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もういいよ

── @news.narou_jp


「20代女性、意識不明の状態で自宅アパートで発見。その後、意識を取り戻したものの、過去の記憶を一部失っていることを確認。室内で発見された謎の紙切れとの関連を捜査中。昨今、若者の間で広がっている自己実験や、精神的儀式の可能性も視野に入れて……」



【1. 日常の中の死】


図書館の裏手の道を歩いていると、潰れた猫の死骸を見つけた。

毛並みは黒く染み、血は乾いて赤黒く固まっていた。


けれど、誰も足を止めない。

横を通る学生たちは、スマホを見ながら素通りしていった。


その数分後、干からびた蝉をうっかり踏んだ。

パリ、と音がした。まるで紙くずみたいだった。


こんなにも死は身近にあるのに、誰も気に留めようとしない。


──いや、見ないようにできているのかもしれない。



【2. わたしの儀式】


わたしは、21歳。

大学の図書館で、週4日アルバイトをしている。

返却本を棚に戻したり、閉館後に書庫を整理したり。

地味だけど、静かで、わたしには合っていると思う。


でも、週末だけは、ちょっとちがう。

わたしは、ある儀式を行っている。


最初のきっかけは、一冊の哲学書だった。

その日は閉館後、返本された古書の整理をしていた。


古びた背表紙に「死の哲学」と金文字で書かれた本。

ふと開いたページに、何かが挟まっていた。

ざらついた紙切れ。


色あせた鉛筆で、ただ一行、こう書かれていた。


「死ぬのが怖い。でも、生きるのはもっと怖い」


それだけだった。

著者のメモでも、利用者の落書きでもない。

挟んだ人も、いつのものかもわからなかった。


でも、それを読んだ瞬間、胸がざわついた。

“ああ、わたしも、これと同じ気持ちだったのかもしれない”と。


あの日から、わたしは週末になると「死の擬似体験」をするようになった。


やり方はこうだ。

金曜の夜から、何も食べない。

部屋を真っ暗にして、耳栓をする。

スマホの電源を切って、時計を隠す。

ベッドに横たわり、目を閉じる。

時間と外界を断つことで、感覚を徐々に消していく。


やがて、耳鳴りが始まる。

目の裏には、白と黒のもやのような模様が現れる。

幾何学のようにうごめくそれを、じっと見つめていると、

思考が静かに水底へ沈んでいく。


呼吸が浅くなり、意識が遠のいていく。

言葉がなくなり、自分という輪郭も溶けていく。

「死ぬ」って、きっとこういうことなのかもしれない。


限界までいったら、わたしは目を開ける。

光が刺して、部屋の色がやけに鮮やかに見える。

現実に戻ってきた実感が、全身に広がる。


──そう。


戻ってこられたのなら、だけど。



【3. 限界の向こう】


その夜も、いつものように儀式を始めた。

大学の疲れを引きずった体をベッドに横たえ、

部屋を真っ暗にして耳栓をつける。


時計もスマホも隠し、時間の感覚を消していく。


やがて耳鳴りが鋭くなり、目の裏に白黒の幾何学模様が踊り出した。

呼吸は浅くなり、思考はゆっくり水の底へ沈んでいくように静かになった。


「そろそろかな」


――そう思い、目を開けようとした。


けれど、まぶたが、指が、身体が、びくとも動かない。

口を開けようとしても声が出ない。


自分の身体が自分のものじゃないみたいで、何かが胸を締め付ける。

混乱する意識の奥から、誰かの声が聞こえた。


「もういいよ」


その声は冷たく、どこか遠くから響いてきた。



【4. 病室】


まぶたがゆっくり開き、白い天井が見えた。

消毒液の匂いが鼻をついた。

心電図のリズム音が静かに響く。


わたしは病室のベッドに横たわっていた。

視界の隅に、白衣の男性と年配の女性がいた。

女性は、母親のようにも見えた。


医師が話し始めた。


「椎名さん、聞こえますか?発見が遅れていれば危なかったです」


母と思しき女性は涙ぐみながら何か話していたが、言葉はぼやけて聞こえなかった。


「食事を摂らず、意識混濁のまま倒れていたそうです。呼吸も浅く、一時的に脳にダメージが残る可能性があります」


わたしはぼんやりと天井を見ていた。


数日後、看護師が聞いた。


「お名前、わかりますか?」


口を開いたけれど、声は出なかった。

そして、思い出せなかった。名前も住所も、何をしていたのかも。

まるで霧の中にいるようだった。


「大丈夫ですよ。ゆっくり思い出せばいいんです」


看護師の微笑みがわたしを包んだけれど、心の中は静かだった。

思い出せないことが怖くはなかった。むしろ、安心すら感じていた。



【5. 終章】


退院後も、記憶は戻らなかった。


再発行された保険証には「椎名美沙 21歳」と書かれていたけれど、

それが本当にわたしの名前なのか、今でも確信は持てない。


家族も知人も優しかった。

でも、そこに「わたし」はいなかった。


鏡の中に映るのは、知らない誰かの顔だった。

見つめていると、なぜか落ち着いた。


死ぬのが怖くて、儀式を始めたのに。

今は、その恐怖がどこにもない。


思い出すべき過去がなければ、失うことも別れもない。

だから、わたしはもう戻らなくていい。


けれど、夜になると――


部屋の隅で、誰かがじっとこちらを見ている気配がする。

声がしなくても、呼吸が聞こえなくても、確かにそこにいる。


あの声の主が、まだ見守っているのだと、わたしは知っていた。

部屋の隅に向かって、わたしは語りかける。


「もういいよ」


途端に、記憶が戻ってきた。

自分の名前や仕事はもちろん、

あの本にあった紙切れのメッセージ、


「死ぬのが怖い。でも、生きるのはもっと怖い」


全てをきれいに思い出した。


ほんとだね、

自分を思い出したら、この場にいるのが不安で不安でたまらなくなった。

どこかに隠れたい、でも、隠れる場所はない。


わたしはどうしたらいい?


そのとき、あの声が聞こえてきた。


「もういいよ」


もういいよ、ってそっちの意味だったんだ。

わたしなんて、もういらないってことか。


りょーかい。

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