第16話
十二月になった。
街にはクリスマスムードが漂い、師走の忙しさを感じさせる。
瑞希は行くところがないはずだが、どうしているのだろう。明羅には、もう、すべてを打ち明けたのだろうか。
空気が冷たく愛姫の頬を刺す。一日過ぎるごとに、瑞希の感触が薄くなっていくのを実感する。
なんとなく、すべてが有耶無耶だ。明羅と可八のことも、瑞希のことも。そして自分のことも。
明日に希望が無く、目標が無いという状況は虚しい。
二十年後にも弁護士をしているなんて、信じられないことだ。まったく想像できない。だが、何となく四十になり、五十になり、気づいたら六十だったなんてことは避けたい。
愛姫は、温かい陽気より、寒い冷気のほうが清清しくて好きだ。
その日のランチは、テイクアウトのスープとブリーチーズサンドを手に、久々に日比谷公園に向かった。
軽やかな足取りの先に、愛しい横顔があった。
その横顔は、ワープロに向かっている。今までは、決して自分から声をかけることはできなかった。だが、今日はあえて隣に座ることを決意した。
「こんにちは。」
「・・・・ああ、お久しぶりですね。」
明羅はまぶしそうに目を細め、ワープロを打つ手を止めた。
「しばらく、公園のほうへはいらっしゃいませんでしたね。」
「ええ、何かと忙しくて。」
「僕はあなたに教えられてからは、時々来ていました。人気の無い公園って、結構いいものですね。」
「・・・そうですね。わかります。」
以前よりも緊張しないで会話ができる。前よりも、意識しなくなったということだろうか。明羅を忘れてかけている証拠か。
「・・・あの、弟さん、どうなさってますか。」
「えっ?」
「可八から、聞いたんです。その、あまり結婚に賛成していない、みたいな。」
「ええ・・・。そうですね、何となく平行線です。それに、最近は朝早く出て学校から帰ってくるのは夜中。僕もそんなに家にいるわけではないので、週末くらいしか顔をあわせないんです。」
瑞希は、まだ何も明羅に言っていないのだろう。いや、明羅が身内の話など愛姫にはしたくないだけなのかもしれない。
愛姫は言った。
「あなたのお気持ちは、弟さんがなんと言おうと、変わらないのですね。」
「変わりません。何があっても。」
「それは、瑞希さんという弟よりも、可八という他人をとるということなんでしょうか。」
明羅の視線が、愛姫に注がれた。
「なぜ、そうなりますか。」
「そう、なりませんか。」
「少なくとも僕の中にそういう感覚はありません。瑞希と藤木さんとは、比べられるものではありません。」
「でも、瑞希さんの反対を押し切るわけですよね。」
「それは、瑞希をないがしろにすることでも、捨てることでもないんです。」
「明羅さんがそう思ってらしても、瑞希さんは苦しみますわ。その苦しみに、望月さんはどう対応するつもりなんです?」
明羅の目は、不思議そうに愛姫を見つめた。
「苦しむ・・・?何にです?」
愛姫は口を閉ざした。
明羅は、本当に何も知らないのだろうか。それとも、知っていて尚、そう言うのだろうか。
余計なことは言えない。下手をすれば、瑞希の気遣いをすべて無にしてしまう。
愛姫は何とか話をうまくそらせようと考えた。
「それは・・・可八の血に、です。殺人犯の血が望月の家に関わることで、一生、苦しむかもしれないでしょう。」
明羅の目が、怪訝にゆがんだ。
「殺人犯の娘が、その血ゆえに罪を繰り返すというのですか。」
「いいえ、例え清廉潔白な聖女であったとしても、その血を継ぐという避けられない事実が、瑞希さんにとっての問題だということです。」
明羅に、こんなことを言うつもりはなかった。明羅を責めるつもりはない。だが、瑞希の気持ちが表にでることなく押し込められてしまうのは、たまらない。
身体の繋がりで、心まで奪われたか。
いや、そんなことではない。
「弟と、・・・そういうことで毎晩言い合いました。橋田さんまで、同じようなことをおっしゃるとは思いませんでした。」
「結婚は、家と家の繋がりです。家族の賛成を得られない結婚は、不幸です。瑞希さんの同意を得られないまま可八が嫁いでも、幸せにはなれません。瑞希さんだって、幸せにはなれません。あなたが、・・・いくら理路整然としていらしたとしても、解決しないこともあるのです。」
「では、結婚をやめろと?」
「いいえ。瑞希さんのお気持ちを確認なさってから、踏み出して欲しいということです。」
「・・・いつか、わかるはずです。結婚して、幸せな家庭を築きます。その様子を見れば、弟も許してくれると思います。」
瑞希の結婚は、駄目になった。それはどうするのか。もう、もとには戻るまい。それは、罪ではないのか。
「犯罪者の家族が世間から冷たくあしらわれるのは、必ずしも非難できることではありません。そういう目こそ、犯罪の抑止力となるからです。犯罪者の血を許さない家は、たくさんあります。いい加減でないお家ほど、そうだと思います。」
「犯罪者の家族を、十派一からげで語らないで下さい。」
「私がそうでなくとも、世間が許さないんです。望月さんが世間の目を厭わないとしても、望月さんの家族がそれに耐えられなければ、意味がないんです。」
言ってしまいたい。
瑞希のこと。瑞希の苦しみ。
それは、仕方の無いこととでもいうのか。
明羅は、可八の見方だとしたら頼もしい。だが、瑞希側から見れば、独りよがりの頑固者だ。
「いわれなき差別に満ちた世間など、こちらからお断りです・・・!」
愛姫は、唇を噛んだ。
明羅の誠実さが、今はうらめしい。
自分を、愛してくれてさえいれば。
瑞希が幸せだった。誰も、傷つかないはずだ。可八が、明羅を好きでさえなければ。
「望月さん、いわれなき差別だからこそ、不幸なんですよ。理不尽な不幸だから、苦しむんです。可八も、・・・瑞希さんも。」
愛姫は、これ以上何か言われたら、瑞希のことを明羅に全て話してしまうと思った。
だから、スッと席を立った。
「私・・・、望月さんが可八を選んでくださって嬉しいんです。あんなに幸せそうな可八を、私はこれまでに見たことはありませんでした。可八は、心から望月さんを信頼しています。望月さんなら、可八を絶対的な力で守って下さるでしょう。私も、望月さんを信じています。理不尽な不幸も、きっと、あなたは吹き飛ばして、幸せにしてしまうのでしょうね。でも、」
愛姫は、足を一歩、踏み出した。
「その幸せが、独りよがりなものにならないことを祈ります・・・!」
ザッと踏みしめた砂利が、パンプスを通して愛姫の足の裏を刺激した。
明羅は本当に知らないのだろうか。
瑞希の苦しみを、悔しさを。
今、どれほどに傷が癒えたかわからないが、一ヶ月前のあの時、確かに傷ついていた。やり場が無く、喘いでいた。それは、自分が一番わかっている、と思う。男の人があれほどつらい表情をしたのを、初めて見た。男の睫毛が震えるのを、初めて見た。
明羅を想う気もちが、瑞希を憂う気持ちにかわっている。
どうしているのだろう。
瑞希は、乗り越えられたのだろうか。
一度謝りにきたとき、あんな風に邪険にしないで、もっと話をしてやればよかったろうか。もっと優しく、接すればよかったろうか。だが、あの時は気恥ずかしさの方が優先していた。自分を防御することしか頭になかった。
足の速度を緩めた。
自己嫌悪だ。
だが、今、瑞希に何をしてやれるというのだろう。なぐさめの言葉など、起こってしまった事実には何にもならない。そばにいて抱きしめてやるような間柄でもない。だが、あの一夜で瑞希を他人とは思えなくなってしまった。しかし、確実に他人なのだ。それをわかっていながら、もう、瑞希が自分の一部になったような気がしてならない。
可八の微笑みの裏には、必ず明羅の幸せがある。
だから、つらい。
瑞希に関わりたくても、関わるいわれも術もないから、それがもどかしい。
瑞希の恋人だったら。
そしたら、ずっとずっと気の済むまで抱いて一緒に泣くのに。
瑞希からの連絡は無い。当然だが、何となく寂しいと思う。気になって気をもんでいるのが自分だけなのかと思うと、情けなくなったりもする。
年が明け、可八は愛姫に指輪を見せた。
プラチナ台に輝くルビー一粒。婚約指輪だった。
「結婚、・・・決まったのね。」
そう言うと、可八は少し困惑した表情を見せた。
「瑞希さんは・・・了承なさってないらしいんですけど。」
「そう。でも、可八の気持ちは固まったのね。」
「・・・はい。」
まっすぐ未来を見据える可八の瞳には、輝きがある。
自殺しかけたとき、結婚を後押ししたのは自分だ。あのまま反対などしたら、間違いなく可八は崩壊したと思う。だから、後悔などしない。
気になるのは、瑞希。
平行線をたどる一方だった事態に、明羅はついに終止符を打つことを決意したのだ。二人の決意に、何も言うことはない。あんなに泣いて騒いだ明羅への恋も、今は静かに凪いでいる。
忘れるきっかけが瑞希との夜だったといわれても、否定はできない。時間は確実に、その気持ちを溶かしていった。時間は、いつも公平で誰にでも味方になる。敵にもなりうるが、それらはすべて、自分の心の持ち様にかかっていて、時間自体は常に公平で冷静だ。
形式ばった披露宴はしないらしい。
だが、結婚式だけはさせてやりたいと思う。住むところはどうするつもりだろう。明羅が今のマンションを出るのか、それとも瑞希が出るのか。
可八は、早ければ四月に小さな教会で式を挙げたいと言っていた。
身寄りの無い可八と、周囲の反対を受けている明羅。にぎやかな式にはならないだろう。それは、悲しいことだ。せめて瑞希だけでも参列してくれれば、心強いだろうに。
愛姫は、もう、可八との生活が残りわずかだと思うと、複雑な気分になった。独りになりたいという気持ちが強かったのに、寂しさがこみ上げる。
(一生可八と一緒だなんてごめんだ・・・って思ってたんだし、淋しいなんて、ないものねだりだ。)
ため息をつくと、自分が独りだということにはっとする。そしてまた、それが今更なことではないと、力なく笑う。
一生、一人でも大丈夫なように心の準備をしている。あと何十年あるかしれない未来は、何と色褪せて希望がないのだろう。仕事に今以上のどんな向上を目指せばいいのだろう。
仕事と、趣味と、お金と、男と、これ以外に何か望めるものはないのか。活力の無い、生きる張り合いのない日々が続く。
しかし、こんな悩みを抱いている日々こそが、実は嵐の前の静けさだったのかもしれない。