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紺碧の窓  作者: 井浦美朗
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第11話

 九月の下旬。ようやく残業をしなくても良い程度に、仕事がひと段落した。

 愛姫は瑞希と会おうと決意し、電話をした。が、通じない。

 携帯の留守電にメッセージを入れたが、返事がない。

 明羅に瑞希とのことを知られてはならないため、自宅へは電話できない。

 仕事場である学校に電話をかければ、迷惑をかける気がする。肩書きなしの女性から結婚間近の男性に電話があったなどと噂がたっても良くないし、弁護士という肩書きの人間からの電話も、何かトラブルをかかえているのではないかと、疑われるだろうからだ。

 十月に入っても、まだ返事が無かった。

 さすがに嫌われたのかと思ったが、瑞希の結婚が駄目になってないかと思うと、気は休まらない。ばれるのが時間の問題だと言っていたから、もうばれているだろう。その結果、どうなったのか。明羅はその問題を、どう感じているのか。

 いくら返事がもらえなくても、関わった以上、行く末を見届ける責任があるように思う。

 取材で明羅に会ったとき、愛姫はそれとなく水を向けてみた。

「望月さんには弟さんがいらっしゃるそうですね。」

「ええ、・・・よくご存知ですね。」

「可八から聞いたんです。結婚が近いとか。」

「そうです。いわゆる逆玉というやつで。両親が事故死した当時、弟はまだ小学生でした。親なしっ子と随分いじめられたようです。だからか、すごく上昇志向が強い男です。・・・弟が、何か?」

少し怪訝そうな顔つきになったのを察知し、愛姫は首を振った。

「いえ、単なる世間話ですから、お気になさらないで。」

 この様子では破談にはなっていないようだ。しかし、本筋は全然わからない。

 いや。もし破談になっていたとしても、他人の愛姫になどそう簡単に話さないだろう。

 十月も終わりに近づき、一枚の上着では寒く感じられるようになった頃、明羅が取材で北海道へ行くことになった。問題は、明羅が可八を一緒に連れて行くと言ったことだ。

「女性の記者が二人行くことになっていたんですが、そのうちの一人が急遽別の取材で駄目になりまして。チケットもホテルも相当のキャンセル料がとられてしまうので、無駄にするくらいなら誰か連れて行ってはどうかという話になったんです。」

 出発は明後日。

 旅行などしたことがない可八にとって、それは大変なことだ。しかも、恋人と旅行!

 例え、二人きりでなくても。

 女性記者と同室だと言われても。

 責任を持つという明羅の愛姫に対する説得は、まるで娘の母親にするようなものだった。いくら可八と明羅のことを諦めたとしても、まだ恋心が完全に消え去ったわけではない。いや、二人の仲を認めたからといって、明羅を思う気持ちがなくなったわけではない。

 だが、愛姫は可八の旅支度を甲斐甲斐しく手伝った。娘の初旅行の手伝いをする母親のように。自殺しようとまでした可八が、今は不憫でしかない。できるなら、明羅と幸せになって欲しいとも思う。

 愛姫の旅行鞄を貸し、持って行くべきものを買い揃えた。いくらホテルに一式そろっているからといって、何も持たないのは楽観的過ぎる。寝巻きまで新品を買うことにした。とにかく、そうしないではいられなかったのだ。

 出発の朝。愛姫は玄関で、お金の入った封筒を可八に渡した。

「皆さんに頼りきりでは駄目よ。自分のことは自分でね。お仕事の邪魔にならないよう、独りでおとなしくしているのよ。」

 すると、可八は少し緊張しながらも、軽く笑って見せた。

「愛姫さんたら。私は小学生ではないんですよ?」

「でも、きっと望月さんたちは気を遣って下さるわ。それに甘えないようにね。」

「はい。じゃ、行ってきます。」

軽く手を上げて、可八は明るく出て行った。

 仕事の場にプライベートを持ち込むということは、関係を公にするだけの前提があるということだ。

 つまり、結婚を公にするということ。

 瑞希は、やはり明羅をどうにもできなかった証拠だろう。今回の取材旅行のことも知っているのだろうか。知っていたとしたら、相当、もめたのではないだろうか。

 とにかく、瑞希の沈黙が不気味だ。あきらめたとは思えない。だが、そんなことを思うと、明羅に思いを馳せないではいられない。

 可八のいない夜。

 眠れなくて、テレビをつけっぱなしにして、ソファに体を投げ出し、ただ宙をにらみつけていた。

 深い夜。今頃明羅は可八を抱いているのではないか。そう思うと、体の中で感情と結びついている臓器という臓器が引きちぎられるようで、痛い。

 明羅が好きだ。今でも。一生遂げられない思いでも、だからといってどう葬ればいいというのだろう。諦めている。可八との仲も認めている。だからといって、暴れるこの感情を沈めることなどできない。

 こういうとき、人はお酒におぼれるのだろうか。だが、酒に弱い愛姫には、適わない。

 明羅の手が、可八をどう抱きしめるのかと思うと、いてもたってもいられない。

「・・・・!」

 言葉にならない気勢を上げ、クッションを床に投げつけた。

 柔らかな綿がショックを吸収し、その手ごたえの無さがかえっていらいらを増長させる。

 明羅にとって、愛姫は可八の保護者でしかないのだろう。

 あんなに弱みを曝け出したのに、同情以上のものはもらえなかった。

 一瞬でも未来を思い描いた自分が、滑稽で情けない。

 恋がしたかった。

 誰かに、目茶目茶に心を乱されたかった。

 叶ったのに。

 恋の悩みが贅沢だと知っているのに。

 いざ当事者になれば、そんな理屈は何にもならない。ただ、自分を冷静に批評する判断材料になり、自分をこき下ろすだけだ。

(ただひとつ、良かったことは・・・。)

 告白しなかったこと。

 明羅の優しさを勘違いして、安易に自分の思いを告げてしまわなくてよかった。

 おかげで、今も“保護者”面はしていられる。

 それを臆病という人がいる。だが、そんな言葉で片付けられたくない。相手の気持ちを大切にしているのだ。その上で、自分を防御しているのだ。

 ひざをかかえて、泣いた。

 今日は、可八がいないから堂々と泣ける。

 可八と同居を始めて以来、可八がいない夜は、初めてだ。

 修学旅行を担任に止められた可八。

 普段のいじめが助長する虞があるからと。

 だから、いつも一緒だった。自分が出張したり、旅行する以外はいつも。

 可八は二十年間、愛姫のそば以外で、夜をすごしたことがなかったのだ。

 可哀想な可八。

 だけど、憎らしい可八。

 明羅を手に入れられるのなら、可八の不幸をすべて背負ったっていい。明羅との人生が待っているのなら、どんな苦労だって我慢する。

 しかし。

 可八よりましな人生を与えられた愛姫を、明羅は欲しなかった。

 心の中の希望という在りかに、ぽっかり穴が空いている。

(でも、私は生きていくのだ・・・。)

 命が枯れない限り、明日がなくならない限り。

 日々の老いに怯えながら、一生独りであることに怯えながら、希望なく生きていくのはどんなに侘しく苦しいだろう。

 人は希望なくして、生きてはいけない。希望の無い人間は他に楽しみをみつけ、それを希望にすりかえる。

 そんな寂しい人生を、これから五十年も送っていかなければならないのか。

(誰か・・・、私を見つけて。)

 こんなに一生懸命生きている自分を見つけて欲しい。認めて欲しい。

 愛して欲しい。

 母を失い、父を捨てた愛姫にとって、可八だけが愛姫の孤独を埋める存在だったのだ。

 その可八をも手放す日が近いことに、愛姫は重苦しい寂しさを噛み締めていた。


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