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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
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第17話

 身体が重く、頭が痛いことなどめずらしくない。顔色が悪いこともままある。

 しかし、今回は少し事情が違っていた。

 その違いに、愛姫の脳裏にはふと一つの考えが浮かんだ。が、あまりの突拍子の無さに自嘲して忘れることにした。

 ところが、一週間たち、二週間たち、三週間目に入った頃、さすがの愛姫も心臓の大きくなる音を感じずにはいられなかった。

 今までなら、日常生活に支障が無いからとほうっておく。だが、今回ばかりはそんな悠長なことは言っていられない。

 一月の下旬。

 愛姫は、自分が妊娠していることを確信した。

 瑞希との夜から三ヶ月。

 周りの目を気にしてなどいられる場合ではなく、思い切って妊娠検査薬を買った。

 陽性の反応がでる。

(どうしたら・・・?)

 飛び出しそうなほど高鳴る心臓に、口を押さえながら愛姫は目を瞑った。吐き気がする。それは、自分への嫌悪だ。

 思わず押さえた下腹部が、命を確信させる。

 愛してもいない男との間に子を妊娠する。

 それを、いままでどれほど嫌悪していたことか。

 そんな種類の女を、どれほど蔑んできたか。

 妊娠したと告げる未婚の女。うろたえる男。滑稽だった。鼻の先であしらってきた。万が一自分がそんなことになったら、男に告げることなく、潔く自分ひとりでけりをつけるつもりだった。しかし。

 いざとなると、何もできない。

 まだ人の形をしてもいない子が、必死に自分の身体にしがみついているようで、振り払うことがためらわれる。

 潔く?

 命を絶つことに、何が「潔い」だ。 

 この問題は、時間が水で流してくれるような類のものではない。放っておけばどんどん大きくなり、取り返しがつかなくなる。「命」、とはそういうものだ。

 中絶という行為が、自分のような勝手な女のために許されているのではないということを、弁護士の愛姫は嫌というほどわかっている。どれほどに重い、責任ある行為なのか、いつも自分に言い聞かせてきた。その辺の女の浅はかさに、何百回と悪態をついていた。

 自分は、違うと。

 自分だけは、決してそんなことになるまいと思っていたのに。 

 音がするくらいに唇を噛んだ。

 自分の責任は、自分でとらねばならない。


 可八は、愛姫の様子の変化に気がついていた。

 今まで、朝食をとらないこともざらだったというのに、最近は何かを必ず口にする。いいことだとは思うが、それが逆に不自然にも思えるのだ。仕方なく食べている、口に入れているという感じがする。食べているわりには顔色が悪いし、全身がだるそうだ。可八は心配になって、夕食の時にきいてみた。

「どこか、具合が悪いんじゃないんですか。」

「そんなことないわ。」

食べ物を箸でつつき、弄ぶようにして愛姫は適当に答えた。

「お仕事が忙しいんですか。」

「ええ。・・・そんなことより、可八は自分の結婚式の心配でもすれば。」

そう言い捨て、席をたった。

 愛姫は、どうでもいいような他愛のないことは可八によく話すし、愚痴も言う。だが、重大なことや肝心なことは絶対に口にしない。相談したこともない。

 可八にとって愛姫は、赤の他人である自分を二十年も存在させてくれた恩人だ。愛姫と出会えなかったら、自分は存在していないと思っている。身を崩しているか、精神異常になるか、死んでいただろう。その恩にどうしたら報いることができるだろうか。

 わからない。

 明羅という分不相応な婚約者を得て、叫びたいほど幸せだというのに、その片隅で愛姫のことが気にかかる。可八は愛姫と別れたくないのだ。叶うものなら、ずっと一緒にいたい。

 明羅との生活に期待を寄せながらも、愛姫との生活も捨てがたいのだ。愛姫と一緒に暮らさなくなれば、もう赤の他人だ。今だって他人なのに、今度は「次」のない他人になってしまう。街ですれちがって無視されたとしても、仕方の無いほどの他人に。

 いつ、その手を振りほどかれるか、ずっと不安だった。今でも、それは変わらない。

 自分が、愛姫の人生をどれほど乱れさせたか。

 よく、一緒にいてくれたと思う。

 結婚して別れる前に、一度くらい役に立ちたい。可八と一緒でよかったと、一瞬でいいからそう思ってもらいたい。愛姫が悩みを打ち明けてくれたら、どんなことだってする。一晩中、うらみごとを聞いたっていい。

 愛姫を、尊敬している。

 だが、愛姫は自分を好いてはいないだろう。時々感じる、愛姫の冷ややかなまなざし。それが可八の心を凍らせる。

(やはり、私は殺人犯の娘にすぎないのだ。)

そう、思い知らされる瞬間が、何度もある。だが、それでも生きていこうと思えたのは、愛姫の時々見せる優しさがあったから。ぶっきら棒に差し出す手があったから。

 夜。

 何気なく目を覚ました可八は、何かの物音を感じ、ベッドから出た。

 明かりのついている方向へ行くと、洗面台の下に愛姫が崩れるように座り込んでいる。

「愛姫さん・・・!」

あわててかけよると、真っ青な顔で愛姫は叫んだ。

「独りにしておいて。放っといてよ!」

「でも、」

「私にかまわないで、頼むから・・・!」

涙声が、可八の言葉をさえぎった。可八は何も言えず、自室に戻る。

 愛姫はどうしてしまったのか、わからない。

 愛姫は病気だと思う。だが、病院へ行くそぶりが無い。

 心配だ。もし、このまま放っておいて死んでしまったとしたら。

 愛姫の意にはいつも逆らえない。だが。

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