第13話
朝は、少しの狂いもなく訪れる。
乱れた前髪の先の金色の光が眩しく、愛姫は思わず目を細めた。
夕べ、どうやって家にもどってきたのか思い出せない。ただ、重い頭をもたげると、一つの記憶だけがまざまざと呼び起こされた。
男を、初めて知った。
自分の体が自分のものでなければいいと思うくらいに、瑞希の感触が全身に残っている。どんなに体を洗っても、振り払おうと思っても、決してかなわないことがあるのだ。
自分が嫌いなとき、自分の顔を見たくない。
今日は、自分の肌を見ることもできない。
自分が途轍もなく淫らになったような気がして、生理的嫌悪さえ覚える。
瑞希と寝たことを後悔はしていない。だが、それとこれとは別なのだ。
食事などする気にはならなかった。
唇しか見えない口紅用の手鏡で化粧をすませ、早々に家をでた。
涼しい風を感じながらアスファルトを闊歩しているのに、信号で立ち止まると、途端に体が瑞希を思い出す。はっとして思わず腕をつかむと、その感触が自分のそれとは明らかに違っていたことを自覚する。
瑞希と会ったのは、昨日が二度目だったというのに、今まで出会った誰よりも深い関係を結んでしまった。どんな気持ちだったとしても、どんな状況だったとしても、それが良いことだとは思わない。だが、どうしても瑞希を独りにしたくなかった。その手を離したら、もしかしたら一生後悔するような気さえした。
愛姫は、瑞希を愛していたわけではない。
瑞希が自分のことなど何とも思っていないことも、百も承知だ。
しかし、率直に言えば、愛姫にとってこそ必要な行為だったのだ。
ずっと恐れていた。一生、男を知らずに終わるのではないかと。この歳になっても、とコンプレックスを抱えていた。自分が相当に異常なのかもしれないとさえ思うことがあった。自分は自分と言い聞かせながらも、一生独りはやはり寂しいことだと感じていた。そこへ、夕べ初めてのチャンスがやってきた。これで自分を縛り付けてきた劣等感から解放される。そう、冷静に計算していた。これでもう、一生未体験なんて言わせない。一度があるのとないのでは大きな違いだ。
世間の目に、言ってやりたくなった。
自分は、ちゃんと経験済みなのだと。
男を知っているのだと。
何という悲しいコンプレックス。
何という、さもしい見栄。
でも、軽率だったなんて思わない。
いい。
この先、もう二度と男と関わることがなくても、生きていける。
だが、本当に冷めた行為だった。情熱は、悲しみに占領されていた。
ただ、慰めあうためだけにベッドに入る。それを今までどんなに嫌悪し、軽蔑してきたことだろう。貶していたことだろう。
だが、そうせずにはいられなかった。瑞希の全てが必要だった。誰かに抱きしめられたかった。孤独が募っていた。
しかし、もう二度と瑞希とこうなることは無いだろう。
また、苦しみも悲しみも、自分一人で抱えていかなければならない。
瑞希は、他人だ。例え一度寝たからといって、恋人でもなんでもない。苦しいからといって飛び込んで行ってもいい関係にはならない。
愛姫の身体を、愛姫の意思以上に支配しながら、瑞希は違う世界を生きていく。
愛姫は、独りの夜を越えていく。