第10話
愛姫はまんじりともせず、朝を迎えた。
一晩中、身体のどこかしらが、恐怖に震えていた。自責の念か、死というものを目の当たりにしそうになった恐怖か。
まぶたの裏から離れることの無い、母の死顔。それが可八の寝顔に重なって、喉を締めつけられるような苦しみに苛まれる。もう、ごめんだ。誰かが死ぬところを、二度と見たくない。例えそれが、可八であっても。
愛姫がどんなに想っても、明羅が可八を選んだことは、可八の責任ではない。そんなことは、十分わかっていたはずだ。もういい加減、気持ちに区切りをつけねば。
起きた可八の目は腫れていて、瞼がまともに開かないようだった。
「今日は、会社・・休みなさいね。」
いくら愛姫でも、優しくせずにはいられない。傷ついてぼろぼろになっている可八を、責めることなどできない。
朝食をお盆に載せ、ベッドの脇に置いた。
「私も、今日は休むから。」
すると、可八は慌てて首を振った。
「私、大丈夫ですから。」
「駄目よ。独りになんて、できないわ。」
なんて偽善的なせりふ。
父を偽善者だとあざけっていたが、見事に自分も偽善者になっている。可八はそれきり口を噤んでしまった。自殺の理由は話せないようだった。傷が深いのだから、当然だと思う。
「とにかく、今日は二人でずる休みしよう。今まで、そんなことしないで生きてきたんだから、一日くらいいいよね。」
明るく言って、愛姫は立ち上がった。
「そうだ、久々に料理でもするわ。チェリータルトでも作ろうかな。そしたら、一緒にお茶しよう、ね。」
部屋を出て、愛姫は今日の仕事を休むとどうなるか頭の中でシミュレーションして少し青ざめた。
だが。
仕事より大事なこともこの世にはある。仕事至上主義の愛姫だが、今日は例外だと思う。可八のためにできることが、他にみつからない。
今日だけは、可八を孤独にさせてはいけない。もし自殺の原因が瑞希だとしたら、明羅に頼れはしないだろう。そういうときのための「同居人」なのではないか。
家の冷蔵庫を久々に開けた。
よく整理され、磨かれている。
可八に恋人ができたからといって、家族としての役割が終わったわけではなかったのだ。むしろ、それによる悩みや障害を越えるための力になる存在が、新たに必要になるのだ。そんなことが、わからなかった。
その日は雨だった。
こんな出歩くのが億劫になる日に家にいられるのは、ちょっとした優越感に浸れる。
ベッドの中の可八と、できたてのタルトでお茶をした。
熱々のとろけるようなオムライスを食べた。
二人で映画のビデオを観た。
夕方は一緒に台所に立った。
久しぶりだった。一日を丸ごと二人で過ごしたのは。家にいても、二人は自室でばらばらに過ごすことのほうが多かったからだ。
こういうのが家族なのかと、愛姫はしみじみと思った。そう、可八が自閉症だったときも、学校を休んでは、こんなことをした気がする。
夜。
可八はこれ以上愛姫に迷惑をかけられないと、重い口を開いた。
瑞希から明羅と別れるよう宣告されたと、告白した。
「私、明羅さんには結婚を断りました。でも、明羅さんからは絶対あきらめないと言われて。」
「・・・それで?」
「私の気持ちは変わりません。明羅さんに私の罪を一緒に背負わせるようなことさせられません。でも、私は怖いんです。明羅さんをどんなに拒んでも、あきらめてもらえなかったら、私の気持ちもいつか抑えきれなくなってしまいます。そしたらきっと、明羅さんの申し出を受けてしまうんです。私は、私に負けてしまう。だから、・・・死のうと思いました。死ねば、結婚できませんから。」
「可八・・・・!」
愛姫は可八の肩を揺すった。
「そんなこと考えちゃ駄目!あなたを失ったら、明羅さんは一生それを引きずる!幸せになるどころじゃないでしょう?」
「じゃあ、どうしたらいいんです?!」
可八の悲痛が、愛姫を貫いた。
「私は、どうすればいいんですか。もう、・・・私は、明羅さんを意識しないで生きていくことはできません。明羅さんが私を嫌って下さればいいんだと思います。でも、どうしたらいいのかわかりません。」
こんな悲恋も、愛姫にはうらやましく思える。胸がはりさけるほどの恋愛をしてみたい。片思いの独り相撲でなく、両思いが故の苦しみを味わってみたい。独りより二人のほうが悩みが深いときいている。でも・・・。
「可八が明羅さんを嫌わない限り、無理よ。可八みたいな正直者が嫌われるようなお芝居ができるわけがないもの。」
「・・・ですから、」
「でも、死ぬなんて言わないで。もう、絶対にそんなことしないで。明羅さんにとっては、あなたと結婚することで受ける苦しみのほうが、あなたを失う苦しみよりずっと楽なはず。明羅さんがすべてわかって可八を選んだなら、迷うことはないと思う。」
愛姫は可八の細い手を握り締めた。
「そして、お願い。私を、独りにしないで。」
「愛姫さん・・・。」
今は、心から、そう願う。
可八がいない人生を望んでいた。
だが、いなければ本当に独りだ。こんなにも孤独になる。邪険にできたのは、いるのが当たり前だったからだ。言いたいことを言っていたのは、可八の存在に甘えすぎていたからだ。
「ごめんなさい、愛姫さん。私、・・・本当にこの世にはいらないって思ってて・・・。愛姫さんにもずっとずっと迷惑かけていて、私はやっぱり生きていてはいけないって・・。」
「ううん、私が悪かったの。私が可八に甘えていたのよ・・・。いっつも八つ当たりして。可八が受け止めてくれるのが当たり前みたいにして、・・・。」
互いの手を強く握りながら、愛姫は瑞希に会おうと思った。
可八と明羅のことを認めてもらおうと思う。可八の純粋な思いと明羅の強い意志の前なら許さざるを得なくなるかもしれない。
もう、二度とこんな思いをさせてはいけない。可八が殺人犯の血が流れているからといってこの世に存在していけない理由はない。
その夜、愛姫は可八の隣に眠った。
まだ不安がなくなったわけではない。
次の日は、さすがに仕事を休めなかった。可八には休みをとらせたが、こまめに電話することにした。可八は、「もう馬鹿な真似しませんから。安心してください。」と笑ったが、そのまま受け取れはしない。
今回のことを、明羅が知ることはないだろう。可八が明羅に話したら、それこそすべては嘘になる。
可八を信じる。
明羅を信じる。
二人の真剣な思いを信じて、二人を応援する。可八の不幸を見てはいられない。明羅の不幸を見たくはない。
明羅になら、可八を安心して任せられる。どんなことがあっても、その力の限り可八を守り抜くだろう。圧倒的な意思を持って。
それをうらやみながらも、あきらめの風が吹いている。
可八には自分が持っていないものを持っている。そして、可八のように複雑な生い立ちを持つ女には、明羅ほどの男でなければ太刀打ちできないとも思う。
時々、自殺未遂で愛姫を脅かした可八をずるいと思う気持ちが湧き上がったが、それを時の流れで少しずつ溶かしながら、愛姫は可八との現実を受け止めていくしかなかった。