事件 5
「おいで」
艶を含んだ声に、誘われるがまま右手が動いた。
けれど頭の片隅が、疑問を投げかける。
“この手をとっていいの?”
(でも、和貴君はおいでって言ったし・・)
和貴は好きだし、手もつなぎたい。
手を差し出すことは自然じゃないのか。なにか問題があるというのか。
脳内で、彼女の人格は二分化していた。自問自答が繰り返される。
わけがわからず、というよりわかりたくないのだ。
だから余計に混乱していく。
“じゃあ手をつないでどうするの?この手を取ってついていく先は知れているでしょう?この建物に入るんでしょ?”
(入ったからって何よ。えっ、入るって、ここに?)
だってここは――
予想だにしなかった展開に、とても考えがまとまらない。
心臓がバクバク脈打ち、頭に血が上る。脳内分裂は早くも限界だ。
掌からは汗が吹き出し、めまいがしてくる。
この問題は完全に彼女のキャパシティを超えていた。
“入ってどうするつもりだと思う?だってここは”
ここは、ラブホテルなんじゃないの??
実際にこんな間近で“ラブホテル”を見たことは無かったが、繁華街やテレビドラマで看板くらいは目にしたことがある。
ここでおいでっていうことは、それはつまり、つまり、つまり――――
「深雪?」
負荷がかかりすぎて、深雪の脳はついに思考を停止してしまった。
それから先は考えられない。考えたこともなかった。
彼女の様子がおかしいことには気づいたが、そのことに疑問を感じる余裕が和貴にはなかった。
伸ばしかけになっている手を取り、先へ進もうとする。
その時だった。
「バカ野郎、浜崎!!」
飛び出してきた人影が、強引に深雪を奪い取った。
「植田さんに触るな!」
影の正体はすぐにわかった。明日の自由行動で一緒になると紹介されたうちの一人だ。
「藤原・・?」
和貴はわずかに眉根を寄せる。
自分を知るものが少ない土地だからと油断していた。
あろうことか深雪に触れ、自分を敵視しているこの男。
彼女のクラスメイトでなければ今すぐ殴り倒してやりたい。
「お前一体何のつもり・・」
「何のつもりはこっちのセリフだ!」
臨戦態勢の和貴を前に彼は気丈にも立ち向かった。
オーラの凄まじさに気押されながらも深雪を背後にかばい、なんとか前に出る。