四足族①
『四足歩行』
最初に地面へ手をついたときの感触を、俺はまだ覚えている。
冷たいフローリングに、掌の皮膚がじんわりと吸い付くような、あの感覚だ。
「ほら、ちゃんと四点で支えて」
母はそう言って、俺の腰を軽く押さえた。
当時、俺はまだ五歳だった。
二本の脚で立とうとした身体はぐらりと前に崩れ、反射的に両手をついた。
その瞬間、母は安心したように微笑んだ。
だから、それが普通だと思っていた。
俺たちが暮らすこの世界では、多くの人間が四足歩行で生活している。
今ではそれが「自然で、健康的で、社会に適応した姿勢」とされている。
だが、実際にそうなったのは、ほんの二十年ほど前からだ。
きっかけは一つの医学論文だった。
二足歩行は腰椎・股関節・膝関節に過度な負担をかける。
高齢化社会において、医療費削減のためには姿勢の最適化が必要と述べた。
ニュース番組はそれを「科学的知見」として扱った。
専門家は穏やかに頷き、キャスターは流れる映像を見ながら、
「確かに、立つのって疲れますよね」と笑いながら同意した。
最初は、一部の愛好家だけだった。
彼らは自分たちを「四足族」と名乗り、健康志向や合理性を語った。
テレビでは珍妙な存在として紹介され、スタジオは笑いに包まれていた。
誰もが別世界のことと位置づけ、警戒していなかった。
だが、時間が経つにつれて、確かなデータが揃った。
四足歩行の方が転倒率は低く、短距離移動も速い。
背骨への負担が分散され、腰痛の改善例も多い。
何より、数字は説得力を持っていたし、人間は数字に弱かった。
それが、どこから出てきた数字なのかを、誰も確かめなかったが……
多くの企業は、そこに目をつけた。
四足歩行用スーツ、耐久グローブ、関節補助具。
駅からエスカレーターは撤去され、低い手すりと床グリップが設置された。
いつの間にか、二足で立つ人間の方が、危険な存在になった。
赤ちゃんは、歩行訓練をしなくなった。
つかまり立ちやよちよち歩きは、育児書から消えた。
保育園では四肢を均等に使う運動が推奨され、
「二足歩行癖」は早期矯正の対象になった。
新たな制度まで導入された。
制度上の名称は、国民姿勢最適化基本法。
目的は医療費削減と身体の長期安全確保。
少なくとも、そう説明されていた。
『矯正対象』
俺の弟は、矯正対象だった。
弟は背が高く、よく立ち上がりたがった。
四つん這いよりも、二本の脚で遠くを見るのが好きだったらしい。
七歳のとき、学校から「指導報告書」が届いた。
母は泣きながら署名した。
父は黙って弟の足首に矯正具を巻きながら言った。
「しっかりと四足歩行になって、戻ってくるんだぞ」
弟は「姿勢適応支援施設」へ移送された。
町から外れた山の麓を切り開いて造られた、高さは低く横に広い建物だった。
窓はすべて地面すれすれにあり、立った視線にあるのは壁で中が見えない。
最初の一年だけ、面会が許された。
ガラス越しの弟は、以前より小さく見えた。
天井が低く、自然と背中を丸めさせる造りだった。
「立ちたくなる?」と聞くと、弟は少し考えてから首を振った。
「立つと、説明が始まる」
説明とは……
二足歩行が社会に与えた悪影響。
攻撃性、支配欲、戦争、犯罪。
それらを映像と数字で、何度も、何度も見せられる。
「そのうち、立ってる人を見ると怖くなる」
俺は返事ができなかった。
「気持ち悪くなるんだよ。でもね……」
弟は小声で話を続けた。
「説明してくれる人たちは、みんな立ってる」
その時、おれも気づいた。
施設職員は全員、二足で立っていた。
ただし、腰から下は机やカウンターで巧妙に隠されていた。
それが、「管理する姿勢」だった。
一年後、弟との面会は打ち切られた。
「安定した適応が確認されたため」とだけ通知が来た。
弟は、結局、帰ってこなかった。
『二足歩行者』
俺はそんな世の中に何とか溶けこんで会社員となった。
通勤電車では床のグリップを握り、四肢で体を支える。
車内に吊革は存在しない。
立っている人間は、危険要因とみなされる。
ある朝、駅構内で一人の男を見かけた。
彼は、平然と二足で歩いていた。
背筋を伸ばし、前を向いて歩く姿はかっこよかった。
周りの視線が集まり、誰かが端末を操作した。
男は、それに気づいていたはずだ。
それでも、歩みを止めなかった。
警備員が駆け寄り、男を床に押し倒した。
「抵抗しないでください」
その警備員は、立ったままだった。
俺は目を逸らした。
胸の奥が、ざわついた。
忘れかけていた弟のことを思い出した。
その夜、押し入れの奥から古い写真を取り出した。
幼い俺と弟、両親、俺と弟は、二本の脚で立っている。
両親は無表情で、俺たちは笑っていた。
写真を見つめながら、俺は無意識に立ち上がっていた。
足の裏に体重が集中し、背中が、怖いほどまっすぐになる。
視界が、遠くまで広がった。
部屋の窓は低く設置されているため、外が見えない。
俺はたまらずドアを開け、廊下から外を覗いた。
空を見上げると月があった。
星も、確かに瞬いていた。
俺はしばらくその景色を立って眺めていた。
こんな景色を、見ないまま生きてきたのか。
その時、玄関に向かってくる足跡が聞こえてきた。
「近隣から通報がありました」
駅で聞いたのと同じ、事務的な声だった。
俺は、ゆっくりと床に手をついた。
冷たい感触が、掌に広がる。
玄関の向こうには、複数の人影があった。
全員、立っていた。
「安心してください。あなたは、まだ治る側です」
その瞬間、理解した。
これはすべて間違っている。
その間違いに、全員が慣れてしまったのだと。
立つ者がすべて判断して、這う者は、ただそれに従う。
俺はその感情を口にした。
「これは一種の区別、いや差別だろ。なあ、そう思わないのか?」
警備員たちは、何も答えなかった。
彼らはみな立ち尽くしたまま、俺を見下ろしていた。
俺は、その後、何度も同じ言葉を繰り返した。
翌日のニュースは、短くこう伝えた。
「二足歩行による錯乱状態の男性が保護されました。周囲への危険はありません」




