宝物
夏休みももう終ろうかという頃、町内会の温泉ツアーというのが開かれることになった。
伊豆の方へ2泊3日で行くらしいのだが、話によると、これを楽しみにしてるのはおじさんおばさんだけで、若い人は欠席ばかりなのだそうだ。
僕も温泉なんかには興味はなく、当然欠席することにした。
親は僕が心配だとか言って欠席しようとしたけど、僕が、久しぶりに夫婦水入らずで楽しんできなよ、と言うと、そんな孝行息子なら心配はいらないと言って出席することにした。
ただし、僕は孝行息子なんかではなく、ただ家が独り占めできるからそう言っただけだったが。
遥も欠席するみたいで、久瀬さんを呼ぼうかしら、と心を踊らせていた。
僕は、また久瀬氏か、と思いながらも、僕も宮本さんを呼ぼうかな、なんて考えたりした。
「いってきまーす」
僕は布団の中で親の呑気な声を聞いていた。
一人きりになれるというのに心は晴れない。
それもそのはず、昨日の夕方、宮本さんを呼ぼうと思って机の片付けをしていた僕はとんでもないものを見つけてしまったのだ。
確か、夏休みの始めに、見るのも嫌だと思って僕はそれをカバンの中にしまった。
しかし、夏休み中は宮本さんと康貴のことで慌ただしく、逆にすっかり忘れるという事態を招いた。
僕は慌てて遥に電話をかけた。
遥がやっていれば、いくらか手間ははぶけるはずだった。
しかし、遥の返事は、期待外れであり、また予想通りのものだった。
「私は柊がやってると思って…」
こんなわけで、今日は宿題を、それもまったく手をつけていない状態から、やらなくてはいけないのだった。
8時すぎに遥がうちにきて、闘いの火蓋は切って落とされた。
こんなもの二人がかりでやればなんとかなると思っていたが、それは大きな間違いだった。
英語の物語の和訳が1冊分、国語の夏目漱石の感想文が1冊、数学のこれまでの復習が100問。
それぞれが2、3日かかる気の遠くなるような量だった。
とりあえず国語の得意な遥が夏目漱石を、特に得意科目がない僕が英語をやることになった。
途中、昼飯をコンビニで買ってきて食べ、僕らはひたすら勉強し続けた。
でも集中力とは持続しないもので、ふとした瞬間にどこかに意識がいってしまう。
僕の場合、それは遥だった。
ついこのあいだまではただの幼なじみという風にしか見てなかったが、こうして見ると結構可愛い顔立ちをしている。
首は細くてなめらかな形で頼りないのに、しっかりと頭を支えている。
次にネックレスに目が止まった。
遥はいつもこのネックレスをしている。
その割に、いつもTシャツの中に隠すようにしまいこんでいる。
本人曰く、お守りみたいなものらしいけど。
次に目がいくのは…、やめとこう、今は勉強に集中だ。
3時を回ったところで、遥が国語を終わらせた。
その15分後、僕も英語をなんとか終わらせた。
「うー、疲れたねー」
遥が首を回しながら話しかける。
「でもまだ数学があるんだよね」
僕は腰をひねりながら答える。
「こんなとき──」
「『康貴がいれば』?」
遥が言うのより先にその先を言ってやった。
「あれ?なんで分かるのよ?」
「お前の考えてることが単純だからだよ」
「た、単純って何よ!」
「それに今の、きょとんって顔は間抜けを絵に描いたみたいだしさ」
飛んできたパンチをかわしながらからかう。
「このバカ!宿題手伝ってやんないぞ!」
「手伝うって、宿題やってないのはお互い様じゃん」
「うるさい!」
実はきょとんって顔は間抜けなんて言ってるけど、ちょっと可愛いなんて思った。
そんなことは恥ずかしいから言ってやんないけど。
その後、10時までかかって数学を終わらせ、遥の作ってくれた夕飯を食べて布団に入ると、すごい勢いで睡魔が襲ってきた。
僕は深い眠りに落ちる瞬間、宮本さんを誘うのを忘れていたことを思い出したが、どうしようもなかった。
次の日、遥はしっかりと久瀬を家に呼んでいた。
一方、僕は朝慌てて宮本さんに電話してみたけど、用事があるの、と断わられてしまった。
だからこうしてすることもなく、テレビの前でだらだらしてるしかないのだ。
こんなんだったら慌てて昨日宿題をやる必要はなかったな、と思うが、やってしまったものは仕方がない。
今年は残暑が厳しくて外に出る気にはなれない。
今日何度目かのため息がこぼれる。
時計を見ると11時半。
ちょっと早いけど昼飯にするか。
と思って立ち上がった時だった。
外から怒鳴り声が聞こえた。
久瀬の声だった僕は急いで外に飛び出た。
外では久瀬がうつむく遥に何か怒鳴っていた。
「お前みたいなピーピーうるさいガキは嫌いなんだよ!」
もしや遥がまた何かやらかしたのかな、と思って、久瀬もそんな怒ることないのに、と思いながらなだめようとした。
が、久瀬は僕には目もくれずに遥を罵り続けている。
「ちょっといい顔すれば調子に乗りやがって!」
僕は頭にきたが、必死になだめ続けた。
が、久瀬は落ち着くどころか遥の胸ぐらを掴みあげた。
と、ここで僕の怒りは限界を超えた。
怒鳴り続ける久瀬の顔面に僕の右ストレートが入った。
冷たいものが顔に乗せられた驚きで目が覚めた。
見覚えのあるような部屋で寝かされていた。
「起きた?」
急に声が降ってきた。
声のした方に目をやると遥がいた。
そうか、ここは遥の部屋だ。どうりで見覚えがあるわけだ。
「久瀬は?」
僕が聞くと遥は一瞬悲しそうな顔をした。
「覚えてないの?柊、あいつにボコボコにされたのよ」
覚えてない。
「柊が最初に殴ったとこまではよかったんだけど、あいつも頭に来たみたいで、殴りあいが始まったんだよ」
言われても思い出せない。
「やめてって言ってもやめないから、警察呼びますよって言ったの」
なるほど、正しい判断だ。
「で、柊がやめたところをあいつは最後に思いっきり殴って逃げてった」
「それで気絶?」
「そう。壁にガーンって頭ぶつけてのびちゃった」
そうだったのか。
「それで、俺をこんなんにした原因はなんなんだよ」
僕は起き上がって、ベッドに腰掛けていた遥の横に移動した。
「ん、まあ、それは、いろいろあって・・・」
「あ、お前話さないつもりか!?」
「分かったよ、話せばいいんでしょ」
久瀬は家にあがってしばらくはおとなしくしていたが、遥の部屋に入ったとたん人が変わり、遥を押し倒そうとしたらしい。
「で、お前やっちゃったのか」
「んなわけないでしょ」
遥が抵抗すると、久瀬は遥を思いっきり罵り、家を出ていった。
遥が追いかけると、今度は外で怒鳴り始めたという。
「そりゃ散々だったな。それにしても久瀬がそんなやつだったなんてな」
遥の反応はない。
何かを考え込んでるようだ。
気まずい沈黙がながれる。しばらくしてから遥は突然言った。
「ねえ、私って人の心に土足で踏み込んでる?」
「え?」
「人の気持ちとか考えないで、自分の都合押し付けてる?」
いつのまにか涙声になっている。
「久瀬がそんなこと言ったのか?」
「そうだけど、あながち間違ってないんじゃないかって思う。じゃなきゃこんなこと言わないでしょ」
「・・・」
「康貴の時もそう。無神経で康貴の気持ちに気付かないで、康貴傷つけだし。私、きっと知らないうちにいろんな人傷つけてきたんだよ」
目に溜った涙が頬を伝った。
「今日も関係ない柊巻き込んでこんな怪我させちゃったし」
「関係なくない!」
僕は思わず叫んでいた。
「俺はお前の幼なじみだし、お前は俺の幼なじみだろ?お前が困ってたら助けるのは当然だよ。それともなんだ?恋人じゃなきゃ助けちゃいけないか?康貴のこともそうだ。なんでいつまでもそんなクヨクヨ考え込んでるんだよ。康貴がそれ見たら喜ぶと思うか?康貴はお前に笑っててほしいんだよ。俺だってそうだよ。お前の笑ってる顔がそばにあれば安心するし、お前の無神経さが恋しくなることだってあるよ・・・って、」
話が大変な方向に行ってることに気が付いた。
「要は、元気だせよってことだ」
「ぷっ、何よその恥ずかしいセリフ」
遥に笑顔が戻った。
「これはお前を励まそうと思ってだな・・・」
僕は自分で分かるほど顔が赤くなっていた。
遥は笑いが止まらないといった感じだ。
僕も恥ずかしさをごまかすために一緒に大笑いした。
笑いが一段落すると、遥が話しはじめた。
「柊にそう言ってもらえて安心したよ。だってさ、・・・あいつにこんなボロクソに言われてさ、・・・・康貴のことも・・・あったし、・・・私、・・・柊に・・・きらわれ・・・たら・・・どうしよう・・・かと・・・思・・・った」
途中から涙が溢れでてきて、最後の方はなんていってるのか聞き取れなかった。
「喧嘩はしても嫌いにはなんないから安心しな」
「ほんと?」
「ああ、ほんとだ」
そう言ってやると僕の胸に顔をうずめて大泣きしはじめた。
そしてやっと分かった。
僕にとって一番なくてはならない存在だったのは、他でもない、この遥なんだ。
遥とずっと仲良くやってこれたのは、幼なじみだからじゃなくて、お互いに相手を必要としていたからだったんだ。
遥はそれから1時間も泣き続け、泣きやんだときには、僕のTシャツは涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
僕は腫れた目をした遥に向かって、正式にお付き合いの申し込みをした。
遥はまた泣きだしそうな顔をしながら何度も頷いた。
そして、どちらからともなく、短いキスをした。
幼なじみから恋人になることの確認みたいなキスだった。
それから2人でいろんなことを話した。
最後に僕はずっと気になっていたことを聞いてみた。
「そういえばさ、小5の時に誕生日プレゼントとかいって指輪あげたの覚えてる?」
あれさ、今どこにあるかわかる?って聞くつもりだった。
だが、その必要はどうやらいらなかったらしい。
遥は無言でネックレスを外した。
お守りだといって、いつも誰にも見せようとしないやつだ。
遥はそのネックレスについているものを僕に見せてくれた。
金の指輪だった。
指輪にネックレスが通してあって、首にかけると指輪が胸の位置にくるようになっている。
そして、その指輪こそが僕がプレゼントしたあの指輪だった。
「中学の頃から肌身離さず持ってるのよ。感謝しなさい」
遥は勝ち誇ったようにそう言った。
でも、柊も覚えててくれたんだ、って言うのが顔で分かる。
まったく、単純なやつなんだから。