第15話
次の日の帰りだった。
勤務先の事務所を出て時計を見ると、もう九時をまわっている。電車の時間も気になり、とにかく急ごうと足早に駅へ向かった。と、そのとき。
突然、後ろから肩をつかまれた。
息も止まるほど驚いてふりむき、暗い夜の闇に浮かび上がった姿に、さらに息を呑んだ。
「すみません、どうしても話をしたくて、待っていました。」
思いがけない瑞希の出現に、愛姫の心臓はこれ以上ないほど高鳴った。
どうしよう。
まともに顔を見ることなどできない。
「少し時間、いいですか。」
「ずっと、待っていらしたんですか。」
「・・・直接、話がしたかったので。」
どうしてか、唇が震えている。目の前の白いシャツがこんなにも心を乱す。
人通りのめっきり少なくなったオフィス街の裏通りの歩道。愛姫は顔を横へ背けたまま、鞄の取っ手をぎゅっと握り締めた。
「この間は、すみませんでした。」
瑞希の穏やかな声が、上から聞こえた。
「・・・どうして、謝るんですか。」
「それは―。」
「謝る必要なんてありません。同意の上・・・なのですから。」
瑞希の体が、愛姫のほうへ一歩近づいた。顔を上げれば、すぐそこにいそうなほど、近い。
「すみませんでした、本当に。」
「ですから、どうして、― 」
「初めてとは、思わなくて。」
「・・・・・。」
「傷つけてしまいました、体も、心も。」
「・・・・・。」
「本当に、すまないことをしました。どうやっても取り返しがつかないけれど、」
「そうです、つきません。」
愛姫は、そのとき初めて瑞希を直視した。まっすぐ見上げて、口を開いた。
「でも、それは私が望んだことです。ですから、謝る必要なんてありません。」
「しかし、」
「心がなかったのはお互い様です。私にも、瑞希さんにも、弱みも強みもないのですから。」
瑞希に見つめられるのはたまらない。自分のすべてを知っている唯一の男だ。
そして、自分も知っている。瑞希の― すべてを。
だが、瑞希は他人だ。
なんとなく親しい、少なくとも他人でないとさえ思ってしまうが、間違いなく他人なのだ。 体を許しても、心を許したわけではない。あの一夜で二人の関係が何か変わったわけではない。だから、悲しいことがあったからといって、いつでもその胸にとびこんでもいい相手でも、なんでもない。
「・・・失礼します。」
そういい残し、愛姫は踵を返した。
瑞希が追ってくる様子は無かった。
そうだろう、あれ以上話すことなどない。
もう、二度と求めてはいけない。
瑞希は、恋人でも何でもないのだから。
寂しくても、悲しくても、自分を迎え入れてくれる男ではないのだから。
独りには、何らかわらないのだから。
変わったことは一つだけ。
自分が男を知っている女になったということ。
ただ、それだけなのだから。