隣室からの音(愛、あるいは憎しみ)
夏のホラー2026「音」参加作品です。
「音にまつわる怖い話、ね……」
突拍子もない質問だったけど、彼氏は咎める事なく親指を唇の先に当てて押し黙った。
ほんと、美しい仕草だ。
付き合い始めて1ヶ月。これから何年、彼の横顔を拝めるのかはわからないけど、この眼福な時間を出来るだけ長く味わえる事を願う。
「企画小説のテーマなんだけど、何も思いかばなくて……。参考にさせてもらいたいなーって」
「これ、俺が体験した話なんだけど……、ちょっと胸糞悪いよ?」
「ううん、大丈夫」
「ていうか、ホラーも書くんだ?」
「意外?」
「恋愛小説だけだって、勝手に思ってた」
「恐怖だって、心の動きだからね。恋愛感情も、恐怖も……怒りや喜びだって、人の心の動きを書き記す事には変わりないの」
「ふうん。よくわからんけど」
「愛と憎しみは、表裏一体って事」
「おお、こわっ……」
笑いながらそう呟くと、彼氏はローテーブルに置いた缶チューハイを一口飲んだ。
彼氏の部屋にくるのは初めてだ。今日はきっと、今まで以上に二人の距離が縮まるに違いない。
甘い時間を際立たせるために、ちょっぴりビターなホラー話で舌をリセットするうのも乙なものだろう。
テーブルに頬杖をついて、天井の隅の方を眺めながら、彼は語り始めた。
* * *
えーっと——
あれは、就職してすぐの頃だったかな。
金もなかった俺は、街の隅のボロいアパートに住んでたんだ。1LDKで家賃は3万くらい。
たまにゴキブリなんかが出没する、ひどく惨めったらしいところだったよ。
はじめての土地だから友達もいなくてさ。とは言え、会社の連中とベタベタするのもなんか違うだろ?
だから俺、夜はずーっと一人で部屋に閉じこもってたんだ。バーとか、そういう大人の社交場で出会いを求める柄じゃないし。寂しかったっちゃー寂しかったけど、まあそういうもんだよなって割り切ってた。
住み始めて1ヶ月くらい経ってからかな?
あの音が聞こえ始めたのは。
夜中に『コツ、コツ』って壁を叩く音さ。
最初は家鳴りの類かと思ったんだけど、えらく規則的に鳴るもんだから、気になっちゃって。
それにその音、隣の部屋の壁から聞こえてくるんだよね。
その部屋には、やけに辛気臭い女が住んでたんだ。
アパート前の廊下で一度すれ違って、部屋に入るところを見たから、多分間違いないと思う。
ボサボサの茶髪で、妙に派手な服装だったけど、猫背だし、どこか洗練されてないっていうかさ……。でも顔は整ってた。もったねーって思ったよ。
その隣の部屋も、全然来客がないみたいでね。
なんでわかるのって?
いや、すごく壁が薄いから、話し声とか丸聞こえなわけさ。反対側の部屋の男はしょっちゅう女連れ込んでて、話し声もそーゆう声もすごいもんだったよ。
でも、女の部屋からは何も聞こえない。
俺と同じだなーって思ったんだよ。
きっとこっちに友達なんて居なくて、夜も孤独に怯えてるんだろうなって想像してたわけよ。
現に俺がそうだったからね。
そんな隣の女が、壁をコツコツしてるわけさ。
俺も寂しかったんかもしれないな。どーでもいい戯れで気を紛らわしたい時ってあるじゃん?
不意に『この音に返事したらどうなるんだろ』って思っちゃって……試しに俺も、壁をコツコツって叩いたわけさ。
そしたら向こうもコツ、コツって。
なんか……そのやり取りが心に沁みたんだよね。
真っ暗な世界に、やわらかな日日に光が一瞬だけ差し込んだみたいな。
人は生まれながらに孤独だって、ガキの頃は斜に構えていた時期もあったけどさ、やっぱり人は一人じゃ生きていけないんだ。
心から実感したよ。
あの日から、俺と彼女の夜の戯れが始まったんだ。
どちらかが壁をコツ、コツって2回叩くと、相手もコツ、コツって2回叩く叩く。
ただそれだけの、たわいもないやり取り。
今思うと何の生産性もない行為だけどさ、俺達はそれで自分以外の『他人』の存在を感じて、孤独を紛らわしたかったんだろうな。
コツ、コツ……
コツ、コツ……
コツ、コツ……
コツ、コツ……
その遊びはしばらく続いたんだ。
もはや俺の日常に染み込んでしまったし、今更やめ時がわからなくなってたってのも、あるかもしれない。
晩飯のあと、風呂上がり、歯磨きをしながら——俺は気が向いたら隣の壁を叩く。そうすると彼女もまた、壁を叩く。
君を前にして言うのなんだけど……あの時の俺と彼女は、互いをつつき合って笑うバカなカップルと変わらなかった。やわらかな時間に俺は酔いしれていた。
事件が起きたのは、それから2ヶ月ほど経ったえらく蒸し暑い夜だった。
布団の上でうつらうつらしていた俺は、爆音の雷鳴で目を覚ました。意識がはっきりしてくると、それは雷ではなく、男の怒鳴り声だって気がついてゾッとしたよ。
その声は彼女の住む隣の部屋からだった。
何を怒鳴ってるのかわからないけど、返せとか、騙しやがってとか、そんなニュアンスの言葉が飛び交っていた。
彼女はきっと、あまり良くない仕事に首を突っ込んでたんじゃないかな。それで、誰かの恨みを買って、こんな状況に陥ってたんだと思う。
俺が抱える以上の孤独と闇が、彼女の生活を満たしてたのかもしれない。
深淵を覗き込んだ気分だった。
ぞっとしたよ。
ビクビクしながら諍いに耳をすましてたら、いきなり壁がでかい音をたてた。
何かがぶつかった音だ。彼女が壁に叩きつけられたって直感的にわかったね。
俺は暗闇の中で携帯を探したよ。暴力沙汰になったのなら、通報しなきゃまずいと思ったから。
電気は……つけなかった。明かりがついて、俺が起きたって隣に気づかれたら、こっちにまで被害が及ぶんじゃないかって、よくわからないけど、怖くてね。
その間も、怒鳴り声は続いてる。
そしたら——
ドン! ドン!
大きな音で、壁が2回たたかれた。
ドン! ドン!
ドン! ドン!
俺に助けを求めてるんだってわかった。
わかったけど、俺に何ができる?
俺は彼女の素性も……名前すらも知らない。
激昂する男との間に何があったもわからないのに、ノコノコ仲裁に入れるわけがないだろ?
だから……タオルケットを頭まで被って、耳を塞いだ。俺の貧弱な指の隙間から、鈍い音が流れ込むのを、堰き止めようとして、さ。
音は少しずつ小さくなって……そして止まった。
ドアの閉まる音がして、そっからは無音。
俺は外が明るくなるまでずっと布団を被って震えてたよ。
その間もずっと、隣からは物音ひとつしなかった……。
正直、死んだって思ったよ。
あの男に殺されたんだって。
外の世界が目を覚ます頃、俺は唐突に不安になって、警察に通報するために携帯を探したんだ。
そしたら——
コツ、コツ……
音がしたんだ。
いつもの、あの音が……。
俺は壁の前でへたり込んだ。
生きてた——そう思ったね。
いつも通り、俺も壁を叩く。
コツ、コツ……
コツ、コツ……
コツ、コツ……
コツ、コツ……
互いの名を呼び合うように、俺たちは言葉のない会話を——
* * *
急に生まれた不自然な沈黙。
「——良かった。その人、無事だったんだね」
それを破るように私は言った。
「いや、死んでたよ……」
「え?」
「例の男が押し入って、言い争いがあった時点でね……」彼は深いため息を吐く。「首、締められててさ、壁沿いに倒れ込んでたらしい」
「だって、そんな……。ほら、壁を叩いてきたって……」
死んでいたのなら、翌朝の壁伝いのやり取りはなんだったのか。死体が動いたとでもいうのか?
「警察が聞き込みに来てね……死んだのは夜で間違いないらしいんだ。死体にネズミに齧られた跡があったから、その物音なんじゃないかってさ。まあ、古いアパートだったし……」
彼氏はそう吐き捨てて、不満そうな顔で私を見る。その見解には納得していないという様子だった。
私だってそう思う。
ネズミの物音だって?
それならば、彼女が彼に別れを告げるため霊障を引き起こしたと考えた方が、まだ納得できる。
もし、私が彼の隣に住んでいて、同じ様に壁越しの会話で繋がり、息絶えたとしたら……そうしたと思うから。
名前も知らない、言葉も交わさない関係だったけど、二人の間には奇妙で……でも強い絆があったんだ。
今カノとしてちょっと口惜しいけど、そう理解してあげたい。
「胸糞悪い話でごめん」
「こっちこそ、嫌なこと思い出させちゃって、ごめんね……」
呆けた顔で空き缶を眺める彼氏の隣に座り、スウェットの膝の上に片手を当てた。
ごめんね。
でも、私には『これから』がある。
彼女が見せた絆を超えるくらい、私はこの愛を強く強く育んでやるんだ。
膝に置いた手に熱い手が重なる。
見下ろす彼の目には、ほてった私の顔が映っていた。
そして、互いに唇を近づけ——
ドン! ドン!
壁が、怒声を上げた。
引かれ合う唇を止めて、私達は音がした壁を見る。
「私達、うるさかったかな……?」
震える声でそう呟いたけど、言葉の矛盾にすぐ気がつく。
違う、ここ、角部屋だ。
部屋に入る時に見た。こっちの壁側に、部屋なんてない。
じゃあこの音はなに?
私は彼の身体に縋り付く。
再び、壁がけたたましく鳴り始めた。
軟弱な石膏ボードに拳を叩きつける音が、雨音のように幾重にも重なる。
これは何?
これは……怒りと、憎しみ?
狂った音が部屋中を埋め尽くしていく。
邪魔者を叩き出そうとするかのように。
ああ、そうか。
彼女、まだ彼の隣に居るんだ。
私は彼を見上げる。
彼は苦虫を噛み潰したような顔で、けたたましく鳴り響く壁を睨みつけ、呟いた。
いい加減、あの世に行けよな——
私は、自分に巻き付く彼の腕を払い除けた。
無理だ。
死んでも彼に執着してる女も、そうと知ってて私を連れ込んだこの男も。
全部が全部、無理無理無理。
隣室の彼女さん、あなたの事を知らなかったのよ。
フリーのフリした男に騙されただけで、どっちかっていうと被害者なの。
『愛と憎しみは、表裏一体って事』
音は鳴り続ける。
これ以上、痴話喧嘩に巻き込まれてたまるか。
私は荷物をかき集めて、駆け足で部屋を出た。
お読み頂きありがとうございます(*´Д`*)
一人暮らしを始めたばかりの頃、夜が妙に心細かったのは今でも覚えています。部屋の隅で巣作りしてるクモに謎の友情を感じてました(^◇^;)
クモに友情を感じてたのは笑い話ですが、人付き合いが苦手な幕田にとってあの時の「誰かと繋がりたい」って感覚はあまりに不慣れで、そんな自分に戸惑ったと記憶しています。
当時を思い出しながら書きました。
【追記】
2026年8月2日18時30分。最後の方を少し変えました。どっちとも取れるような所を、書き直してます。




