第1話
この物語はフィクションです。
電車の窓から見下ろす街は、蒼から漆黒に変わりつつあった。無数に散らばる温かな家明かりは、毎晩違う表情を見せてくれる。
冷たいガラスに額を近づけ、橋田愛姫は久々の早い帰宅に安堵していた。ここ暫らく夜中の帰宅が続き、同居人に迷惑をかけていたからだ。待っていなくてもいいと言っても、絶対に起きている。その性格は、誰に似たのだろうか。二十年寝食を共にしていても、もとが赤の他人では、わかる由もない。
「ただいま、可八。」
都心から電車で四十分ほどの郊外にある中層マンションの一室が、二人の住まいだ。ピアノを持ち込むためにやっと見つけた場所。愛姫は、母の唯一の形見でもあるピアノと一緒でなければ生きていけない。人生の一部と言ってもいい。
「おかえりなさい。」
同居人の可八は、もう十年も同じ向日葵柄のエプロンをしている。高校生になった可八が、「家事一切をまかせてくれ」と言ったとき、愛姫が贈ったものだ。以来、色褪せてもまだ使っている。
「今日は早かったんですね。お仕事、区切りがついたんですか。」
「ええ。一つ裁判が終わったの。」
「すぐ、食事になさいます?」
「そうする。久々にたっぷり寝たいし。」
「じゃあ、すぐよそいますね。」
こういう会話をしていると、可八は自分の妻みたいな存在だとつくづく思う。朝早く夜遅い愛姫の仕事生活は、可八の支えで成り立っている。もし一人だったら、もっと荒んだ私生活をしているか、仕事に全力で打ち込まず適当なラインを引いてしまうかの、どちらかだったろう。もう、二人は二人の家庭を築きあげてしまった。しかし、それはここ五年くらいの新しい安定であり、以前はほとんど口をきかず、気を許さず、寒々しい関係を続けていた。敬語をつかう可八。横柄な愛姫。それが真の二人の関係を示している。
「今日、おじさまから電話がありましたよ。」
可八の言葉に、愛姫は思わず箸を止めた。「おじさま」とは、愛姫の父親のことだ。
「なんて言ってた?」
「明日、お客様がお見えになるから、と。」
「うちに?」
「ええ。午前中に。」
「せっかくの休日よ?誰が来るというの。」
「さあ・・・。それは何も。」
「あのねえ、あんな男の言うこと、いちいち聞く必要はないのよ?断ってくれたらよかったのに。」
「・・・それは、できません。」
「恩人だから、とでも言うの。」
「そうです。」
「あの男は、偽善者よ。可八が恩を感じる必要なんて全然ないのよ?」
「でも、やっぱり私にとっては恩人です。おじさまが引き取ってくれなかったら、私は今頃死んでいたかもしれません。」
「それは・・・。」
「何より、愛姫さんに会えたんですから。恩人ですよ。」
可八ははにかんだ様に笑って、照れ隠しに用もないのに席を立ち、何かを探す仕草をした。愛姫はそんな可八を救うように、冷蔵庫からフルーツを取ってくれるよう、頼んだ。
こんな平穏な日常は、時々愛姫の過去を強烈に呼び戻す。可八の笑顔を見てホッとする、その次の瞬間に、すべての元凶が笑っているのだということに気付き、冷たい感情が瞳をよぎるのだ。
二十年前、父が可八を引き取ったあの日から、愛姫の人生は変わった。これが運命で、はじめからこうなると決まっていたのだとしても、やはり、あるべき道から外れたと思う。そんな人生を見つめなおす機会が、まもなく愛姫に訪れようとしていた。
土曜の午前十時ちょうどに、玄関のチャイムが鳴り響いた。愛姫は自分への客が誰であるか一晩思案した結果、可八を外出させることにした。父がよこす客は、強制見合いの相手か、あるいは・・・。
扉の向こうに現れたのは、百六十センチの愛姫が見上げる高さの三十歳前後の男性だった。紺のスーツと銀の時計が似合う肌の色。黒髪を短めに切りそろえ、品のいい顔立ちをしている。普段、脂ぎった、あるいは干からびた中高年に囲まれて仕事をしている愛姫は、思わず目を奪われてしまった。男は冷静な目で頭を下げ、名刺を差し出した。
「週刊トピックスの、望月明羅と申します。」
その肩書きに、愛姫は緩んだ唇を引き締めた。
週刊トピックスは、大手新聞社が発行している、ゴシップなどは一切載せない硬派な雑誌として有名だ。愛姫も、よく目を通している。
「記者の・・・方ですか。」
「橋田検事よりご紹介頂きまして、お忙しいところ恐縮ですが、ぜひ取材をお願いしたく参りました。」
物怖じしないはっきりした口調。それでいて、媚びていない。営業マンのようなしつこいニュアンスもない。だが、愛姫にとって記者は天敵だ。
「父が何を申し上げたかは存じませんが、私はマスコミを信じておりませんから。」
明羅は軽く頷いた。
「伺っています。ですから、まず取材の趣旨をお話させていただけませんか。」
今までに何十という記者を見てきた。それなりに目を養ってきたつもりだ。この男は信用できるかもしれない。しかし、それは外見に騙されているだけかもしれない。警戒心を解くことはできない。
「・・・どうぞお入りください。近所に聴かれたくはないので・・・。」
可八を外出させたのは正解だった。記者は可八の秘密を暴きたがる。好奇の目で可八を怯えさせ、事実と推測を織り交ぜて勝手な情報を流す。それが真実でないといくら叫んでも、一度マスコミに取り上げられた内容は、マスコミの力を使っても取り消せはしない。そんなことを、十代の頃に身をもって学んだ。
十六畳のLDKは賃貸暮らしとしては贅沢だが、ピアノを置くためには必要だった。家賃は安くないが、弁護士の愛姫には大変な額ではない。
柔らかなピンク色のソファで向かい合い、可八が用意しておいてくれた茶器で紅茶を入れた。客用のダージリンは、父の好物と知った可八が、いつも買ってくる。
「いただきます。」
カップを持つ長い指に指輪ははまっていない。適齢期の男性を見るたびについ観察してしまう悪い習慣は、二十代後半から始まった。つまりは、それが適齢期の始まりだったのだろう。
「父とは、どういうお知り合いですか。」
自分のカップには手をつけず、愛姫は聞いた。
「私は法曹界の取材が専門です。橋田検事は名検事と有名で、インタビューをお願いしたのが最初です。ですが、二十年前のことは、その前から存じ上げていました。当時中学生だった私にも衝撃的なニュースでしたから。」
愛姫は、思わず眉をひそめた。
「あの報道を、信じたのですか。」
「中学生でしたから、何も疑わずに。」
「殺人犯の娘である可八を引き取った父は、出世と名声のためなら何でもやる薄汚い欲望の塊です。なのに、マスコミはそんな父を褒め称えて!」
思わず口調の強くなった愛姫と反対に、明羅は冷静に言葉をつないだ。
「橋田検事から、娘であるあなたがそう言うだろうということも、お聞きしています。」
愛姫はカッとして拳を握り締めた。
「そう言われたら、私の立場がありません。私の言うことの方が虚言の様ではありませんか。」
「いえ、私はそうは思いません。確かに、藤木可八を引き取ってから何があったかは、聞いています。ただ、事実だけを。ですから、その裏の事情はわからないのです。ですから、取材をお願いしたいのです。今、『事件のその後』というシリーズを連載しています。事件に関わった人々がその後どうなったか、一つの犯罪がどれほどの余罪を残すのか、凶悪犯罪が横行する今こそ、警鐘の意味もこめて、記事にしたいと考えているんです。」
明羅の言葉に、愛姫は再び首を振った。
「十年前、同じような言葉をききました。信じて、また裏切られました。」
「決して興味本位や野次馬的な記事にはしません。今日は、私の記事をいくつか持参しました。それをお読みいただいた上で、お返事をください。今日、即答していただけるとは、毛頭考えておりません。」
明羅のような端正な容姿の男が真剣な表情で訴えれば、大抵の、いや、すべてが意のままになるだろう。しかし、会ったばかりの人間を信じられるほど、愛姫の傷は浅くはない。
取材とは名ばかりの私生活の暴露。
ますます誇張される父の偽善。
「週間トピックスがまともな雑誌であることは知っています。・・・望月さんの記事は拝見させていただきます。可八とも話し合わなければなりませんし、お返事は後日にさせてください。」
明羅は少し安心した面持ちで頭を下げ、早々に引き上げていった。
愛姫は明羅の後姿を見送りながら、この二十年をどう語ることができるのかと、漠然と考えた。
十二歳の夏。突然父が連れてきた青いワンピースの幼女。はじめ、父の隠し子かと本気で疑った。
(いっそその方が楽だったのかもしれない。)
可八との関係を尋ねられるたび、答えられなかった。家族でなく、友人でなく、ただの同居人。まだ年端のいかない少女が二人きりで生活をしていることに、周囲は好奇の視線を送らずにはいられず、橋田家の秘密がマスコミにとりあげられれば、格好の噂の種になった。記事に少女A少女Bなどと書いたって、可八が殺人犯の娘だということなど、すぐにばれてしまう。
(何もかもあの男のせいだ。父親・・・?可八をひきとってからまともに家に居ついたことなんかなかったくせに!)
愛姫は明羅の置いていった記事を見る気にもなれず、ただ思うままにピアノに指をすべらせた。母の形見のピアノ。優しくて繊細な母が自殺したのは、父と可八のせいなのだ。
可八は愛姫より六つ若い。高校を卒業すると、父の紹介で小さな会計事務所に就職した。つまり、会社の連中は可八が殺人犯の娘であることを知っていることになる。愛姫がそう抗議すると、「どうせいつか知られるのだから、その後いろいろあるより、はじめから知られている所の方がいい」と父は言い切った。会社で何があったのか、いじめられたりしてないか、可八は一切口にしない。聞いても、適当な相槌を打つだけで本当のところは何もわからない。
可八は愛姫に遠慮している。始終顔色を見ている。それは、愛姫のせいだ。
殺人犯の娘と同居することに極度のストレスを感じた上、マスコミの好奇の目にさらされた母はノイローゼになり、ある日自分の首を絞めて死んでいた。医者に注意され、ひも状のものや刃物は厳重に閉まっていたが、母はお気に入りだった赤いスカーフを巻きつけて死んでいた。
父はマスコミに注目され始めてからその目を避けるためだと言って、家に帰らず、都心のマンションに住み着くようになっていた。父は、精神を病んだ母を疎い、殺人犯の娘を疎い、その狭間でぐれだした娘を疎んだ。挙句には秘書の女性と同棲まで始めた。ひとりで悩み苦しんだ母を、父は捨てたのだ。
愛姫は、父を憎んだ。
愛姫は、「母の自殺はあんたのせいだ」と、可八をずっと罵り続けた。
母が死んでも父は家に戻らず、愛姫は可八と二人きりの生活を余儀なくされた。
(私の二十年も、可八の二十年も、あの男にはわかるわけがない。)
マンションから見下ろす景色の中には、家の明かりと街灯だけがひっそりと揺れている。広い庭で、赤レンガの瀟洒な邸宅で花の咲く木々に囲まれていた生活は、遠い昔のことだ。そして、もう二度と戻らない。
可八を連れて父の元から出たこの十年間は必死で、瞬く間に過ぎていった。俗に言う青春など謳歌する間はなかった。
可八の影を感じながら、このまま一生を終えるしかないのだろうか。
そんなことを夜毎考えながら、愛姫は瞳を閉じる。
決して拭いきることのできない、涙を溜めたまま。