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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
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第12話

 少しは眠っただろうか。

 カーテンの隙間から差し込む光が白くて、愛姫はあわてて起きた。

 愛姫は、瑞希に会うという目的を持つことで、今日を生き抜くことにした。目的が無くても生きてはいけるのだろうが、何も無しでは心を支えきれそうにない。

 だが、瑞希の仕事場へ行くわけにも行かないし、待ち合わせしようにも、電話にも出てもらえない。会うためには、明羅のいない今、マンションへ出向くしかなさそうだ。

 会わないではいられない。どうなったのか、聞かないではいられない。

 結婚が駄目になってしまったのならば、謝りたい。結局、力にはなれなかったと。可八と明羅の思いに負けてしまったと、正直に言って、謝るしかない。

 明羅をふっきるためにも、瑞希との決着をつけておきたい。

 愛姫は、自分でも大胆すぎるほど大胆な行動に打って出た。

 瑞希の名刺にはご丁寧に自宅の住所も書いてあり、マンションの場所はすぐにわかった。

 八時少し前。

 確実に帰宅していて、夜遅すぎない時刻を考えた。

 高層マンションの7階。表札を何度も確認して、チャイムを押した。

 一度押すと、呼び出し音は二回、繰り返される。

 しかし、何の音沙汰も無い。

 もう一度、ゆっくり、丁寧にチャイムを押した。

(まだ、帰らないのだろうか。)

 次で駄目なら、少し時間を置いて出直そうと、再びボタンを押した。

 ガチャッ。

 突然、扉は開いた。

 ゆっくりと開かれたその内部は、電気がついていないのかと思われるほど暗かった。共用廊下の蛍光灯で、かろうじて瑞希だとわかった程度だ。

 瑞希は、かなり驚いた様子だったが、何も言わなかった。愛姫は戸惑いながらも頭を下げた。

「突然すみません。でも、なかなか連絡がとれなかったものですから。」

 瑞希の荒んだ目が、光った気がした。

「・・・外に話が筒抜けになりますから、中に入ってください。」

 扉を閉めると、瑞希は玄関の電気をつけた。つまり、ここで話をしろということだ。

 突然、アルコールの匂いが鼻をついた。ひんやりとした室内を、気だるい雰囲気が漂う。瑞希の暗い表情に、愛姫は大体の事情を察した。

「用件をどうぞ。」

 壁に肩を預けた瑞希の声は、投げやりで冷たい。

 裾をまくった白いシャツまでが、冷たく感じる。

「可八と、お兄様のことです。許していただきたくて。」

「許す?」

「そうです。可八は出生のことで、ひどく悩んでいました。でも明羅さんの決心が強く、断りきれないと。それで、先日自殺しようと・・・しました。」

 だが、瑞希は顔色一つ変えずに言った。

「だから?彼女は生きていますよね、立派に。自殺のふりをして許されるくらいなら、誰だってやりますよ。」

「そんなこと・・!可八は演技したりしません、本気でした。ただ、周りにいた方たちが止めてくださったから諦めたにすぎません。私はその時にわかりました、可八は、自分の命よりも明羅さんが大事なんだと!」

 瑞希は鼻の先で笑った。

「俺がそんなことで情に絆されるとは思わないで下さい。藤木可八は生きている。そして、兄と旅行にまで出かけている!」

 やはり、瑞希は知っていた。旅行前は、相当もめただろう。

「兄を思って自殺しかけた女が、今ではのうのうと生きている!旅行だなんて、娯楽にも走っている!同情の余地どころか、かえってあてつけがましくて、腹立たしい!」

 瑞希の手が、下駄箱の上のガラスの置物を床へたたきつけた。

 お酒のせいもあるだろうが、相当荒れている。だが、愛姫もこのまま引き下がるわけにはいかない。

「可八の旅行は、私がお願いしました。あの子、今まで旅行をしたことがないんです。修学旅行さえ参加したことがなくて、不憫で、私がお願いしたんです。ですから、可八のことは責めないで下さい!」

 突如、瑞希は愛姫の両肩を乱暴につかみ、揺さぶった。

 恐ろしいほどの形相で、瑞希は愛姫の顔を睨んだ。

「あなたまでそういう嘘を言うんですか。あの殺人犯の娘をかばうんですか!俺の生活をすべて奪った、あの女を!」

「・・・・!」

 愛姫を乱暴に突き放し、瑞希は床に崩れるようにひざをついた。そして、床の上に散らばったガラスの上で、かまわずに拳を何度もたたきつけた。

 むき出しの感情が恐ろしくて、愛姫は何も言えずにただその様子を見ていた。

 やがて、搾り出すような声がした。

「婚約は、破棄されました。学校も、今月一杯でクビですよ・・・!」

「!!」

 懼れていたことが現実になってしまった。だから、電話しても出てもらえなかったのだ。

「どうして、どうして関係のない人間までが巻き込まれなければならない!?それは、あなただって経験していたことでしょう!?俺が、やっと掴んだ幸せを・・・、例え他人にとっては汚いやりかただったとしても、自分には目一杯の努力で手に入れたものを、どうして赤の他人に奪われなければならないんですか!」

 廊下に崩れるように蹲る瑞希を見下ろし、愛姫は突如、母を思い出した。

 冷たくなっていた母。

 傍らでその体を揺する可八。

 そして、明羅を奪った可八。

 瑞希の手が、ガラスで血に染まっている。愛姫は慌ててハンカチを取り出し、瑞希の手にあてた。

「ごめんなさい。可八のために、あなたの人生を狂わせてしまってごめんなさい。わたしは何もできなかった。とりかえしのつかないことになると、わかっていながら・・。」

 瑞希の表情は、長い前髪に隠れて見えない。だが、髪の先が小刻みに震えている。

 愛姫は怖くなった。

 瑞希が、かつての母のようになってしまうのではないかと思うと、唇が震えだす。

 可八のせいで、またも同じことが繰り返されてはならない。

 何もできなかった自分を責めた。

 後悔が無力であるあることを知っているから、切なかった。

 切なくて、切なくてたまらない。

 自分がかつて体験した事と、今、実感している寂しさとがあいまって、それが瑞希の切なさにシンクロして、たまらなくなる。

 瑞希は、愛姫のハンカチを拒絶した。

「橋田さんに謝ってもらおうとは思いませんよ。」

「私は、可八の自殺騒ぎで結婚に反対する気力を失いました。瑞希さんの力になることをやめました。だから、私にも責任があります。」

「だからって、あなたに何ができますか?できはしない、できるわけがない!」

 瑞希の端正な顔が、こんなにゆがめられるのは悲しい。

「あなたが・・・、橋田さんのような人が育てたから、藤木さんは兄の目にとまるような女になってしまったんでしょうね。もっといい加減な、学の無い人間に育てられていれば、と思ってしまう。わかっています、俺が自分のことしか考えられない暴君だってことは。だけど誰だって自分が一番大事だ。その大事な自分が崩れることを耐えられる人間なんかいるわけがない・・・!」

 愛姫は、瑞希の言葉に何度も頷いた。

 明羅を失い、希望が崩れる音をきいたばかりの愛姫には、瑞希の気持ちがわかる気がする。世間では、瑞希を自分勝手と責める人がいるかもしれない。本人に責任の無い出生を責める瑞希を、卑怯とか、冷酷だという人もいるかもしれない。

 だが、愛姫はそうは思わない。

 瑞希の可八を嫌悪する気持ちは、今まで愛姫が可八に抱いてきた気持ちと同じだからだ。

 殺人者の娘であることは、可八のせいでない。

 だが、可八の存在が母を殺した。

 可八の存在が、愛姫の人生を左右した。

 可八の存在が、瑞希の将来を台無しにした。

 その、事実。

 それは抗えない。

 だから、憎んでしまう。

 それを、責めないで欲しい。

 可八の苦しみをわかっていても、なお、責めずにはいられない。

 殺人という罪を嫌悪するからこそ、可八を受け入れられず、可八との関わりを拒絶する瑞希を、責められはしない。

 瑞希の未来を壊してしまった。

 ただ、それだけが事実。

 壊れた未来を償うことなどできない。瑞希が将来得られたであろう未来を、作り直すことなどできない。人生に、やり直しはきかない。もし今後別の幸せを見つけたとしても、一度壊された幸せは二度と取り戻せない。

 床のきしみが聞こえるほどの静寂が続いた。

 瑞希の手から流れていた血は、止まったようだった。

「ご自分を、あまり痛めつけないで下さい。」

「・・・。」

 うなだれた瑞希に、他に言う言葉が見つからなかった。よろめきながら膝を立て、愛姫は再び玄関に立った。

 額に汗がにじんでいる。

 まだ立ち直れない瑞希を見下ろしながら、愛姫は意を決した。自分の弱みを知ってもらうことで、少しは慰めになればと想った。少しでも貶めた自分を見せようと、愛姫は口を開いた。

「私、・・・明羅さんが好きでした。明羅さんが可八を選んだことで、私も苦しみました。でも、それはただの失恋で、瑞希さんのように未来を崩されたわけではないと思うと、自分の苦しみが、甘ったるい感傷だと気づきましたわ・・・。バカみたい、でしょう?」

 瑞希は、何も反応しない。

 だが、その表情の影の色に、愛姫は最近感じた恐怖を思い出した。

 可八の自殺未遂の夜に感じた、今、手を離したらそのまま死んでしまうのではないかという不安。それがまざまざと思い起こされ、指先が震えだした。

 母を自殺でなくしている愛姫。自殺未遂の人間をつい最近目の当たりにした愛姫。

 それは、一生拭えないトラウマだ。

 思わず、瑞希のそばに再び膝をついた。

「私よりずっと重い苦しみだとは思います。でも、どうか、どうかこれ以上ご自分を痛めつけないで!」

 止まったとはいえ、血で汚れた生々しい瑞希の手を握り締めた。

「ご自分に非の無いことで苦しんで、傷つけるようなことだけはなさらないで。お願いだから、母のようにはならないで!」

 瑞希は、驚いて少し顔をあげた。

 愛姫が何を懼れているのか、わかった気がした。明羅の書いた記事を見ていて、大体の経緯は知っている。

 愛姫も、つらいのだと思った。

 兄に失恋して、可八のことで再び心を悩ませて。

 可八さえいなければ、普通のお嬢様でいられただろうに。いわれの無い苦しみを味わうことなど、なかっただろうに。

 お互いのつらさが身にしみる。

 今、どんな思いでいるか。言葉などなくても、理解できる。

 握った手を離さず、愛姫は言った。

「瑞希さんは、明羅さんが本当に大事なんですよね。他人の可八を憎んでも、お兄様である明羅さんを憎むことは、できないのでしょう?」

「・・・どうして・・・。」

「だってまだ、明羅さんには言ってないのでしょう?婚約解消のことも、仕事をクビになることも。」

 瑞希は、思わず息を呑んだ。

 愛姫の濡れた瞳が、切なく揺れている。

 握られた手から、愛姫の心の震えが伝わってくる。

「知っていたら、いくら明羅さんでも可八を旅行に連れて行ったりはできないはずだもの・・・!」

「・・・!」

 瑞希の呼吸が、一瞬止まったように思う。

 と、次の瞬間。

 愛姫は、唇に生まれて初めての違和感ある感触を覚えた。

 見開いた目の前に、瑞希の長いまつげがある。

 それがキスだということに気づくまで、ものすごく長い時間がかかった気がした。

 硬い縁甲板張りの狭い廊下に押し倒されたとき、愛姫は瑞希を見ないように、固く目を閉じた。目尻を、覚えの無い液体が濡らしてゆく。

 初めてのキスは、心のどこにも、体のどこにも、まったく染みていかなかった。ただ、体の一部に今まで感じたことのない違和感が這っているというだけの冷めた行為。だが、瑞希に触れられることには、不思議と生理的嫌悪を感じなかった。

 ただ、必要だったのだと思う。

 今まで、独りで背負い、かかえ、必死に辛抱していたものが、今一息に堰を切ったように流れ出したのだ。

 もう、独りでは立てない。

 もう、一人では抱えきれない。

 玄関の頂側窓からそそぐ青白い明かりの中で、愛姫は今までのすべての夜に訣別した。


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