第18話
朝、駅へ向かう途中、愛姫は突如腹痛を覚えた。
そして、吐き気はないものの気分が悪く、太腿の筋肉に力が入らず、引きずるようにしか歩けなくなった。
そのうち、脂汗とも冷や汗ともつかないものが額と背中から噴出してきた。
駅のトイレの広い個室に入り、便器に腰掛けたまま、症状が落ち着くのを待とうと思った。 腰から太腿にかけての関節が痛いため、足を伸ばしてみたり、少しでも楽になる方法を考えた。だんだん息が荒くなり、冷たい壁に身体をもたれかけさせないではいられなくなった。
立てないほどに辛い中で、このまま流産でもしてしまえばいいと思った。そうすれば、何のあとくされも無く、すべてが解決する。楽になれる。自然の流産なら、罪悪感も無くてすむのではないか。
時計を見、出勤にまだ余裕があることを確認する。このまま動けなくなることも、意識を失うようなことはないだろう。
汗で濡れたキャミソールが肌にへばりついている。放っておくと、風邪をひくかもしれない。
二十分が経過した。そろそろ行かないと仕事に遅刻する。しかし、立ち上がった途端に気分が悪くなり、また座り込んでしまった。
横になりたい。
このまま、冷たいタイルの上でもいいから、身体を楽にしたい。
(大丈夫。もう少し休んでいれば・・・。)
とうとう四十分が経過してしまった。
事務所へ遅刻の電話をかけた。
トイレの個室で電話をするなど、周りの人から見たら奇妙だろう。もしかしたら、「大丈夫ですか。」などと声をかけられるかもしれない。だが、ここで休んでいることを他人になど知られたくなかった。知られたくないし、詮索もされたくない。絶対、放っておいてほしい。
だが、本当にこのままだったらどうすればいいだろう。這ってでも家へ戻らねばならない。 タクシーでも拾うか。だが、そこまで行くことさえもが、今はできそうにない。
可八に助けを求めるか。
いや、そんなことをしたら、病院へ直行されてしまう。
父に助けてもらうのも御免だ。
では、誰に・・・?
瑞希なのか。
いや、駄目だ。
瑞希は他人だ。他愛ない話もできないほどの他人だ。
なのに、そんな相手との間に子どもを作ってしまった。
(泣いてるのだろうか。こんな私に消されてしまう命が、必死に訴えているのか。それとも、罰があたったか。)
それも致し方ない。自業自得だ。
(でも、産めない。産めるわけがない。)
産めば、絶対瑞希に気付かれる。隠し子みたいな存在は、ステイタスや世間体を重んじる瑞希には人生最大の障害となるだろう。
例え相談しても、絶対産めとは言わないはずだ。きっと、だまって金を差し出す。女慣れしていると聞いている。もしかしたら、こんなことは初めてでないかもしれない。
男は残酷だ。
女を抱いた手で、堕胎のための金を握る。それで、すべての責任を果たしたような顔をする。殆どの男は、堕胎の方法など知らないくせに。かろうじてヒトになった頭をはさみで打ち砕くところを、想像だにしたことなどないくせに。
やはり、言わない。
一人でかたをつける。
つけてみせる。
愛姫はその日、仕事を休んだ。幸い押し迫った仕事はなかった。
だが、ベッドで寝ているところを、帰宅した可八に見られてしまった
しきりに病院へいこうと言う。無理やり救急車を呼びかねない勢いで、可八は愛姫を嗜めた。
「重い病気だったらどうするんです?絶対、もう駄目ですよ!」
そのとき、リビングから電話の呼び出し音が鳴っているのが聞こえた。可八が部屋を出て行く。
相手は、明羅だった。可八は優しい恋人の声に、思わずすがりついた。
「愛姫さんが、ずっと、具合が悪いんです。なのに、薬も飲まないし、病院へもいかないで放っておくんです。今日なんて、お仕事お休みしたんですよ?体調不良でも、熱があっても、絶対お休みなんてしない方なのに。」
『風邪か?』
「いいえ、そうではないようです。ただ、とにかく気分が悪そうで、顔色が悪くて。あまり食べられないんです。以前はお好きだったものまで食べられなくなってしまって。」
明羅は一通り話を聞き、とにかく今日一晩様子を見て、明日も立てない様なら往診してくれる医者を探すように、と言うほかなかった。そして、一人で手に負えないようならいつでも力になる、と添えて。
愛姫の名が電話口の明羅の口から出たとたん、瑞希は思わず息を殺して話に聞き入った。
気にならないわけがない。
あんな別れ方をして、後悔は一層つのった。
愛姫の言葉はどんな蔑みよりも堪えた。
電話を終えた明羅に、瑞希は尋ねた。
「橋田さん、どうかしたのか。」
「ああ、ここしばらくずっと具合が悪いらしい。今日は仕事を休んだそうだ。」
「・・・風邪?」
「いや、よくわからない。とにかく食べられないそうだ。夜もあまり眠れなかったりするみたいだ。」
瑞希の心臓は、勝手に大きく高鳴った。
それは、本能が感じ取った勘のせいだろう。
まさかと思う。だから、口にして楽になってしまおうと思った。
「それって、妊娠でもしてるんじゃないのか。」
すると、明羅の目が厳しく光った。
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるぞ、瑞希。」
「・・・ごめん。」
「橋田さんは、分別のある真面目な人だ。会ったことがないお前には、わからないかもしれないがな。」
「・・・。」
長い前髪の奥で、瑞希は眉をひそめた。
(冗談じゃないんだよ、兄貴・・。)
頬の筋肉が、苦々しく引きつる。
(会ったことはあるんだよ、会って・・・。)
妊娠している可能性は十分にある。
あの夜、瑞希に理性はなかった。
愛姫がどんな女かなど知る余地もなかった。
だから抱けたのだ。
自分が兄を思って苦境を言えずにいたことを、何も語らずしてわかってくれた愛姫に心が動いたというだけで。
謝りに行ったとき、自分を責めてくれれば「そっちにも非がある」と開き直れたのに、「自分から望んだ」と言われれば、それ以上何も言えない。
確かめなければと思った。
その病の、真の原因を確認しなければ。
瑞希は、再び愛姫に会う決心をした。