第2話
愛姫の勤める法律事務所は新橋の雑居ビル内にある。愛姫は弁護士だ。父をあれほどに嫌いながら、結局同じような道を辿っている。違うのは、愛姫はエリートではないということだ。大学を一浪し、司法試験は5回目でやっと合格した。その間、愛姫は生活のためにアルバイトし、可八は家の中のことを仕切った。学業と、両立しながら。
望月明羅の名刺の輪郭を指先でなぞりながら、愛姫はどうしたものかと考え込んでいた。
記者が来るたびに過去を辿る。そして、それを公表することにどんな価値があるのかと悩む。分別がつき、大人に対して自己主張できる様になってからは、取材をすべて断っている。 父の差し向けた記者など、また父を褒め称えるのではと、疑わずにはいられない。本来ならすぐにでも断っているところだが、愛姫の判断を鈍らせているのは明羅自身のことが気になっているからだ。これが縁でどうにかなるかも・・・そう考えたところで、愛姫は自嘲した。可能性のほとんどない、馬鹿げた幻想だ。いい年をして、まだ夢物語から抜け出せない。
愛姫はその夜、明羅に会うことにした。やはり、取材は断ろうと思う。こういう嫌なことは、早く済ませたほうが良い。
明羅の新聞社は有楽町にあり、二人は新橋駅前の喫茶店で待ち合わせをした。レンガの壁、オークの深い色合いのテーブルにのせられた銀の食器が高級感を醸し出している。出されたコーヒーに口をつける間もなく、愛姫は話をきりだした。
「記事は、拝見しました。良い視点で、中立な立場を守っていらっしゃることがわかりました。・・・ですが、取材はお受けできません。」
記事の入った袋を受け取り、明羅は表情を曇らせた。
「私生活に土足で踏み入るようなことはしません。」
「そうかもしれません。でも、」
「必ず、原稿はお見せしますし、それと違うものを出したりはしません。正式な契約書も作ります。」
愛姫はゆっくりとうなずいた。
「それも、わかっています。一応調べておりますから。ですが、私も可八も事件とは無関係のところで散々な目に逢いました。それは、父の身勝手さと、マスコミの扇動的な報道によるものです。怖いのです。もう、二度とあんな目に遭いたくないんです。」
明羅は、伏せ目がちに視線を宙に浮かせた。
「よほどの思いを、されたのですね。」
「私たちの二十年は、今までの記事のような美しいものでもなければ、自虐的なものでもありません。本当の真実は、言葉で表現できないんです。言葉にすれば、別のできごとになってしまう。」
「私が世間に伝えたいのは、事実の裏にある素の感情です。悲劇的に脚色するつもりもありません。橋田さんと藤木さんが歩んできた軌跡を、そのまま伝えたいのです。興味本位で探るようなことはしません。マスコミに翻弄されたという過去自体、警鐘として、ありのまま伝えたいと考えています。それに、取材させていただくからには、それなりの覚悟を持っています。」
「覚悟?」
「はい。」
愛姫は初めて明羅の目を正視した。切れ長の黒い瞳は、あまりにも誠実そうで、負けそうになる。思わず、横を向いてしまった。
「いい年をして、と笑わないで下さい。人を見る目を養っても、わからないんです。信じてもいい決定的なラインがわからないんです。」
「それは、少なくともあなただけではないと思いますよ。私だって、わからない。」
愛姫の直感は、相手の容姿に左右される。それを弱点と知っているから、判断しかねている。
「橋田さん、もしお許しいただけるなら、藤木さんに会わせていただけないでしょうか。」
「・・・可八に?」
「その上で、お二人の目で判断していただけませんか。」
愛姫は躊躇した。可八は世間知らずな上、記者には拒否反応さえ示す。人馴れしていない分、口下手でもある。そんな可八を記者と会わせるのは不安だ。しかし、そんな可八だからこそ判断基準になるとも考えられる。
「可八の方が私より警戒心が強いと思います。どうか、くれぐれもご配慮ください。」
「もちろんです。藤木さんが不審を抱くようなら、私は潔く身を引きます。」
よほど自信があるのか。明羅は女性から邪険にされたことなどないだろうから、それが自信に繋がっているのかもしれない。
(多分、可八も・・・・。)
愛姫は、可八がたやすく墜ちるとすでに確信していた。
おそらく、自分と同じように。
明羅の取材は、連載の間六ヵ月も続く。想像以上に丁寧な取材をするようだ。しかし、それは想像以上に過去を掘り下げられるということに比例する。たとえ明羅がどんなに気を配って質問をしたとしても、引き出すものは同じだ。
「明日、お墓参りに?」
ある晩、愛姫は可八の言葉を聞き返さないではいられなかった。
明羅が、可八の両親の墓参りに行くというのだ。
「それも、記事の材料になるの?」
「そのようです。私の母は父に殺された。その二人が結局同じお墓に眠っていることに興味を持ったようです。」
可八の父は獄中で自殺した。可八の母が浮気をして借金まで作ったことを許せず、殺意を抱いたと聞いている。事件を担当した検事が愛姫の父だった。正義感の強い父は、両親を失い親戚からも見放された可八を不憫に思って引き取ったと伝えられている。
「かまわないでしょうか。」
「えっ?」
「望月さんをお墓へ連れて行っても。」
愛姫は、可八の洗った皿をナプキンで拭きながら何気ない顔つきで頷いた。
「別に、私に聞く必要はないわ。可八はもう大人だし、自分の判断で決めればいいでしょう。」
「でも、望月さんが愛姫さんに聞いてからと。」
愛姫は思わず可八を睨みつけた。
「なぜ、私に?私が可八の行動を制限しているみたいじゃない?」
思いがけない愛姫の強い口調に、可八は口を噤んだ。そんな可八に、愛姫は腹立たしさを覚え、ナプキンを置いてキッチンを離れた。
望月の配慮が、まるで恋人をデートに誘うのに母親の許しを得てから、というニュアンスに聞こえたからだ。
(私は、可八の保護者じゃない。)
だが、無意識のうちにでも可八の行動を規制し、監視していたのかもしれない。望月にも、そうとられていても不思議ではない。
しかし。
愛姫は、なぜこんな居た堪れない気持ちになっているか、わかっていた。可八に嫉妬している。自分より明羅に近い位置にいこうとしている可八に、嫉妬している。自分でもばかばかしいと感じながら、心はもう、明羅のほうへ動き出している。
(いいえ、まだそんなんじゃない。第一、望月さんだって取材対象を恋愛の候補としてなんて見ていないだろうし。)
そんな言い訳をする自分ほど情けないものはない。
初めから惹かれてた。
だから、取材を断れなかった。
もし可八が拒んでも、何らかの形で明羅との接触を試みただろう。それがわかっているから、腹立たしい。
次の日、可八を迎えに来た明羅に、愛姫は言った。
「可八への取材に、私の許可は必要ありませんから。可八は大人です。干渉するつもりはありません。」
すると、明羅はゆっくりと頷いた。
「そう、取られましたか。私としては、橋田さんが心配なさると思ったので、一応お知らせすべきだと。」
「心配はします。でも、私は可八の保護者ではありません。」
「確かに。でも、藤木さんは橋田さんを本当に信頼していて、依存していますね。」
「依存?いいえ、可八は自立していますわ。」
「悪い意味ではありません。藤木さんにとって頼れるのは橋田さんしかいないのだとわかったんです。心から、慕っていますよ。」
愛姫は苦笑した。
「望月さん。可八は多分私に不利なことはお話しないでしょうが、それは私が恐ろしいからです。・・・いずれ、お話します。可八の話だけを記事にしたら、それこそ父も私も賛美すべき存在になってしまいますから。」
明羅はその射るような鋭い目で愛姫を一瞥し、支度を終えた可八と墓参りに出かけていった。
愛姫は、明羅にはすべてを話さねばならないのだろうと思っていた。可八が話す限り、そのすべての裏を明るみにせねばならない。それが可八と取材を受けた自分の責務だからだ。嫌なら可八への取材を阻止すればよかっただけの話だ。そして、自分の都合の良いように話をすればいい。だが、それをしなかった。
もしかしたら、このけじめのない可八との関係を第三者に判断してもらいたかったのかもしれない。何かしらの句読点を打ちたかったのかもしれない。
新緑がまぶしい日比谷公園は、噴水の水飛沫が涼しげで、格好のオアシスだ。この時期の昼ともなれば、多くの人たちであふれる。
愛姫はこのコンクリートジャングルに囲まれた緑が好きで、少しの時間でもあれば、ランチにやってくる。一人で冷たいアイスティーを飲みながらぼんやりと景色を眺めるのが、一番の癒しなのだ。
「やはり、ここでしたか。」
突然の親しげな言葉に、愛姫は驚いて目を見開いた。気づかぬ間に、明羅が立っている。白いシャツの袖をまくり紺の上着を肩に背負った長身の男は、周りのOLたちの視線を集めていた。途端に高鳴る鼓動が、愛姫の唇を振るわせる。
「藤木さんに聞いたんです。ここがお気に入りだと。」
「そうですか・・。」
「お寛ぎのところ申し訳ないとは思ったのですが、少しでもお話を進めたいと思ったので。お時間、いただけますか。」
どうして、駄目だと言えるだろう。クライアントとの面談がない限り、頷く以外ありえない。やはり顔のいい男は得だ。そして、女も。
「先日は、可八がお世話になりました。お墓参り、いかがでしたか。」
明羅は、愛姫のとなりのベンチに腰掛けた。
「藤木さんの中ではご両親の記憶がほとんどないようですね。」
「ええ。六歳のころのことでしたし、事件の記憶は特に閉じ込めてしまっているのではないでしょうか。父の話では、可八の父親が母親を殺す現場を見ていたようですから。」
明羅は身を乗り出した。
「それは、本当ですか。」
「ええ。でも、それ自体可八の記憶からは抹消されてるんです。ただ、時々夢でうなされているときもあって・・・。それは、事件の記憶が時々浮かび上がってくるからだと思っています。」
「それは・・・初耳です。」
「可八に直接言ったことはないんです。」
「では、記事にはしません。・・・そうですか、藤木さんの知らない事実は二十年経っても尚存在するんですね。」
愛姫は風に揺れる木の葉を眺めた。
「言えないことは沢山あります。事件後の可八は暫らく精神を患ったこともありますが、本人は何も覚えてないんです。」
「それは、あなただけが知っていることですか。」
愛姫は少し口を噤み、そして開いた、
「そうです。父にも言えなくて。」
「橋田さんだって、まだ子供だったでしょう?」
「だから、言えなかったんです。・・・怖くて。」
愛姫はスッと立ち上がり、明羅を肩越しに見下ろした。その瞳が悲しげで、明羅は言葉を失った。
「望月さん。あなたは、取材をするからには覚悟をしているとおっしゃいましたね。でも、これ以上のお話をしたら、私たちの人生に深く立ち入ることになりますよ。どんなに取材と割り切っていても。」
「わかっています。」
続けて立ち上がった明羅を、愛姫はまぶしく見上げた。つらい過去を、今まで自分の中だけに押し込めてきた。それをここで吐き出せば、絶対に相手にすがりたくなる。つらさを理解し、受け止めてほしいと願ってしまう。だが相手は記者で、そう出来る相手ではない。
「いいえ。望月さんは今までほとんど可八の話しか聞いてらっしゃらないからそうおっしゃれるんです。」
「見くびらないで下さい。これでも色々なものを見、色々なことを聞いてきました。どんなことでも、冷静に受け止める力は培われてきていると思っています。」
愛姫は、これ以上明羅に心が動くことが怖かった。もう、ほんの少しのきっかけで、ものすごいスピードで走り出していくことは間違いないと思われるからだ。だが、そんな理由で取材をセーブするのもどうかと思う。だが、やはりこれ以上明羅と関わるのが怖い。
母の自殺も、父の浮気も、すべて一人で抱え込んできた。
あまりにも多くの秘密を抱えすぎた。特定の友人もいなく、恋人もいたことがない。
十二歳のあの日から、可八とだけの人生を歩んできたのではないだろうか。他人の介入を許せば、秘密が明るみにでる。それを、恐れて。
昼休みが終わりに近づき、人気が減ってきた。
愛姫は、自分にこそ覚悟が必要だと思った。
自分の抱え込んできたものを誰かに半分背負ってもらおうなどという甘えを捨てきってしまうこと。いつか、誰かに打ち明けて楽になりたいと思っていた自分を捨てること。
今こそ、それを実行すべきときなのかもしれない。
明羅という、とてつもない誘惑を実験台にして。
「一週間後、時間がとれます。そのときまた、続きをお話します。」
「わかりました。でも、話すラインは橋田さんの判断で決めてください。無理強いはしません。」
愛姫は少し微笑んだ。
「記者は、それでも聞き出すのがお仕事だと思っていましたけど。」
明羅も、穏やかに瞳でこたえた。
「そうですね。でも、こちらもラインはわきまえていますから。」
陽に照らされた頬が赤く染まっているのは、明羅の肌が白人に近い証拠だ。あまり日焼けせず終わるのだろう。そんな何気ない発見が、今の愛姫には嬉しかった。そして、同時に寂しかった。
明羅は自分のものにはならない。
そんな予感が、なぜか胸をよぎった。