第19話
次の朝。明羅と可八の電話での会話から、瑞希は愛姫が出勤したことを知った。
この間と同じように、帰りを待ち伏せするしかないだろう。
マンションには可八がいる。可八に聞かれたくはないし、第一、会いたくもない。
仕事を失くし、いくつかの学校の講師をかけもちしている瑞希に時間はある。退社予定時刻より早めに愛姫の事務所のあるビルの前にたどりついた。いくら待ってもいい。とにかく、会って話をしなければならない。
愛姫が出てきたのは、五時を少しまわった頃だった。
かなり早い。やはり、まだ身体が本調子ではないのか。
黒いコートが、心なしか浮いて見える。一回り痩せたように見えるのは服のせいだけではないだろう。冷たい風を切って足早に行き過ぎる愛姫を、瑞希は後ろからつかまえた。
つかんだ肩が細い。
愛姫は、驚いた様子だったが、それを表情に出すのもつらそうに無表情だった。
「話・・・、させてください。」
愛姫は蒼い顔で目を伏せた。
「すみません、具合が悪いので、また今度に。」
「じゃあ、病院へ行きましょう。タクシーをひろいますから。」
「医者は嫌いです。どうかかまわないで。」
先に立って歩き出した愛姫を、瑞希は追った。
「待ってください!」
瑞希が力いっぱい愛姫の腕を引き寄せた。力の無い愛姫は、そのまま瑞希の胸の中に崩れ込んだ。
「医者へ行きましょう。」
愛姫は、子どもが駄々をこねるように瑞希の腕の中でもがいた。
「俺は、今日、なんとしてもあなたを医者に診せるつもりです。」
「そんな権利、あなたにはないわ!」
熱い息を吐き出すように、叫ぶ。
「そう、言い切れますか?」
挑戦的な物言いで、瑞希は愛姫を軽々と抱き上げると、大通りへ向かって歩き出した。
見上げた瑞希の横顔は真剣で、その腕はあまりにも力強かった。
愛姫は胸に疼きを覚え、しかし、その甘苦さも痛感した。
このまま瑞希にしがみついてしまおうか。
そうしたら、きっと楽になれる。独りで苦しまなくてもいい。
だが、ここでそれを許してはいけないと、愛姫は自分の心にムチ打った。
駄目だ、知られてはいけない。
「お願い、降ろしてください・・!」
「駄目です。」
「いやなんです、どうしても。」
「ご自分の身体を、何だと思っているんです?」
「そうです、私の体です。だから、瑞希さんには関係がありません。」
「・・・・そのお腹にいる子は、俺の子ですよ?」
「!」
瑞希が立ち止まり、二人の視線が重なった。
音がしそうなほど、激しい視線。
愛姫は、瑞希がすべてを察してしまっているのだと悟った。
そう、知っているから、わざわざ尋ねてきたのだ。
そして、その事実を確認しようというのだ。
だが、その先は?
それは、ひとつだ。
瑞希は、愛姫の目がすべてを語っていると確信した。
そうか、やはり妊娠している。
アフターファイブの新橋に、人が溢れ始めた。家路を急ぎながらも向けてしまう好奇の目も、今の二人には問題ではない。
愛姫は言った。
「子どもって、何のことです?」
「えっ、」
「何か、思い違いをしてらっしゃいます。」
愛姫は自分のためなら、どんな嘘でも冷静につける。それが自分の醜く、厭らしい本性だと知っている。
瑞希は、ゆるぎない愛姫の目を見つめながら、気をとりなおした。
「それは、病院に行けば、はっきりすることですよね。」
「そんな必要、ありません。」
「あなたの体と顔色だけで、十分その必要はありますよ。」
瑞希は再び歩き出した。
このまま医者へ行かれたら、一貫の終わりだ。早く瑞希から離れなければと、愛姫は苦し紛れに言った。
「降ろしてください、私・・・瑞希さんに触られるの、怖いんです。」
瑞希の肩が一瞬硬直したようだったが、再び表情を固く引き締めていた。
「何と言われても、俺はあなたを病院へつれていきます。タクシーがつかまらなかったとしても、歩いてでも、絶対につれていく。」
愛姫は仕方なく、つま先を軽く振った。黒のパンプスが、コロンとアスファルトに落ちる。
「瑞希さん、靴が・・・。」
「靴なんか、あとでいくらでも弁償します。」
「あの靴がいいんです、あれでないと駄目なんです!」
瑞希は、軽くため息をつき、そっと愛姫を地面に下ろした。そして自ら道を戻り、靴を拾ってくると、すばやく愛姫の下に跪き、それを履かせた。
「ありがとう・・ございます。」
都会の空がラベンダーからネイビーブルーへと染め変えられいく。
そして、ビルの明かりが浮かび上がってくる。信号の赤も輝きだした。
「私は、大丈夫ですから。ご心配なく。」
「病気でないなら、なぜ具合が悪そうにしている?変でしょう。」
「瑞希さんには関係ないことです。放っておいてください。」
「ならば、関係ないことを証明してください、病院で!」
「そんな必要ないわ!」
愛姫は一歩、そしてまた一歩、後ずさる。
ここで負けてはいけない。
そして、一刻も早く処分しなければならない、子どもを。
そして何もなかったように、日常を取り戻さなければ。
背を向け、立ち去ろうと思った。
と、その瞬間。
愛姫の下腹部に、ものすごい激痛が走った。思わずそこを押さえ、顔をゆがめる。
(だめ、耐えて歩かなければ。でなきゃ、わかってしまう。)
愛姫は下唇をギュッと噛み、前を見据えた。だが、あまりの気分の悪さに、立つのもつらくなっている。
(このくらいで死んだりしない。だから、しっかりするのよ!)
自分を叱責しながらも、額に噴出す汗を感じる。
急に動かなくなった愛姫に不振を抱いた瑞希は、再び愛姫の肩に手をかけた。
愛姫は、筋肉が吊るような下腹の痛みをこらえながら、言い放った。
「瑞希さんが心配なのは、どうせ私の体ではなくて、妊娠したかどうかということでしょう?」
「・・・確かに、それが一番気がかりです。でも、」
「どうぞ安心なさって。私、妊娠なんてしていませんから。」
「橋田さん、俺は、」
「例え妊娠していたとしても、瑞希さんにできることなんて何もありませんし。」
まだ、痛くて歩き出せそうにない。油とも冷や汗ともつかないが、額と背から滲み出すのがわかる。
「そんなことはありません。とるべき責任はとります。」
その言葉は、愛姫の神経を逆撫でした。肩越しに振り返り、愛姫は嘲笑った。
「責任って何ですか。中絶のお金を払うことですか、それとも結婚することですか。」
「・・・・・それは、」
「男の言う責任なんて、その二つに一つしかないじゃないですか?笑わせないで、そんなの責任なんかじゃないわ!」
日比谷公園の寒々しい針葉樹が、風でザワザワと音をたてた。
愛姫は、瑞希をにらみつけた。眼球に力を入れることで、痛みを分散しようとするかのように。
「女の体には一生跡が残るんです。責任をとるなんて言ったって、その跡は消せないんですよ、例え神にだって!その肝心なことができないくせに、責任だなんて偉そうに言わないで下さい!」
「・・あなたの気が少しでも済むようにしてください。過ちなんて言葉ですまされるとは、毛頭思っていませんから。」
「・・・・別に、妊娠しているわけではないんですから、いいんですけど。」
瑞希は、その言葉に嘘を感じた。
さっきの愛姫の怒りは、本物だった。妊娠したからこそ口をついて出た言葉だと思った。しかし、愛姫が言わないと決めたことなら、死んでも口を割らないように思える。
愛姫は、そのまま歩き出した。
が。
突如、歩道の真ん中に愛姫の体が崩れ落ちた。
ひざが崩れ、上半身がそれに伴って宙に舞った。
「橋田さん?」
瑞希が慌てて駆け寄ったときには、愛姫の目は固く閉じられていた。
「橋田さん・・・・、橋田さん!」
抱き起こして上半身を揺すったが、愛姫の反応はない。
この只ならぬ有様に、周囲の人々が立ち止まり始めた。
「救急車を呼びますね!」
中年のサラリーマンが、そう言って携帯をとりだしている。
意識のない愛姫の青い額に頬を寄せて、瑞希はしきりに奥歯を噛んでいた。
愛姫をこんなふうにしてしまったのは自分だ。妊娠しているかどうかが問題ではない。自分が犯した過ちの結果が、これだ。
自分を被害者だと思っていた。
すべて自分だけが背負っているような気になっていた。しかし、本当は違う。
二十年もの間、一から十まで背負ってきたのは、愛姫自身なのだ。
救急車が来るまで、そして病院に着くまで、それはひどく長い時間に思えた。
瑞希には、誰の声も、誰の顔も眼中になかった。
ただただ、愛姫の苦悩を思い、自分の被害者意識を悔いていた。