を見せられたら、女は誰でも何でも許してしまうだろう。この男が、いきさつはどうあれ、今自分のためだけにここに存在しているということを、すごいと思ってしまう。
瑞希は、どうしていいかわからなかった。ろうけた愛姫の顔は、化粧をしているときとあまり変わらない。眉墨がなくても眉は濃いし、アイシャドウをしなくても、二重まぶたは濃い茶色の影を落としている。アイラインなどしなくても、目の輪郭ははっきりしている。ファンデーションなど塗らなくても、白い肌の肌理は細かくて認識できないほどだ。
化粧品やカラーリングで容姿を飾り立てている女たちと比べて、愛姫は自然体で美しい。マニキュアと除光剤で艶をなくした爪先も、愛姫には縁のないもので、素のままで桜貝のような光沢がある。
女の真価。そんな言葉が思い浮かんだ。自然の美を、愛姫は知っているのか。
瑞希が立ち上がると、愛姫は頷いた。
「私は大丈夫ですから、どうぞお帰りになってください。お仕事もあるでしょう?」
「ええ。でも、藤木さんが来るまではいます。」
「可八に、・・・連絡したんですか。」
「バッグの中の免許証を無断で見させて頂きました。橋田さんがお帰りにならないと、心配なさると思ったので。」
「そうですか。・・・すみません、ありがとうございます。」
愛姫は部屋の時計をチラと見ると、言った。
「すみませんが、部屋から出ていただけますか。着換えたいので。」
「着換える?」
「ええ。」
「でも、藤木さんが来るまで着換えは・・。」
「可八が来る前に、帰ります。」
瑞希は、一瞬耳を疑った。
「帰る?何を言っているんです?あなたは、入院しなければならないんですよ。」
すると、愛姫の表情が厳しく引き締まった。
「こんなことで仕事は休めません。第一、今日は大事な法廷があるんです。寝ていられません。」
「馬鹿言わないで下さい、あなたは自分の体がそんなに丈夫だと思っているんですか?」
「丈夫でしょう、こうして立っていられるのですから。」
「丈夫じゃないから、衰弱して、子どもが駄目になったんじゃありませんか!」
すると、愛姫の表情がゆがんだ。
「どうせ、・・・どうせ、いつかは堕ろすつもりでした。私の体のせいじゃありません!」
愛姫はくるりと背を向けると、瑞希の目をものともせず、寝巻きの紐をほどき、上着を脱いだ。瑞希が出ていかないのなら、このまま着換えてしまおうと思った。今更、恥ずかしがることもない。どうせ、全部知られている。
慌てたのは瑞希だった。愛姫がワイシャツを羽織ったところで、それを阻止しようと腕をつかんだ。
「離して!」
見ると、その腕から一筋の血が流れている。点滴の針を抜いた穴からだ。
「ベッドに戻ってください。手術をしているんですよ、立っていいわけがないでしょう?まして、仕事などと!」
「子どもを堕ろしたのは、私の勝手です、病気とかじゃないんです!それを理由に休めません。休みたくない!」
通勤途中に動けなくなって有給休暇をとったとき、情けなさで自己嫌悪に陥った。もう二度とこんなことで休むまいと誓った。
「駄目ですよ、無理したら、また倒れます!」
「倒れたから、何です?私なんか、死んだっていい!」
「橋田さん!」
「私は、人殺しをした。生きる資格なんかない!温かいベッドで、眠る資格なんかない!」
ヒステリックに叫び、もがく愛姫を後ろから抱きかかえようとするが、抵抗は増すばかりだ。
「何をしているんです!?」
起床の時刻を知らせにきた看護師が入ってきて、驚きの声をあげた。瑞希は、額に汗を浮かべながら言った。
「すみません、どうしても仕事に行くというので。」
すると、看護師も愛姫の下にかけよってきた。
「何を馬鹿なことを!あなたは病気なんですよ?あんなに体を弱らせて。これ以上婚約者に心配かけさせてどうするんです?」
思わず、愛姫の動きが止まった。
(婚約者?)
瑞希の方を見ると、今とばかりに瑞希は愛姫を抱き上げ、ベッドに寝かせた。シャツを着られなかった素肌が瑞希の白いシャツに触れた瞬間、愛姫は全身に電流が走るような感覚を覚えた。そして、瑞希がいつもつけているコロンの香り。愛姫の大好きな冷たいダージリンの香りがほのかに鼻をくすぐり、そのせいか驚くほど神経が落ち着いていった。
「藤木さんに言って、うまく話をつけるから、休んでくれ。頼む。」
婚約者という立場上、やむなく使ったタメ口がこそばゆい。寝かされても、なお瑞希の腕をつかみ、愛姫は首を振った。
「誰にも代わりはできません。できないと、思っています。だから行かせて。」
「駄目だ、絶対に。無理をしたら、法廷で倒れる。それこそ、周りの迷惑だ。自分の目線だけで物事を考えるな。」
瑞希の瞳は、つらそうに見える。切なさで揺れている。愛姫は唇を噛み、そっと瑞希から手を離した。
「一日も早く復帰したいのなら、今休むべきだ。藤木さんから事務所へ連絡を入れてもらう。それなら、いいだろう?」
「・・・なんて?」
「過労で入院。嘘ではないから。」
瑞希は愛姫の目の色が落ち着いたのを見届け、看護師に後を頼んで廊下に出た。可八に電話をし、事務所への欠勤連絡を頼んだ。
『十時過ぎには病院へ行きます。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。』
「いいえ。」
可八は、どうして愛姫と自分が一緒にいるのかと訊ねない。それは自分を恐れているからなのか。
看護師がいるところで、本音の話はできない。愛姫をこれ以上興奮させたくもない。
瑞希は、とりあえず仕事に行くことにした。愛姫の言うとおり、「こんなこと」で仕事を休めない。いや、「こんなこと」などで片付く問題ではないのだが、身から出た錆のようなことを理由に休めはしないということだ。
よく考えれば、可八に会いたくもなかった。どんな顔をして会えるだろう。愛姫を妊娠させた挙句、流産させたなどと、今まで自分で罵った相手に顔向けができない。
ふと見たシャツの袖に、一筋の血がにじんでいた。愛姫の血だ。
流産したことを、愛姫がどんなに罪と感じているか知ってしまった。
人殺しと言った。
そう、殺したのは瑞希自身だ。なのに、愛姫はその責任を一身に負い、休む資格さえないと叫んだ。
そんな風に思っていたのか。
そんな風に自分を責めるのか。
病院の外に出ると快晴の冬の冷気が口中を凍らせた。薄い白いシャツにジャケットを羽織らず、瑞希はまっすぐ前を見据えて歩き出した。
愛姫が苦しむのなら、自分はそれ以上に苦しまねばならない。